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魯と孔子15ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(7), 叔孫豹に捧ぐ

前537年正月、魯では三軍のうち、中軍の廃止が決定された。
事前の議論とその取りまとめは、それぞれ施氏と臧氏の邸宅で行われた。
いずれも三桓氏ではない比較的小さな氏族である。今回の軍制改革は、魯国内の大きな利権調整となるため、三桓氏とは中立的な、影響力が小さい氏族の邸宅が選ばれたのであろう。

季孫氏、叔孫氏、孟孫氏は、いずれも三桓氏としてまとめられるが、その勢力格差は年々広がっていたようである。
今回の中軍削減において、それに伴う魯公直轄領の三桓氏領への編入は、季孫氏が2分の1、叔孫氏と孟孫氏は残り4分の1が割り当てられた。

この割り当てから類推するならば、魯国内の利権は、すでに季孫氏が、ほぼ過半を占めていたことがうかがえる。
では、なぜこれほどまでに季孫氏に有利な条件が通ったのか?
一つは、季孫宿の前代にあたる季孫行父が、叔孫氏との権力闘争に勝利したこと。そして、二つは、費といった対斉戦の要衝を押さえていたことから、魯国の軍事において大きな役割を担ってきたことが挙げられる。

とにかく、この軍制改革によって、魯では2つのバランスに変化が生じた。
一つは魯公の君主権力基盤と三桓氏とのバランス。
二つは、三桓氏同士のバランスである。
では、これがどのような影響を魯の歴史にあたえていくのか、見ていこう。

政治的勝利を挙げ、季孫氏の利権を増大させた季孫宿は、この中軍廃止の報告を叔孫豹への弔いにしようと考えた。
そこで、季孫宿は、叔孫豹の棺に捧げる策書を、叔孫氏の家宰の杜洩に渡したのであった。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」

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