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魯ー孔子が登場するまで1

覇者とは、周王の権威のもとに諸侯の盟主となった者をさす。後世、その代表的な人物を五覇と呼ぶ。この五人には諸説あるが、斉の桓公、晋の文公はいずれの説においても必ずカウントされている。
この春秋時代に見られた諸侯の同盟体制は近年、覇者体制と呼ばれている。言うなれば同盟の中の実力者が盟主となる、ごくありきたりな概念かもしれない。ただ、むしろ繻葛の戦いに敗れて以降の周王による新たな統治概念と捉えることはできないだろうか。この間、覇者のおかげで周王は存続できたのか、あるいは周王が覇者を利用したのか…。結論は出ないだろうが、この後、前256年に秦に滅ぼされるまで存続し得たことは確かである。

城濮の戦いの後、晋は西方の秦との抗争を開始している。また、この頃になると衛や鄭も晋の同盟に参加するようになり、前624年には魯もこの同盟に入った。

前612年、斉がふたたび魯の西部に侵入する事件が起きた。また、斉は同時に魯と結んだ曹に対して攻撃を仕掛けている。明らかに晋の覇者体制に対する威力偵察である。前610年にも同様の行為が繰り返された。
そうした斉魯の関係が不安定化しつつある中、斉と魯はどちらも君主の世代交替が起きた。

魯で後継をめぐる混乱が起こると、前608年、斉が推す宣公が魯で即位した。この際、魯の済西の田と呼ばれる土地が斉に割譲されている。
この時期、覇者の晋は国内が不安定化しており、前607年には晋の霊公が逆クーデターで殺害されている。こうした情勢下において、南方の楚が再び強大化するのであった。とくに楚と黄河流域諸国との緩衝地帯となっていた鄭、陳は、楚と晋との間で外交関係は不安定化し、晋楚両大国の報復を受けてはどちらかに転がるという事態となっていた。

前600年前後、斉と魯は友好関係にあったと言って良い。両者はその代わりに周辺小国への介入を盛んに行っている。前599年には、済西の田が魯に返還された。
前597年、鄭、陳をめぐって折衝を繰り返していた楚と晋が直接衝突した。ヒツの戦いである。この戦いで晋は大敗を喫し、晋の覇者体制に属していた宋と衛が衝突、同盟は崩壊しつつあった。この中で前594年には、魯は宋を攻める楚のもとに使者を送っている。再び楚への接近を図っていた。この年、魯は国内でも税制改革を行い、初めてほごとに税を課したという。

この頃、それまで緩衝地帯であった宋、鄭、蔡、陳が明確に楚連合に入っていた。前592年には、同盟の再編を図る晋のもと、魯は再びこの同盟に参加している。この際、晋は斉を同盟に取り込もうとするが、斉の晋の使者に対する態度への報復として、斉の同盟への参加を拒否した。斉もまた晋に対して挑戦的立場に立ったと言える。翌年、前591年には晋・衛連合軍が斉に侵攻、斉を屈服させている。
前590年、魯では代替わりがあった。この年、斉と楚が結んだという情報が駆け巡る。これに対応すべく魯は、対斉戦を喧伝して丘甲の制と呼ばれる兵役の改革を行い、戦力の増強に努めている。

*ヘッダー画像https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AConfucius_Statue_at_the_Yushima_Seido.JPG

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