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魯と孔子8ー楚、呉の浸透(2)

魯の東方、斉の南方に莒(キョ)という公国がある。
当時、山東半島の南部地域は斉、魯、莒の三国鼎立といった状況にあった。莒は、斉、魯それぞれと対立・和平を繰り返してきたが、晋楚の和平が実現する直前期には、楚と連携して魯と抗争していた。

魯の襄公が薨じた前542年、莒公である犂比公が暗殺された。
彼には二人の子がいたが、一人は母方が斉、もう一人は呉であった。父を暗殺し、新たなる莒公となったのは呉系の息子であった。
斉系の息子は、当然ながら斉に亡命した。

『春秋』や『左伝』など春秋戦国時代の史料において、姻戚関係が明示される例はそれほど多くない。数多の諸侯の膨大な姻戚の組み合わせを記していては、いくら竹簡があっても足りないだろう。ということは姻戚関係が明示される場合は、かなり特別な場合ということになる。
秦と楚が対晋で連携するようになっていた前561年、『左伝』には、秦の景公の妹が楚の共王妃であったことが明記されている。この姻戚関係が歴史的に見ても特別であったことを意味している。
かつての覇者、晋の文公の母は秦の人であった。上記の記事からは、文公の代から半世紀余りを経て、秦が楚との関係を深化させたこと、そして何よりも国際情勢の舞台が広域化してきたことを物語っている。

同様に考えてみると、莒という国の動きを見るだけでも、この数十年の国際情勢をめぐる舞台の拡大、複雑化をうかがい知ることができるだろう。
莒は、斉・魯と泗水東岸地域の覇権を争う中で、楚と連携しながら晋同盟傘下の魯を攻撃しつつ、南方の呉と姻戚関係を結んでいるのである。

前541年、魯では代替わりとなり、昭公が即位した。
同年、魯の季孫氏が莒の混乱を狙ってその邑に侵攻した。
ここで莒が助けを求めたのは、楚であった。楚は、魯の盟主である晋に、魯の代表である叔孫豹の処刑を要求した。だが、叔孫豹は処刑されることなく赦免され、魯は、莒の領土を奪うことにも成功している。これは筆者の想像に過ぎないが、そもそも呉との関係が深い莒を、楚が本気で助ける筋合いもなかったのではないだろうか。

この年、莒では、早くも斉系の息子が反撃に成功し、呉系の莒公は当然ながら呉に亡命しているのである。

*ヘッダー画像:Wikipedia「春秋」

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