第38回 労災保険における事業主側からの不服申立ての可能性と問題点(1)

1.労災メリット制とは?
 労働者が業務に起因する過労死や精神障害であると認定され、労災保険が適用されることになった場合、当該労働者が勤務していた会社の労災保険料率は引き上げられる可能性がある。通称メリット制と言われる同システムは、3年以上の労災保険適用歴がある一定規模以上の会社に適用されるもの(「特定事業主」という)であるが、その引き上げ率は、場合によってはかなり大きなものとなる。制度の詳細は省略するが、メリット料率が適用されることとなると、保険料はおおむね40%まで増減することとなる。事故が少なければ保険料が安くなり、事故が多ければ保険料が高くなるのは、自動車の任意保険などと同じであり、事故予防の意識を高めることとともに、業務災害を引き起こす危険な会社には高い保険料を課すという制裁的な意味もある。事故率と保険料が相関性を持つ事は、損害保険が適正に運営されるための必須事項であり、その意味においては、労災保険制度が同システムを取り入れていることは当然であるといえる。ところが、労災保険においては、自動車保険とは決定的に異なる2つの特徴があり、メリット制はいくつかの問題を含むものとなる。

2.メリット制にはらむ問題点
 第1に、交通事故の加害者は、保険を利用せずに被害者と和解することは可能であり、また警察に届け出ることも絶対的な義務とはされていないが、労働災害の場合には、事業主は労働基準監督署(以下「労基署」という)に届け出る義務があり、これを隠しておくことは許されない。ところが、事業主によっては、保険料が引き上げられることを嫌い、健康保険や自費で治療費を支払うなどして、事故を隠そうとすることがある。上記のように、保険料の上下幅が大きいことと、事故発生が役所の仕事の指名停止に繋がるなど、様々な事情がこうした事故隠しを助長することとなる。
 第2に、交通事故は、一般的には本当に事故が発生したか否かについて争いは生じないが、労働災害の場合には、それが真に業務に起因して発生した災害であるか否かについて争いが生じることがある。交通事故においては当事者の過失割合等において意見の相違があれば、両当事者とも裁判によってこれを争うことが可能となるが、労災保険制度においては、被災労働者が負った傷病が業務上の災害であるか否かは労基署が決めることとされており、被災労働者はこれに不服がある場合には不服申立てをし、さらには提訴も可能となるが、保険料を支払っている事業主は業務上であるとの判断が下された場合、これに不服があったとしても不服申立てや提訴はできないこととされている。
 今回及び次回の2回にわたって、後者の問題である事業主による不服申立てができないとされている理由とその問題点、そして、裁判例により、こうした状況に変化が生じつつある現状と今後の展望等について話をしていく。

3.事業主の不服申立て権を否定する通達
 労災保険制度において、審査請求の対象となる処分及び請求適格については、過去何度かにわたって局長通達が出され、労基署に通知されている。初期に出された通達の一つ(基発第428号・昭和33年7月8日)によると、要旨、メリット制適用事業場の事業主が、従業員に保険給付が行われたことにより保険料に影響が生じることは、保険給付による直接的な効果ではなく、法に基づく料率変更に伴うものであることから間接的なものであり、保険給付に関する利害関係者とは認められないため適格性はないと説明している。しかし、この論理は全く詭弁であり、保険給付の発生により料率変更が行われ、その結果として高い保険料を支払うことになったとすれば、当該料率変更の原因となった保険給付の支給に関して事業主が利害関係にあることは明白であろう。昭和33年段階においてこうした通達が出されていることは、事業主から不服申立てが行われることは十分に予想されていたことの左証ともいえるが、労災保険制度を運営する厚生労働省(当時の労働省)にとっては、こうした不服申立てが行われることは、制度上様々な不都合をもたらすものであり、容認できなかったと考えられる。

4.迅速性が損なわれる可能性
 労基署において業務上との判断が下された際に、使用者からの不服申立てを認めた場合の最大の問題点は、労災保険法第1条がその目的として掲げる「迅速かつ公正な保護」のうち、少なくとも迅速性については大きく損なわれる可能性が高いという点にある。使用者から不服が申立てられる可能性があることを想定すると、労基署の判断は、証拠収集や意見聴取においてより慎重にならざるを得ず、また、実際に不服が申立てられた場合には、審査ないしは再審査による判断が示されるまで、給付を一時的停止するといったことにならざるを得ないかもしれない。この点、「かもしれない」と述べたのは、こうした問題について、学会及び実務において検討された形跡はなく、いかなる事態が生じるかは予想の域を超えないのである。15年程前(2007年)、私は労働法学会にて、使用者側からの不服申立ても認められるべきだとの報告をしたが、その際には誰からの指示も受けられず、研究が深められることもなかった。

5.事業主からの審査請求が引き起こす問題
 例えば、労基署が「業務上の災害である」と判断し、休業補償給付を支払うと決定したケースについて、事業主が労災保険審査官(以下「審査官」という)に不服を申立てる(審査請求する)という事態を想定すると、以下のような経過をたどるものと考えられる。審査官は独任官であり、その判断については、同都道府県の労働局長でさえ口出しをすることはできないものの、審査請求がなされたことは判断資料収集の必要性もあり、当該判断をした労基署に伝達される。同労基署においては、休業補償給付の支給を始めていた場合、これを停止するかそのまま継続するかの判断を迫られることになろうが、未だ取り消されていない以上、「業務上」とした処分は有効(公定力を有する)であり、おそらく継続支給されることとなろう。しかし、処分取消しの判断が出た場合には、支給された休業補償給付は回収されることになるため、事前にその旨の教示を行っておく必要性は生じる。つまり、事業主に利害が生じるすべての労災保険給付は、実際に支給される段階において、審査請求、再審査請求、もしくは裁判によって取消の判断が出された場合には、回収される可能性がある旨の教示を行うことが必須となるのである。
 さて、審査請求において、原処分の判断が取消されたとしても、これを不服する被災労働者が労働保険審査会に不服申立てをした場合(自らの審査請求に対する判断でない場合に、こうした再審査請求が可能となるのか否かも現段階では不明)、回収された保険給付が再度被災労働者に戻されるという可能性も生じる。そして、こうした不服申立て合戦が裁判にまで至ることがあると考えると、被災労働者の迅速な救済などはほぼ不可能ということになるであろう。

6.審査・再審査段階での混乱
 審査請求や再審査請求における手続きも、おそらく混乱することとなる。事業主から不服申立てが行われた場合、被災労働者ないしはその遺族は利害関係者となるため、審理に際しては参加を促すこととなろう。すると、審理の場は、形式的には事業主対原処分庁という図式ではあるものの、実質的には事業主対被災労働者(もしくはその遺族)という様相を呈する可能性が高い。証明責任に係る原則を欠く労災認定実務において、両当事者の意見について、いかなる視点をもって事実認定に至るのか、法律家が関与する労働保険審査会はまだしも、審査官は相当に厳しい立場に追い込まれるものと考えられる。

7.精緻さに欠ける判決
 上記問題は一部であり、業務外認定等について事業主に不服申立て適格を認めると、その他にも難解な問題が山積する。私はそうした困難を承知の上で、これを認めるべきであると主張してきたところであるが、実は近年、こうした申立てが増えており、裁判所や行政不服審査会は、同適格が事業主に認められるべきとする判断をいくつも示してきているのである。もっとも、これらの判決等は、結論においては私と一緒であるものの、生じ得る問題点を理解しているとは思えず、やや精緻さに欠けると評価せざるを得ない。上記のように、実務における影響は甚大であり、事業主にこうした適格を認めるためには、様々な法制上の準備が必要である。次回、判決等の内容とその問題点、そして、何をどうすべきなのかについて言及していく。

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