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魯と孔子6ー晋・楚の和平と春秋後期

前545年、宋を仲介役として晋、楚の間で和平が結ばれた。この和平締結には、晋と対立してきた秦・斉も参列している。春秋中期の時代を動かしてきた晋楚の対立は、終焉を迎えたのである。

驚くべきは、晋がこれまで楚に加え、楚と連携していた秦、斉とも同時に渡り合って来たという事実である。晋そのものの強さもさることながら、同盟体制の強靭さにも注目させられる。
だが、この晋の武力を中心とした同盟関係は、晋楚の和平締結でその変質を余儀なくされていく。

翌年の前544年、晋の平公が、自身の生母筋にあたる杞という国の城塞建築の負担を肩代わりした。晋が負担するということは、その同盟国も負担を肩替わりするということになる。
この事案をめぐる同盟参加国の鄭と衛の大夫の会話が『左伝』に見える。
まず衛の大夫が、城塞構築の不満を述べると、それにうなずく形で鄭の大夫が、

晋は周王と同姓の姫姓諸侯を見捨てて夏王朝系の杞を支援している…

と不満を口にしている。
二人の会話から見えてくることが二つある。
一つ目は、それまで同盟諸国が、晋との同盟を周王室に連なる姫姓同士の互助組織として認識していたこと。そして二つ目が、これまで晋と諸国それぞれの実力者同士でリンクしていた同盟利権に加え、外戚を通じた国家君主の晋公を主体とする利権関係が出現したことへの反発である。

この話には続きがある。
同年、この杞の城砦建築の謝礼として、魯と杞の領土問題に介入した晋が、魯に有利な形で裁定を下している。この裁定に、晋の平公の生母である棹公夫人(杞出身)はもちろん反対するが、魯への配慮が優先された。こうして晋の援護を得た魯は、杞に有利な形で領土問題を解決した。
さて、この際、晋が杞よりも魯に配慮すべき根拠として、以下の二点が提示された。

1、 これまで晋は様々な小国を併合して版図を拡大してきた歴史がある。だからそもそも小国は併合されても仕方がない。小国が領土問題で妥協するぐらいは当然である。
2、 杞は、周王朝ではなく夏王朝の子孫であり、しかも東夷の礼を行っている。一方で魯は、周公旦の子孫で、晋に対しても定期の貢納を守ってきた。杞に配慮する筋合いはない。

さて、ここから重要な主張を読み取らねばならない。
一つは、晋が諸国の領域拡大を承認するような主張をしていること。
二つは、領土拡張の正当性として姫姓であることが主張されている点である。
三つは、国君ー外戚ラインと晋の国家意思とのズレが生じているという点である。

楚との対立が消失した中で、晋と同盟国は、これまでのような安全保障ではなく、それぞれが利権確保の正当化と、その実現に力を注ぐようになっていく。それは同盟関係の変質をもたらしていった。

この年、呉では君主が暗殺され、季札という人物が呉の代替わりの使者として各国を巡っていた。晋を見聞した彼は、平公を傲慢と評したうえで、趙氏、韓氏、魏氏の当主たちに権力が掌握されると予見している。

季札の晋という国家への評価はさておき、晋楚の対立が収束する中で、春秋時代は後期に突入していく。

*ヘッダー画像:Wikipedia「春秋」

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