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短歌の鑑賞文(鯨井可菜子『タンジブル』から)

なんとなく気が向いたので、一首評的な文章を書いてみる。連作や歌集の評ばかりに力を入れているのも疲れるし。ここでは、次の一首を取り上げる。

花の枝の背すじを持たんあなたにもソフトカバーの本であること

鯨井可菜子『タンジブル』

鯨井可菜子『タンジブル』の文体は、口語のかえって自然な延長にあるような、ゆるい文語がしばしば混交するものだ。そのなかでもこの一首を取り上げるのは、私的に一番気になる一首だったから。掲出歌は「本であること」という結句のまとめ方こそややトリッキーだが、その手前の「花の枝の背筋を持たん」の意味がちょっとわからなくて、気になった。

ネットでググって出てくるかぎりでは、次の記事で『タンジブル』が扱われていて、掲出歌が引用されているものの、この歌の意味の解釈は書かれていない。

鯨井の「文語」は、肩肘張らない雰囲気というか、新字新仮名でカジュアルな印象のものだ。歌集の題にもなっている「タンジブル」も、たぶんニュアンス的には「「たんじぶる」と書くとどこか古語めいた呪文のように見えるよね」みたいな気づきの歌に詠まれていたりするので、文語と口語が自然と混じっている文体で、思いのままにスッと詠んでくる感覚こそがきっと『タンジブル』の魅力のひとつなのだろう。

ただ、カジュアルな文語なので、意味はちょいちょい取りづらい。「花の枝の背筋を持たん」については、まじめに考えようとすると、まず「持たない」という否定の表現なのか、「持っている」や「持つだろう」といった肯定の表現なのかが曖昧に見える。曖昧なのがこの箇所だけならまだしも雰囲気で意味はわかりそうなのだけど、なにしろ結句が「本であること」なので全体としての意味も取りづらく、ちょっとよくわからなかった。わからなかったので、ツイッターでアンケートをとったりもした。

みんな実はふつうにわかるのかなとも期待したんだけれど、結果が割れてしまったので、あるいは初見でわからないのは私だけでもないのかもしれない。私なりにもうすこし冷静に考えたところ、掲出歌については「花の枝の(ようなまだ堅い)背すじでいるあなたにも(その本はハードではなく)ソフトカバーの本であることだなあ」くらいの意味なのかなとは思った。わからないけども。

「持たない」でもべつにアリなのかなとも思うのだけど、その読み筋をする場合だと、「花の枝」に託す〈質感〉のイメージがその読者と私とでは違うのかもしれない。「(ハードカバーではなく)ソフトカバーの本であることだなあ」は、まあおそらくそのとおりだと思うので、仮に「持たない」の場合だと、「花の枝」の〈質感〉と「ソフトカバーの本」の〈質感〉とは似たもので、「そういうしなやかな背筋を持たないあなたにも、ソフトカバーの本は分け隔てなくソフトカバーであることだなあ」みたいな意味になるのだろう。

いずれにしろ、これらの読み筋に共通する「あなたにもソフトカバーの本であること」の尊さの感覚がわかるためには、物ごとの〈質感〉に対する感覚みたいなものについて、この詠み手とある程度共有できていないといけない気がする。そもそも「タンジブル(tangible)」という言葉自体がまさに「触れ心地をともなう」といったニュアンスの英単語なわけだし。掲出歌についても、物ごとはその世界に対する態度めいたものとしてその物ごとに特有の〈質感〉をともなうというような、この詠み手のもつ感覚がよく表れているように思う。

私たちはふつう「(ソフトカバーの本が)ソフトカバーの本であること」といった無生物の性質に対しては、そう頻繁には、その運命的なめぐり合わせに思い至ったりなどしない。つまり、「(ソフトカバーの本が)ソフトカバーの本であること」とはいわば至極あたりまえなことなのだが、それが「あなたにも」(あるいはまた「あなた」以外の者に対してさえも)分け隔てなくそうであるという気づきのもとにまなざされるとき、その「本」はある優しい〈質感〉をともなったものとして立ち現れる。「ソフトカバーの本であること」というのは、そのいわく言い難い〈質感〉をともなって存在するそのような「本」のあり方を意図した表現だろう。

それは、あるいは、鯨井自身のカジュアルな文語が帯びている「しなやかさ」や「優しさ」とも通じるものかもしれない。この詠み手の文体は、実に「ソフトカバーの本であること」とよく似た〈質感〉を思わせる。文体に〈質感〉があるというと文字通り読もうとするとなんだか奇妙な感じかもだけど、すでに見たように、ここでいう〈質感〉というのは、物ごとのただの物理的な性質なのではない。

書かれている言葉には、たしかに〈質感〉が宿る。掲出歌からは「ソフトカバーの本」が具体的にどのような内容の「本」なのかはまったくわからないのだが、その〈質感〉に注目したことで読者にその「本」についてより豊かなイメージを想起させる、巧みな一首だと思う。


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