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大森静佳『てのひらを燃やす』における鳥と魚

ブログ記事で大森静佳『てのひらを燃やす』を取り上げた。

『てのひらを燃やす』で歌集を通じて繰り返し現れるモチーフは、大森の独特なイメージの連関のなかにあって、ちょっとしたものであっても、その意味付けを想定しやすい。ただ、それらについて全部書いているとキリがなかったので、先のブログ記事では一部だけについて扱った。

ここでは同書のなかに現れる「鳥」と、ブログ記事では中心的には取り上げなかった「魚」に注目した話をする。

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『てのひらを燃やす』では、たびたび空を飛ぶ鳥がまなざされる。

白い器に声を満たして飛ぶものをいつでも遠くから鳥と呼ぶ
(「器」)

以下は、この一首についての山下のブログ記事の評言。

それ(=鳥)を鳥と呼びかたらうものへの、きびしい視線がある。きびしい、というのは単に批判だけをさすのではない。深く内省することばでもある。そのこと自体をじっと見つめる視線だ。
(中略)
この、「いつでも」「遠くから」のような過剰は、大森作品のひとつの特徴である。その過剰が、ある迫力のようなものを発生させる。こちらが一瞬怯んでしまう。立ち止まる。「いつでも」「遠くから」のような〈声〉は、ときにおそろしく、同時に寂しげでもあって、どこかで、素手で渡さないといけないおもいを伝えてくる。

この一首は、『てのひらを燃やす』に描かれる主体の「鳥」(というものが生きる世界)に対する距離感がよく表れている。

主体が「鳥」をまなざし、それを「鳥」と呼ぶことは、なぜ「いつでも遠くから」なされなければならないのか。それはもちろん、「鳥」が飛んでいるからではあるのだが、この歌が収められた一連には次のような一首もある。

石を落とせば水面に誰かの眼がひらく ここはどこからこんなに遠い
(「器」)

おそらく同書に通底しているイメージのひとつとして、目で見る(見られる)ことのうちには、しかし「目で見ることしかできない」というような、決して手が届かないような距離感がどこかで含意されている。「どこからこんなに遠い」というのは「いつでも遠くから」という表現の変奏だろうし、また別な一連では「街とはつねに鳥の遠景」(「揺れないもの」)といった言い方もなされていて、そこにはいつもある一定の遠さがある。

「白い器に声を満たして飛ぶもの」というなかにも見える「器」という要素は、同書では「噴水」や「浴槽」「舟」といった、それらの内部に「水」を湛えるモチーフと通じている。『てのひらを燃やす』の主体の意識のなかでは、言葉は私たちと同じ目線の高さの世界にあって、元来触れえない高さの空からもたらされ、魂の根源のような役割を果たしている「水」と通じる概念であり、「声」は「水」そのもののように、いわば捉えどころのない言葉を定型に満たして伝える乗り物に喩えられる。

声は舟 しかしいつかは沈めねばならぬから言葉ひたひた乗せる
スワンボートのスワンの首よしろじろと反りて水面を見ぬことを選べり
(「沈めねばならぬから」)

この「声は舟」であるという発想は、そうしてまなざされる「舟」がよりにもよって「スワンボート」だったりするように、「水」に浮かべるものでありながらやはりどこかで「鳥」に通じている。

ひとの頬打つ熱を知らぬてのひらが風中に白き櫂(ルビ:オール)となりぬ
(「揺れないもの」)

この一首の「てのひらが風中に白き櫂」になるという言い方は、言わずもがな、「鳥」のつばさを念頭に置いたものだろう。

『てのひらを燃やす』の主体は、水鳥にとっての「遠景」とも解される「水」のあるところ、そのほとりや「水面」とでも呼ぶべき、ある種の境界線上に立っている。この点は筆者のブログ記事では強調しなかったところだが、そこが境界であるということが強く意識されるのが、彼女が「水」の中の「魚」をまなざしている瞬間である。

光りつつ死ぬということひけらかし水族館に魚群が光る
(「器」)

「水」の周辺にあるモチーフのひとつに位置づけられる「魚」は、同書が要所要所で視覚よりも「てのひら」を伝う触覚などを優位にはたらかせているのと対照的に、かえって非常にストレートな視覚的描写によって捉えられる。「光りつつ」「ひけらかし」という表現もさることながら、ここではそれらの「魚」が、「水族館」という、目でそれらを見るための空間のものであることが大きな意味をもつだろう。

魚の唇(ルビ:くち)はぎんいろの輪だ 水辺には声を持たぬもの集まりやすく
(「輪郭のつばさ」)

『てのひらの燃やす』の世界の「魚」は、「声」をもたないもの――それは、水槽越しの世界のように、見きれていても決して確かな手触りをともなうことのない――視覚だけに閉ざされた世界の住人である。

この世からどこへも行けぬひとといる水族館の床を踏みしめ
(「器」)

彼女たちが佇んでいた「水族館の床」という水辺は、あるいは「鳥」のようには、言葉よりも速くつばさを広げて飛んでいく術をもたない(蛇足ながら、「鳥」は「魚」とは違い、文字通りの意味の「声」をもっていて、実際に鳴くものでもある)ながらも、それでも「魚」のように、視覚だけの世界に閉ざされたままでいる必要はない存在が生きる世界だろう。

言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手かざして待てり
(「輪郭のつばさ」)

きっとそうした気づきがあったからこそ、「輪郭のつばさ」はこの一首を置いて終わる。空にある「月」に手をかざす手つきは一見わざわざしく、また、他者との距離を埋めるには歩みの遅いおこないにも思われるが、それでも手を伸ばそうとすることへの希望が、この歌からは感じられる。

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