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短歌において〈景〉がわかるとはどういうことか ~さよならあかねの作品を中心に~

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〈景〉がわからない短歌

私はひざみろさんではないけれど、思っているところを書くのにちょうどよい材料になりそうな詠み手なので歌人論をやってみる。たぶん歌人論なんて大それたものでもないのだけれど、作品を鑑賞して評を書きたいわけでもなく。

さよならあかねの短歌はわからない。もちろん、何から何までわからないわけではなくて、わかるやつはちゃんとわかるのだが、それにしてもわからない作品が目に付きやすい。

魂をビブラートせよ! わ・れ・わ・れ・は・う・ちゅ・う・じ・ん・だ・が・あ・な・た・が・す・き・だ

これくらいならまだなんとなくわかる気がする。扇風機を前にしたときの常套句が導くことば遊びだが、宇宙人というどうしようもなくわかり得ない他者をして、それでもあなたが好きだと語らせる台詞はなかなか詩的かもしれない。

そういった読解可能な作品のなかにこういうのが平然と並べられている。

はだしには魔除けの意味がはだしのげんはだしのげんが魔除けの意味で

これはなんなんだろう。いや、よくわからない短歌それ自体はさしてめずらしいものではない。これよくわかんねーなという作品を見かけることはわりとよくあるし、私自身もそういう作品をつくったりする。だがそれにしても限度みたいなものはあって、きっとこれがわかる人も世の中にはいるのだろうなという希望的観測が消えることはあまりないのだが、この作品にはそういう限度をも振り切ろうとする強い速力のようなものを感じる。そしてそれは、歌人としてのさよならあかねの作品の一部にしばしば感じるところのものでもある。

詩的と電波的とのあわい

自慢できることではないが、私はべつにさよならあかねの良い読者ではないと思う。本人には失礼きわまりない話だろうが、さよならあかねの短歌が大好き!というわけでもない。だからかえってはっきりと言えるのだが、さよならあかねは読者の共感を積極的に誘うタイプの詠み手ではない。彼がつくる一部のわかりにくい短歌は、あえてわからなくなるように意図的に言葉を選びつつ組み立てられたもので、そもそも適切な理解のしかたがあるわけではないように見える。

高架下献花はらわた注射器は血に刺さる血に刺さる指切り
椎間板はずして空へ空へ階段昇る恋ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド

こうした言葉の取り合わせは、何かを比喩的に表現するためのものというよりは、取り合わせの妙そのものがあげる効果を狙ったものではないだろうか。「献花・注射器・指切り」や「椎間板・階段・ドレミファソラシド」といった言葉の取り合わせはシュルレアリスムにおけるデペイズマンを思わせるもので、かの「解剖台の上でのミシンと傘の偶発的出会い」という有名な文句と同じように、わかる者にはわかるかもしれないがわからなければわかりようがない類の美しさを秘めている。

それは立場によっては「詩的」と呼ぶことが躊躇われるかもしれない種類の美しさで、現代っぽくいうと「電波的」なものだ。なるほど、さよならあかねの作品を形容するのに電波的という言葉はなかなか収まりがいい。しかし、彼の作品は必ずしも電波的であることに徹しているわけではない。

そっかそっか砂鉄をまとう海鳥が消える場所まで歩いていこうよ
ガラス越し見えないふりのさよならで春行灯の安堵の部分

あるいは最初に見た短歌のように、一見してなんとなく意味のわかる短歌と明らかに電波的でわかりにくい短歌とが混在している。また、歌人としてのさよならあかねの作品をマクロ的に見通した場合ばかりでなく、一首をミクロ的に観察するなかにおいても、意味の取りやすい部分と意味がわからない部分とがしばしば渾然としているようすが見てとれる。

我輩はガラクトマンナン分解物夕焼け小焼けの焼けの部分だ
いーりゃんさんすーありふれた人生をやり直すための薔薇の花束

「ガラクトマンナン分解物」や「いーりゃんさんすー」という部分の異物感。それらを除いてしまえば、作品はむしろ平易な構造をしている。だからたぶんふつうに平易にも詠めるのだろうが、そういう作品はあまり目立たない。

二学期の始まりである自販機はレモン系だけ売り切れている
I wish I were a bird. を葬って空の青さに至る消しゴム

こういった作品を覆い隠すように、ときに奇抜でさえある電波的なレトリックを多用することで、さよならあかねは読者から一筋縄に「わかられること」を逃れようとしているように見える(というのは、私が仮託する勝手な幻想かもしれないのだが)。

比喩が〈わかる〉ということ

そもそも、ふつうの「詩的」な言語表現において〈わかる〉とはどのような状況を指すのだろうか。簡単に述べてしまえば、それは、ある言語表現をとる主体が見る世界のありかたをその言語表現越しに透かし見ることができるという状況だろう。

言語哲学的な考え方における一般的な了解事項として、言語表現は世界そのものではない。言語表現はむしろ世界のありかた(事実とか事態などと呼ばれる)を写像したものであり、たとえばウィトゲンシュタイン風にいうと単に〈像〉と呼ばれるものだ。あるいは野矢茂樹であれば、似たような概念を〈眺望〉とか〈相貌〉などと呼ぶかもしれない。ただし、もちろん〈像〉と〈眺望〉や〈相貌〉は同じものではなく、ごく手短にいうと〈像〉が事態の写像を指す一般的な概念であるのに対して、〈眺望〉とか〈相貌〉といった概念では主体の立場によって異なる像を呈することが起こりうるという含みがある。

というよりも、踏み込んだ言い方をすると、表面的には同じ言語表現をとった場合であってもその背景にある〈眺望〉や〈相貌〉は個人間でディテールが異なっている。同一の言語的共同体の内部では言語を習得する過程において概念の囲い込み(entrenchment)のしかたが似通っているために「話が通じている」だけで、たとえば愛のような概念の理解が人によって異なるだろうことは言わずもがな、あるいは雨のようなより具体的に思われる概念についてでさえも、読者と私とでは異なる外延を想像している可能性が高い。

ある意味で、私たちは同じ日本語と名指される言語内でも、それぞれ互いに異なる言語を操っているといえる。そしてこのような言語内の異なりのなかにあってこそ、比喩が成立する余地がある。「山が笑う」という表現について考えてみよう。原義的に考えて「笑う」という言葉はヒトの表情について述べる言葉だろうから、「山が笑う」は本来比喩表現だったはずである。はじめにある人が、現代の私たちなら山が笑うと言うだろう相貌を言い表すために「山」と「笑う」という語を主述関係のもとに配置したとき、その人と周囲の人とでは「笑う」という語のもつ意味が微妙に異なっていた。それでも、その意味するものの異なりがたかだか周囲の人にも〈わかる〉程度の異なりだったために、「山が笑う」は多くの人に用いられる表現になりえたのではないだろうか。

このように、同一言語内の他者が一般にある形式で囲い込んでいるコロケーションをあえて逸脱する表現によって、それまでの言語内に普及していなかった新しい相貌を言い表そうとする試みを、私たちはふつう比喩と呼ぶ。さて、いま一度さよならあかねの短歌を見てみると、彼のわかりにくい一群の短歌は少なくとも比喩としては機能していない。それらの作品においては言葉はデペイズマン的にただ配置されているだけで、それと結びつくべき何か目新しい具体的な〈像〉というのをどうにも想起できないのである。

わからない歌人論

勘のよい読者はすでに察しているだろうが、ここまで〈像〉や〈相貌〉または〈眺望〉と呼んできたものが短歌を評する場面でしばしば〈景〉と呼ばれるものにほかならないだろうと私は考えている。さよならあかねの電波的な作品は、何か明確な情景として固定されることを拒否するように、等並な〈景〉を結ぼうとしない。そのように指摘したうえで、仮初にもこの文章が「歌人論」であろうとするならば、さよならあかねの作品がそのような作品として実現しているのは、それが作者の思惑であるからだという運びになるのは必定だろう(私としてはそういう文章を書くことにそれほど積極的なわけではない。というか、ただ単に彼がそういう作風が好みだからという説も大いにありえるように思う)。

論拠としては決して強くないものだが、彼がどこか捉えどころのない作品づくりを志向しているらしいことは彼のつくる作品における主体のディテールの(おそらく意図的な)浅さからも推察される。たとえば、自選された50首のなかに商品名のような固有名は冒頭に挙げた「はだしのゲン」を除いて一切登場しない。地名については「鴨川」という語彙が出てくるし、「小林くん」「hitomi」といった人名も出てくるのだが、それらの語彙は主体がどのような環境に置かれているのかをよく限定するものではない。

こうした語彙は、うがった見方をすれば、かえって交換可能なものではないだろうか。「山が笑う」としか曰く言いがたい相貌を提示するためにはほかならぬ「山が笑う」という表現を選択せざるを得なかったように、比喩の背後には語彙の交換不可能性があってしかるべきである。一方で、あるいはデペイズマン的に、ただ語彙を配置するだけならば、そこにそのような詩的必然はない。「解剖台の上でのミシンと傘の偶発的出会い」という文句は言いえて妙なもので、解剖台とミシンと傘とはまさに偶発的に並べられ、互いを異化しているに過ぎないのである。

さよならあかねの作品のなかで執拗に繰り返されるデペイズマン的な語句の配置がどのような動機をもっておこなわれるものか、本当のところはわからない。だが、少なくとも、私たちがしばしば偶然性のなかに必然性を幻視しようとする試みに魅力を感じることは事実であるように思う。多くの歌人はとかく表現の詩的必然を重視するが、私たち自身はといえば、むしろ交換可能な要素の網目のなかに取り囲まれて息づいている。そんな現状のなかにあって、偶発的に実現した一見無意味な世界のありかたのなかに確かな意義を見出そうとする行為は、かえってしたたかな希望を湛えてはいないか。さよならあかねの作品のなかに、私はそんな祈りのような態度を感じないでもない。

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