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魯と孔子7ー楚、呉の浸透(1)

前542年、魯の襄公が薨じた。その治世は31年にわたり、三桓氏の執政のもとで魯の象徴として君臨した。
襄公の魯は、三桓氏の主導体制のもと、晋の覇者体制を巧みに利用しながら、斉の圧迫を凌ぎ、その治世後半には版図拡大に成功した。もちろん、結果論ではあるが、魯の国君としての役割は果たせたのではないだろうか。

この年、襄公は楚から帰国したばかりであった。
晋楚の和平が実現した後、宋、陳、鄭、許といった晋楚の間に立たされ続けてきた諸国の君主たちとともに楚に赴いていた。
楚で何を感じ取ったのであろうか。帰国した襄公は、亡くなる直前に楚方式の宮殿を造営している。これまでには見られない、楚の文化的影響力の浸透を示唆する出来事である。
また、『左伝』には、続けて次のような記事が見える。

この年、晋と同盟の会合に魯の代表として叔孫豹が参加した。
彼は帰国後、晋の趙文子(当時の晋の執政)の命は長く持たず、さらに晋公の君主権力の弱体化を予測した。そこで、韓宣子(晋の次期執政候補)との友好関係構築を、魯の孟孫氏の当主である孟孝伯に急かしている。
叔孫豹の提言で注目すべきは、その急ぐ理由の一つに以下のことあげている点である。

斉と楚があてにならない

このような発想を明からさまに表現すること自体が、魯の外交上の選択肢に楚との連携が常に含まれるようになっていたことを示唆している。

襄公の宮殿造営と叔孫豹の提言は、晋の覇者体制に組み込まれていた魯に、楚の無形の影響力が浸透しつつあることを物語っていた。

*ヘッダー画像:Wikipedia「春秋」

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