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魯と孔子19ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(11)ー勝者は誰か

この「牛人」の陰謀の勝者は誰だったのであろうか。
結果論で言えば、叔孫鄀(しゅくそんじゃく)と季孫宿(きそんしゅく)であろう。

叔孫鄀は、庶子であった。だが、豎牛の陰謀で上にいた2人の嫡子が、いずれも死亡したのである。
そして、豎牛によって担ぎ出された。まさに棚ぼたである。
結果論であるが、叔孫鄀は、豎牛をギリギリまで利用しながら、全ての業を彼に背負わせ、当主の座が確定した瞬間にこれを切った。
『左伝』において、孔子は、叔孫鄀のこの決断を称賛している。
これは、筆者の感想であるが、叔孫鄀の最も狡猾な部分は、ありとあらゆる大義名分が揃う瞬間に動いた点にあるのではないか。

次に、季孫氏の勢力を拡大させた季孫宿について考えてみよう。
叔孫豹が餓死させられた直後、季孫宿が主導する形で、軍制改革が行われ、中軍が廃止された。
これにより、魯公の直轄兵力は失われ、三桓氏が経済、軍事を完全に独占する状態となった。
また、これにより季孫氏は、三桓氏の中でも突出した勢力を保つことになる。
さらに彼は、叔孫氏のお家騒動に介入することもなく、その混乱を黙殺した。
国家内のバランスではなく、季孫氏の勢力拡大を優先していることは明らかであった。

さて、この2人の勝利の陰で、あることが明らかとなった。

家宰の強大化である。

叔孫豹を餓死させた豎牛。
魯の国防の要衝にして季孫氏の邑である費の宰である南遺(なんい)。
そして、その南遺に取り入って季孫氏に潜り込んだ叔仲帯(しゅくちゅうたい)…

三桓氏は、軍事外交という国家運営の技術を世襲独占することで、魯の権力を掌握していった。そして、三桓氏の強大化と同時に、今度はその家臣たちが比例する形で強大化しつつあったのである。

晋・楚和平の実現により、魯を取り巻く国際情勢が安定した中で、魯の軍事外交ツールとして機能してきた三桓氏は、変質しつつあった。
対外的な脅威という国家的目標を失い、自己勢力の強大化という目的で、三桓氏とその家臣たちは一致したのである。
これが、「牛人」をめぐる混乱の背景であった。

そして、この変質した三桓氏に対して強い危機感を抱くものが現れる。
魯の国君、昭公である。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」



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