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魯と孔子17ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(9)ー豎牛の勝利, そして…

前537年、叔孫豹の葬儀が終わると、斉に逃げていた仲壬(ちゅうじん)が帰ってきた。彼は、叔孫豹の息子である。
豎牛が擁立した叔孫鄀(しゅくそんじゃく)はあくまで庶子であり、この仲壬こそが生き残った嫡子であった。
そこで、季孫宿は、彼を叔孫氏の当主にしようとした。

仲壬が当主となれば、豎牛は終わる。
豎牛を援護するべく、南遺(なんい)は、叔孫氏の後継者争いに関わらないことを主人の季孫宿に勧めた。

叔孫氏が厚くなれば、季孫氏(こちら側)は薄くなります。

この意見に考えを変えた季孫宿は、仲壬を見捨てることで、叔孫氏の弱体化を図った。そして、季孫宿を説得することに成功した南遺は、国内の諸勢力に命を下し、仲壬を殺害した。

さて、晴れて仲壬を始末した豎牛は、謝礼とばかりに、叔孫氏の邑30箇所を南遺に贈った。
豎牛は、自分が叔孫氏を完全に掌握したと思ったのであろう。
だが彼の行為は、叔孫氏の立場からすれば、後継者争いで家中に混乱をもたらしたばかりか、領地まで失わせた挙句、他家を強化する手助けをしたに他ならない。

豎牛は肝心な点を見落としていた。
そもそも自分の傀儡にするつもりだった叔孫鄀の方が、実際には強い権力を有しているという、当たり前の事実である。

しかも、その傀儡が自分の意に沿わない行動をとった場合の保険を、何一つ用意していなかったのである。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」

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