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お知らせと補遺
お知らせ
稀風社の6月新刊『bouquet, 2020』に、小峰さちこ「「スイミング・スクール」を読む」を寄稿しています。2020年7月のあいだにかぎりBoothで頒布されているらしいです。
今回はかみはるさんにすごい企画(鈴木ちはね特集)を組んでもらいました。恐縮ですが、面白い本になったと思いますので、なにとぞよしなに……
— 予言 (@suzuchiu) June 14, 2020
「bouquet, 2020」(第30回文学フリマ東京新刊) - 稀風社ブログ https://t.co/ZxmnyooVdk
あと、正誤的なやつ
bouquet, 2020の拙稿なんですけども、短歌の引用をミスっている箇所があるっぽいです
— 愁訴 (@shinabitanori) June 29, 2020
誤「どうやって食べたのかわからない」
正「どうやって食べたかわからない」
心の目で読んでください
補遺1
書いた文章のなかでふみがわさんのブログ記事の内容について言及し、それについてご本人からコメントいただきました。
「bouquet,2020」における小峰氏、杉本氏の論への応答 https://t.co/8lc8nMbDHs 肉を切らせて寿司を食う
— ふみがわ (@ren_fumigawa) June 30, 2020
以下、そのコメントについてのコメントです。
「よろこびがある」という言い方は喜びという感情があるということとは本質的に違うことに言及しているというのは、私の読みの直感としてあります
— 愁訴 (@shinabitanori) June 30, 2020
これは嬉しいとか喜んでしまうとかとは言い換え不可能なもので、ここでいうよろこびとは、そういう再利用可能な感情に付けられたラベルではないと思うわけです
— 愁訴 (@shinabitanori) June 30, 2020
むしろここでいう「よろこび」というのはこのひとが喜んでいる状況そのものに付けられた名前みたいなもので、心象と言ってしまうには現実の世界のその状況にべったり結びつきすぎている感じがするんです(伝わるかな……)
— 愁訴 (@shinabitanori) June 30, 2020
スイミング・スクールには「いい路地と思って写真撮ったあとで」という歌もありますが「よろこびがある」は認識としてこれとよく似ています。なんというか、その路地がよいという感情があるところまで主体の認識が向かわなくて、場所とか状況として外部に存在している、という感じです
— 愁訴 (@shinabitanori) June 30, 2020
こういうのをじゃあ心象と呼ぶべきか具象と呼ぶべきかは用語上の問題なのでそんなに興味はないです
— 愁訴 (@shinabitanori) June 30, 2020
補遺2
スイミングスクール通わされていた夏の道路の明るさのこと / 『スイミング・スクール』鈴木ちはね
— 本屋文華(もとや あやか) (@ayakahonya) July 1, 2020
歌集が出る前に復習中。
「スイミングスクールへ通わされている」は、「韻律や喩を過剰に求め、強制されていること」のメタファーですねクォレハ(`・ω・´) ←いきなりなんか言い出した。
RTの内容など含め、その他の思ったこと
それぞれのスイミングスクールに通わされていたことの記憶があるべきなので、べつにそれでもよいと思いますが
— 愁訴 (@shinabitanori) July 3, 2020
杉本さんの言い方でいくと「巻き込まれるしかないところの制度」に逆に自分から積極的に巻きこまれにいくことが、共同体の磁場のなかにあって、ふみがわさんのいう「個人を描く」ための方策なのではないかという薄っすらとした気づきはある
— 愁訴 (@shinabitanori) July 3, 2020
共同体のなかに自ら「個人」を投げ出すということ、サルトルというマッチョな哲学者がいう「投企」という営みに似ている
— 愁訴 (@shinabitanori) July 3, 2020
私的には「個人」を「描く」というコロケーションがやや肌になじまなかったのだが(語りえぬものとしての「個人」は語りえないものなので「それは語りえずしめされる」というような言い方をすることが多い)、そういうふうに自分から巻きこまれにいくことによって主体性を引き戻すことはできる気がする
— 愁訴 (@shinabitanori) July 3, 2020
「スイミング・スクール」でいくなら、〈家族〉という他と違って不可避な制度によって「通わされていた」という記憶が、かみはるさんの言い方でいう〈きれいなもの〉としてむしろ美化されていることに注意をはらって読まなければいけないとは思います
— 愁訴 (@shinabitanori) July 3, 2020
補遺3
校正したときのやりとりのなかで書いたこと。夜・人工の明かりと昼・自然の明かりみたいな対比のようなものを見ているという話。
この連作における「明るさ」はただの明るさではなく、夏というモチーフの内部に配置された「明るさ」であるという点で意味を帯びていると解釈しています。「工事中の白い壁まぶしく光る」の一首のなかに季節が夏であることを決定づける語句はありませんが、ひとつの連作が時系列順に短歌を配置しているという読み方を採用するならば、たとえば「夏はもうすぐ終わってしまう」という一首よりも手前に配置されたこの歌が夏の歌であると解釈することは不自然でないと考えます。また、思い込みに近い連想であるため本文では触れなかったことですが、原爆忌に象徴されるように夏をイメージさせるものである「核」による人工の光が具象としてのほんとうの姿を照らすもののメタファーであることからも、その対比としてこの「明るさ」が夏の日差しという自然光であることは重要だと思います。
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