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魯と孔子16ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(8)ー突然の帰国

季孫宿は、叔孫豹(しゅくそんひょう)の忠実なる家宰であった杜洩(とせつ)に、叔孫豹の棺の前で中軍廃止の報告を行わせようとした。

長年、叔孫豹に仕えた杜洩は、状況を理解した。
季孫宿と叔孫豹の間で交わされた三軍制を変更しないという盟約。それが勝手に破棄されたことは、明らかであった。
杜洩は、季孫宿から手渡された策書(竹簡)を投げ捨てると、部下を引き連れて叔孫豹の棺の前で号泣した。

そして、杜洩と叔孫氏にとって、さらに屈辱的なことが行われた。
例の豎牛の工作を受けていた叔仲帯が、季孫宿にこう言い出した。

私は、叔孫豹から「変死者を葬る際は西門から遺体を送り出せ」と聞いています。

納得した季孫宿は、そうするように杜洩に命じた。魯の元勲である叔孫豹の遺体を変死者として扱おうとしたのである。
杜洩は、季孫宿に対して怒りをぶちまけた。

卿の棺は南門から出棺することが魯の規定である。
アナタは国政を握りながら規定を勝手に変えてしまう。
われらは殺されても、そのような命令には従わない。

叔孫豹の葬儀が終わると、杜洩は魯を出国した。
叔孫氏筆頭の家宰を、事実上追放することに成功した。
豎牛の思惑通りとなった。

ところが、ここで誤算が生じる。
斉に逃れていた叔孫豹の息子が斉から帰国したのである。
この息子とは、もちろん、豎牛の離間工作によって父親の叔孫豹自身の手で兄弟を殺された、あの息子である。
ちなみに彼の名は仲壬(ちゅうじん)と言う。
ここまで、前537年のことである。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」

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