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『孟子』28公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(5)助長~浩然の気の育て方

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公孫丑はたずねた。

「では、あえてお尋ねしますが、先生は、告子と比べて何が優っておられるのですか。」

孟子は言った。

「私は、他人の言葉をよく理解する。それに私は、きちんと自分自身の浩然の気を修養していること…かな。」

公孫丑はたずねた。

「さらにあえてお尋ねしますが…、浩然の気とはどのようなものなのでしょうか。」

孟子は言った。

「言葉で表すのは難しいな…。

浩然の気とは、つまり、私自身も含めて天地にみなぎっている気、という意味だ。
さて、気というものは、極めて巨大なものだし、極めて強いものだ。
正しく育て、減らすことがなければ、天地の間に満たされていくものだ。

気は、まず義と道に、発生する。
この義と道に、気を行き渡らせなければ、人が空腹で飢えるのと同じように、気が抜けて空っぽになってしまう。

気は、多くの義が集まって発生するものだ。
だから、その場限りの義にしたがったふるまいを、すこし行ったからといって、そのような一時的な義から取ってこれるようなものではない。

そして、人が義にしたがった行動をとって、心から満足できなければ、気は抜けてしまう。

*ここの孟子の説明は、訳者も読んだときによくわからなかったので、補足します。
義と道とは、自らを正そうとする心がけ(義)と、世の中の真理(道)を意味します。
孟子は、この二つの概念にもとづく行いから、人体のエネルギーである気が発生すると考えました。そして、その人が、その行動の結果として、心から達成感や、満足感を得たときに、その人を構成する気が成長していく、と言っています。


私は、だから言うのだ。
告子は、いまだに義を理解していないとね。
なぜなら、告子は、心そのものである義を、自分自身の内側ではなく、外にあるものと考えているからだ。

さて、だからこそ必ず、気を養うことにつとめなければならないというわけだ。だが、いつまでに、などと焦ってはならない。心に忘れてはならないが、だからといって無理に助長しようとしてもいけない。
宋の人のようなことをしては、ならないのだ。

宋の人に、苗が成長しないことを心配して、無理に引っ張った者がいた。そしてクタクタになって帰ると、家族に向かって言った。
〈今日は疲れた。私は苗が伸びるのを助けてやったんだ。〉
話を聞いていた彼の子どもは、慌てて走り出し、苗の様子を見に行くと、苗は枯れていた…。

さて、天下で苗を無理に助けて伸ばすような無謀なことはやめておこう、という者は少ない。
かと言って、気を養うことなど意味が無いと言って無視する者は、苗の周りの草むしりをしないのと、同じことになってしまう。
とにかく、気の成長を無理に助けようというのは、苗を引っこ抜いてしまうのと同じだ。役に立たないどころか、むしろ害悪ですらある。」

*今回は、「助長」の出典です。
現在では、悪いものを「増長」させるという意味で使われますが、本来的には、「余計なお世話」という意味で覚えておくと良いと思います。

*以上、『孟子』28公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(5)助長

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【原文】
「敢問夫子惡乎長。」曰、「我知言、我善養吾浩然之氣。」「敢問何謂浩然之氣。」曰、「難言也。其為氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之閒。其為氣也、配義與道。無是、餒也。是集義所生者、非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。我故曰、告子未嘗知義、以其外之也。必有事焉而勿正、心勿忘、勿助長也。無若宋人然、宋人有閔其苗之不長而揠之者、芒芒然歸。謂其人曰、〈今日病矣、予助苗長矣。〉其子趨而往視之、苗則槁矣。天下之不助苗長者寡矣。以為無益而舍之者、不耘苗者也。助之長者、揠苗者也。非徒無益、而又害之。」

*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」

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