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魯と孔子11ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(3)ー南遺という人物

叔孫豹が没した前538年、叔孫氏を掌握した豎牛(じゅぎゅう)は、ある人物に接触を図った。
季孫氏に仕える南遺(なんい)という人物である。
南遺が何者であるのか、話は前566年まで遡る。

季孫氏が有する封邑の一つに費という邑がある。
魯にとっては対斉戦の要衝に当たる、重要な邑であったと思われる。もちろん、季孫氏の当主が直接治めるわけにはいかず、宰と呼ばれる代官が直接的な統治を行なっていた。
この費の宰は、季孫氏に仕える南氏という氏族に委ねられていたようである。そして、前566年時点での費の宰が、南遺であった。

当時、ある男が季孫氏に媚を売ろうと、一計を案じて南遺に接近してきた。その男は、土木事業に関わる人夫を手配する権限を有していた。
そこで、当時の費の宰であった南遺にこう伝えた。

費に城壁を築きたいと主君の季孫宿に要請してほしい。
人夫の手配は私がなんとかします。

そして前566年、費が城塞化された。
詳細な記載に乏しい『春秋』が「費二築ク」と記すほどであるから、かなり大規模な強化が行われたと見るべきだろう。

当時、魯をめぐる情勢は緊迫していた。東方の斉は山東半島の莱を滅ぼしており、次にその軍事力が魯側に向かうことは当然予想された。
また、費が城塞化される前年の前567年には、やはり魯と対立する莒が、魯の属国であった鄶(しょう)を滅ぼしている。魯が軍事的に劣勢であったことは明らかであった。
費が城塞化された同年、衛の孫林父が使者として魯を訪れた。彼は、当時の魯公であった襄公に対面すると、あたかも自分と同格であるかのように振る舞い、襄公を補佐していた叔孫豹を怒らせている。こうした衛の無礼な外交姿勢もまた、魯の国際的地位の劣位化を物語っていた。

前566年の費の城塞化は、現地の宰の主導で行われた。魯の軍事的劣勢の中で、三桓氏の実働部隊を率いる家宰が、魯の国内で大きな力を持つようになっていたことを象徴している。

南遺は、ある意味において、豎牛の先駆けであった。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」



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