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晋の覇者体制と魯

魯の北西に、衛という国がある。黄河南岸地帯および殷の遺領である黄河北岸地帯に跨がる公国である。衛は、斉の桓公が主宰する対楚同盟に参加し、その後の宋の同盟にも参加していた。だが、宋の対楚同盟が瓦解すると、魯と同盟を結び、前634年、斉が魯の北西部に侵攻すると、衛はこれを救援するために斉に攻撃を仕掛けている。
前633年、先述したように魯が楚連合の宋包囲戦に参加した。この際、後継者争いを制して文公が即位した北方の晋が、宋を救援しよとした。ここで衛は晋の進軍を妨害する。すると晋は、衛を攻撃し、衛の成公は楚に救援を求めた。
この流れからも明らかなように、この時期、衛と魯のラインが楚の影響圏に入っていた。黄河中下流域を分断する巨大地域に楚が侵食してきたことにある。この状況下において、晋は斉と結び、これに西方の秦が加わった。この頃、秦は五覇に数えられる穆公の治世で、晋の後継者争いに介入して文公を即位させることに成功していた。
晋、斉、秦連合軍は、衛を救援すべく進軍していた楚と激突する。紀元前632年、城濮の戦いである。この戦いで大勝した晋は、黄河流域諸国の盟主として君臨していくことになる。

前627年、斉の桓公から晋の文公の死まで、時代の転換期を駆け抜けた魯の僖公が没した。33年の長期にわたる治世であった。
この後、魯は晋と斉、楚、さらに南方から突如として台頭した呉との間で、自己の存続をかけた国家戦略に望むこととなる。

*ヘッダー画像:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3A%E6%98%A5%E7%A7%8B%E8%AF%B8%E4%BE%AF%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E7%AE%80%E5%9B%BE.png

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