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あなたは、どうお考えですか

先日、100日後に死ぬことになっていたワニが死んだ。

これは短歌界隈の人にはわかる内輪ネタだけれど、歌人の加藤治郎がある女性歌人を喩えてミューズのような存在だったみたいなことを発言して激しく批判されたことがあって、そのときになされた加藤のツイートが元ネタになっている。

このあたりのことが発端になって加藤治郎がいろいろ批判された一連の経緯は中島などがまとめているのでそちらを見てもらうとして、あのとき自分も何かもやもや考えたよなーと思い出して、考えていた気がすることをだらだらツイートした。この記事はそのツイートの焼き直し。中島の記事は、これ。

件の加藤治郎の「どうお考えですか」は、そもそも加藤治郎と濱松とのやり取りのなかで『爆誕』し、その後にも加藤治郎が他の人とのやり取りの中で何度か繰り返し用いた問いかけだったらしい。このツリーで濱松は以下のようにリプライしていて、たしか私はこのリプライをたまたま見つけて、唐突に引用RTでコメントしたような記憶がある。

探すのがめんどくさいから貼らないけれど、たぶん「文学とは何か」という暗にそんなものは文学とは思わないと言いたいのだろう発言に対して、そんなものこそ文学ではないと返すのはマウントの取り合いでしかないみたいな趣旨の指摘をして、そのときは丁寧に、たしかにその通りだがそれはそれとして、批判されるべきことはきちんと批判しなければならないみたいな返事をもらったような気がする。その点にとくに異論はない。

当時、私から見えた範囲では加藤治郎に対してかなり批判的なスタンスの人のほうが多くて、雰囲気としては「他者を蔑ろにするような言説を表現の自由をたてにほしいままに述べることが文学なのだとしたら、そんなろくでもない文学などいらない」くらいのニュアンスの意見をちらほら見かけた気がする。ただ私はというと、そういう義憤っぽい意見を言いたい気持ちもある程度理解できる気がしつつも、べつにそういう「文学」がどこかにあってもいいのではということを薄っすらと考えていた(考えていたが、当時のリアルタイムでドロドロした議論のなかに積極的に参入してどうしてそう思うのか説明するのはとてもめんどくさいことのように思われたし、そういうことを言うときっと加藤治郎を擁護しているように映ってしまうのだろうなと思って黙っていた)。

というのは、私は思想的には「表現の自由戦士」とか呼ばれるサイドの人間なので、ある表現が倫理的に厳しく批判されるべき内容であることと、ある表現をなすことそれ自体がアプリオリに禁じられるべきこととは慎重に分けて考えるべきだと思っていたからだ。そう思う背景には、たとえある倫理観に照らして厳しく批判されるべき内容であったとしても、その倫理のみを絶対視して表現することそのものを前もって禁じてしまえるのでは、採るべき倫理の姿を一個人の立場から批判的に検討するような営みはときに不可能になってしまうのではという危惧があった。ところが実際には、多くの人は一個人の個人性にもとづく言説さえも倫理の適用からは逃れられないと考えがちなようで、そういう個人としての〈私〉の外側にあるような大きな公共性にそこまで信を置いてしまえることがとても危うく見えてならない。

あのときの加藤治郎への批判のトーンを見ていてほんとうにすこし怖かったのは、自分と異なる倫理観を有する〈倫理の他者〉に対して、正しい文学とはそんなものではないと無邪気にマウントをとれる人々の態度だった。彼が一個人としてなす言説が許すべからざるものであるのなら言葉を尽くして厳しく批判すればそれだけでよかったのに、私たちの採るべき倫理がそれをたてに個人の言説をも矯正しうるようなアプリオリに〈強い〉装置なのだとしたら、私たちがまさに一個人の立場から(そうすることが可能なものとして)相対化しようと必死になってきた倫理とはいったいなんだったのか。

観念的な言い方になるけれど、正しい文学を旧来の権力装置によって振りかざされてきた立場であるはずの前衛者が、その旧来の権力装置を打倒したのち、次の瞬間からは自らが正しい文学を振りかざす立場に変わっているというのは金枝篇的な親殺しの物語でしかない。その陳腐な物語の繰り返しに甘んじるのなら、あなたたちはあたかも権力を憎んでいたようだったが、結局は権力が自分の手のうちに握られていないことに駄々をこねて、より大きな公共性によって親を殴り殺しただけではないかという批判を免れないだろう。そういう安易な言説が断じて権力だとか構造だとかを解体しようと企図するものではなく、どこまでも義憤でしかないことに自覚的だった人々がはたして当時どれだけいたものだろうか。

これは異論のあるところかもしれないけれど、あなたの信じる正しい文学はそういうものかもしれないが、それは私の考える文学とは異なるものなので私の信条とは関係ないだろうといえてしまうということは、言説が〈文学〉としてむしろきわめて健全に機能している証左なのではないか。私個人の倫理観はべつに加藤治郎のいう文学に正義があるとは思っていないけれど、権力とか責任をともなう立場に立つことは、ある人が、それでもなお前衛者として、大きな公共性に対峙する権利を奪うにたるほどのことなのか。私にはよくわからない。

私がよく好んで引く、加藤典洋『敗戦後論』(の、「戦後後論」)に印象的な一節があって、たびたびそれを思い出す。すこし長いけれど引用しよう。

真理というのは不思議な形をしている。それらはけっして破られない投網のようなものだ。シュテーケルの叡智の投網を太宰はゲヘナの勇気という真理で破ろうとするが、太宰の勇気が大きなクジラになり、その投網を破って外に出ると、真理はいまやそのゲヘナのクジラのほうに移っているのである。人は真に反対するが、その反対は別の真にささえられる。真理でないから、従わない、という人は、真理であれば従うといっているのに等しく、真の否定によっては、人は、必ずしもその外に抜け出られないのである。
(中略)
真への抵抗とは何か。そこで何が何に抵抗しているのか。わたしの考えはこうである。そこでは、真理が誤りうることから無謬の器に移されることに抵抗している。真理は、真理もまた、いつも誤りうることの中にとどまることを、望んでいるのである。

戦後後論は、ここで「そこから抜け出るには、むしろ自分を小さな雑魚の群れに変え、かけらのようなものにする以外ない」という言い方をする。それが私たちが声高に唱える権力の解体のための道すじなのだとしたら、それは権力装置を個人性にもとづいて多元化することであって、新たな〈強い〉装置としてのポリコレを模索することではない。私たちは自らの倫理観にもとるような言説でさえも表現される余地を認めたうえで、それらを批判的に検討していくのでなければならない。それは、一見すると残酷なことだが、他者を蔑ろにするような言説をも含めてである。ほかならぬ私たちの言説だって、私たちとは異なる〈倫理の他者〉をしてみれば、彼らを蔑ろにする言説たりうるのだから。

皮肉にも、戦後後論のはじめにに続く第1章の書き出しは「文学とは何か」だ。加藤治郎が同じ問いかけの背後でいったいどれだけのことをまなざしていたのかは実際にはわからない。わからないし、それはそれ、彼には彼の考える文学があるだろう。べつにそれでいい。私は、私の回答を述べよう。文学とは「真理が誤りうることから無謬の器に移されること」への絶え間ない抵抗の歴史だ。私は、その歴史を継いでいきたいと考えている。

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