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魯と孔子5ー三桓氏の利権抗争

宣公の後、成公(在位、前591年〜前573年)の治世に入ると、季孫行父、叔孫僑如、孟献子がそれぞれ三桓氏の当主として魯の軍事外交を主導していく。そして前575年、叔孫僑如は、宋で会合中の政敵の季孫行父を陥れようと、晋の実力者である郤犨(げきしゅう)に賄賂を贈ってその拿捕を依頼した。だが、晋国内でも氏族間の対立があり、季孫行父は無事に帰国する。そして逆に叔孫僑如は追放され、斉へと亡命することとなる。
叔孫僑如の狙いは季孫氏と孟孫氏の家産であった。

覇者の時代とは、覇者を中心とした富の流通の時代である。晋の覇者体制とは、晋による軍事的保護と引き換えに同盟国に軍事費を負担させる体制であった。後の前568年、晋への負担を大義名分として魯は、小国の鄶(しょう)を自らの附庸国(いわば保護国)に納めている。前559年、晋同盟側の呉が楚に大敗を喫すると、晋は魯の礼物を減額している。同盟の結束を固める必要性から晋が妥協したのであろう。
こうした軍事と貢納という国家間の富の循環と、政治力学が発生する中で、叔孫僑如が郤犨に賄賂を送ったように、国家を超えた氏族間の富の流通も発生した。
この時期、各国の実力者には二つの経済基盤があった。
一つは、君主から与えられた封土、要するに自領の税金である。
そしてもう一つが、国内外を結びつける軍事、外交上の手数料である。

手数料とは、あくまで本書の定義であるが、戦争での略奪も含めた上記のような個人間の賄賂も然り、とにかく国家の軍事外交でもたらされる個人の利益である。もちろん、その中には外交上正式な手数料も存在した。
かつて前578年、成公が周王のもとに赴く際、叔孫僑如は、周王からの特別な賞賜を期待して自ら先発の使者に名乗り出た。だが、いざ叔孫僑如が周王に謁見すると、期待に反して行人(今でいう一般的な外務官僚)として扱われてしまい、特別な賞賜はなかった。ところが、成公に従って後から朝見した孟献子は、君主の補佐役として手厚い賞賜を受けたと言う。この3年後、叔孫僑如は季孫行父、孟献子からの家産強奪に失敗し、魯を追われることとなった。
この逸話は、叔孫僑如がいかに強欲であったかを示す左伝の記事である。一方で、この記事からは、王国や上位国への使者として赴くと、ランクごとに賞賜が与えられていたことがわかる。そして、その賞賜がいかに重視されていたかを示す事例となろう。

前568年、三桓氏の権力闘争に勝利を収めた季孫行父が没した。いざ彼の葬式をあげてみると、彼の家には、絹を着た妾、穀物を食べる馬、金玉の収蔵といった富豪らしい生活の様子がなかったと言う。
こうした彼の生活ぶりについて左伝は、季孫行父が国家に誠実であったとして高く評価している。

さて、経済の原理原則として富(かね)が消えることはない。誰かの富が、また別の何者かの富と交換されただけの話である。季孫行父は三桓氏の中でも宣公、成公、襄公の三代に仕えた熟練の政治家であった。長年の軍事外交、それに伴う国内の政治調整の中で、想像を超える富が、彼のもとに集積されたことはまず間違いあるまい。
では、叔孫僑如が危険な権力闘争を仕掛けてまで奪おうとした季孫氏の富は、どこに消えたのであろうか?

*ヘッダー画像:ウィキペディア「孔子」

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