見出し画像

魯と孔子12 ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(4), 魯の軍制改革

中島敦「牛人」の物語の結末は、叔孫豹の餓死である。
落とし子の恨みか、もっとどす黒い何かがあるのか…、
魯の元勲である叔孫豹は、小姓として可愛がった豎牛(じゅぎゅう)によって餓死させられたと伝わる。前538年のことである。
では、この叔孫豹の死は、魯国の歴史、ひいては春秋時代の歴史においていかなる意味を有するのであろうか。

叔孫豹が軍事外交に活躍していた前562年、季孫氏の当主である季孫宿が軍制改革を提案した。
この提案に従い、魯では軍制改革が行われた。『左伝』によれば、以下のような二つの大きな変更があったと言う。

① 魯軍の増強、再編
従来の二個軍団から三個軍団(三軍)に再編。
それぞれの軍団長に三桓氏の当主たちが当たる。そして、魯軍の中核であった魯公の親衛隊も三分割して三軍団それぞれに組み込む。

② 兵力動員基盤の再編
季孫氏の領地で軍籍にある者は、季孫氏に納税すれば魯公への税を免除する。逆に季孫氏に納税せず、魯公に納税する場合は魯公への税額を倍額とする。
孟孫氏は領地人口の4分の1、叔孫氏は領地人口の2分の1を自らの臣下とする。これら諸策の適用に例外は認めない。

春秋時代、「三軍」は、とくに晋の軍団編成として頻出する用語である。つまり、晋クラスの動員能力を有する国家が編成可能な軍団数を示している。
もちろん、魯の最大動員兵力で、晋クラスの動員は不可能であろう。ただ①において魯が、いかに大幅な兵力拡大を行ったのか、をうかがい知ることはできる。また、軍の指揮系統が三桓氏に集中されるとともに、②その兵力基盤も三桓氏に編入された。実質的に軍事外交を担当する三桓氏に、軍事能力を集中させることで、柔軟な軍事活動ができる体制を目指したものと思われる。

さて、前566年の費の城塞化、前562年の軍制改革と、魯では4年という短期間で大幅な軍事力強化が行われたことになる。

一連の軍事力強化の背景には、魯と、そして魯の盟主である晋をめぐる国際情勢の緊迫化がある。
前564年から前562年には、楚が、黄河流域諸国との緩衝地帯である鄭を降し、さらに宋への攻撃を開始している。また、楚と連携して秦も晋に攻撃を仕掛けていた。
東方の斉や莒が対魯戦にシフトしていたことは前回述べたが、この2カ国が魯の背後にいる晋の動向を見ながら躍動していることは明らかであった。
こうした情勢下、国際情勢に柔軟に対応するためやむなしとして、魯の軍制改革は決定されたのである。

とは言え、軍の指揮系統だけでなく、兵力基盤が三桓氏に組み込まれたことは、魯公の君主権力が大幅に弱体化することを意味した。

叔孫豹は、国家を守るうえで魯公権力と三桓氏とのバランスを常に意識していたようである。
提言者の季孫宿に対して、叔孫豹は、さらなる制度の変更によって魯公の親衛隊(あくまで指揮系統が三桓氏に渡っただけで、いまだに兵力基盤は魯公直轄)が解体されないように盟約を交わした。

さて、長くなった。
話を戻そう。
前538年、叔孫豹を餓死させた豎牛は、季孫氏に仕える南遺(なんい)と連携しながら、この三軍制度に介入しようとしていた。

*春秋左氏伝はこちらから
https://amzn.to/3h8s7c1

*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?