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魯と斉・宋の対楚同盟

◆前回:https://note.com/mitsumahirohiko/n/nf7ed1b8b8f21

前686年、斉の後継者争いで桓公(後に五覇に数えられる)に敗れた公子糾が、魯に亡命するという事件が起きる。翌年には桓公率いる斉と魯は軍事衝突に至り、魯は敗れ、公子糾を殺害することで斉の桓公に屈した。
この後の前681年、斉と魯の会合の場で魯の曹沬が桓公に匕首を突きつけ、先の戦いで奪われた領土を奪還したのというのは、『史記』刺客列伝にも遺る有名な故事である。

黄河流域諸国が楚の脅威にさらされる中、斉の桓公に屈服した魯では、前662年に荘公の死と共に即位した斑が暗殺され、その後を継いだ閔公も在位2年で暗殺されるなど一時的に不安定な状態に陥った。だが、前659年に僖公が即位、前627年に至る33年という長期の治世の中で魯と斉の関係は安定いる。この両者の友好を現出したのは長江中流から北上を開始した楚の存在であった。

曹沬が桓公を脅した事件から15年後の前666年、この頃から楚は頻繁に鄭を攻撃するようになった。かつて周王の親征軍を打ち破り、魯の西方の大国であった鄭は、黄河流域諸国と楚との緩衝地帯と化していた。
この鄭を救援すべく斉の桓公を中心とする対楚同盟が結成された。桓公に屈服していた魯も、当然その同盟に参加した。前654年には、同盟を裏切り楚についた鄭の討伐に、斉を中心とする同盟軍とともに魯も僖公自ら参戦している。また、前645年には、泗水と淮水が接続する地域の徐も楚の侵攻を受け、徐の救援する同盟軍に魯も参加している。
だが、この同盟は、前643年、桓公の死とその後の斉の後継者争いによって崩壊した。

魯の南方には、宋がある。斉の対楚同盟に参加していた宋は、斉の後継者争いに介入するため、桓公の死と同年に諸侯連合を率いて斉に進軍している。この際、魯は斉に救援軍を出しており、反宋の立場を明確にしている。

宋の襄王は、自身と関係が深い太子昭を斉の孝公として即位させることに成功すると、前639年には斉、楚両大国の取り込みも視野に入れた新たなる同盟を結成した。だが、強大な楚の取り込みに失敗し、関係はすぐに破綻する。前638年、宋と楚は、泓水の戦いで激突、宋は大敗を喫する。この際に残された故事が宋襄の仁である。

この翌年には、宋と友好関係にあったはずの斉が、宋を攻撃している。斉が主催する新たなる同盟への参加を宋が拒否したためであった。斉は、前634年に魯の北西部にも侵攻しており、覇権的姿勢を明確にしている。ここで魯は、楚に救援を求める。翌前633年は、楚を中心とする鄭などの連合軍が宋を包囲すると、魯はこの楚連合に参加している。
斉、宋による対楚同盟は完全に瓦解したのである。

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