いいねされた数だけ創作論を語る見た人もやる

いいねされた数だけ創作論を語ったやつ。実際にはいいねされた数はない。

詩とは、レトリックによって読み手に詩的効果をもたらすことを意図して提示される一群のテキストだと考えます
基本的にはこれが前提としてあって、短歌(あるいは短詩)の場合、作品の形式ないし作品が提示される媒体(medium)が、その作品が詩のなかでもとりわけ短歌というジャンルに属するものであることを保証します
ところが、この形式ないし媒体の作用はきわめて強力なため、それらの条件さえ満たされていれば短歌として読まれてしまう。その点について、形式や媒体のうえにあぐらをかかないということはよく意識しています
その一方で、テキストとして詩的効果をもたらすものだけが詩であるという発想は、短歌するという営みの持つ意味の幅を狭めてしまうものでもあります。そのあたりについては、営みとしての詩は、テキストに字義通りの意味の伝達以上の効果を期待するものであるくらいにゆるく捉えています
このように根本的なところでテキストによってある効果がもたらされる意図を重視しているため、作歌に際しては言語化するうえでの意図や動機が先行していることを大事にしています。とくに短歌にしたいことがない状況で短歌にすることを考えることは私はめったにありません
そういう意味では、動機の切実さというのもとても大事にしているものです。テキストの内容が真実である必要はまったくありませんが、そのテキストを提示しようと思った動機を自分のものとして引き受けない態度はよくないと思います
結局のところ〈いい短歌〉というのは作り手の目的をよく達成している作品のことだと思います。自分にとって創作がどんな意味をもつ行為なのかをよく反省し、自分が短歌することの意味づけをしなければ、なにがいい短歌かというのも曖昧なままだと思います
このタグの他の人の回答を見ていると「創作論なんかない」と言っている人も多いです。そういうのを見ていると自分なりの創作論を語ることに臆病にならないほうがよいと思います
とりわけ短歌は短い形式であるため、なにをどうすればよりよい作品になるのかを見失いがちです。自分にとっての〈いい短歌〉をクリアに保つためには、創作のもつ意味づけを言語化し、絶えず改訂しつづける自己批評的な視点をもつべきです
一般論はそろそろ語りたいことがないので、私の場合の話をします。私の場合、文学というのはフィクションとノンフィクションを架橋するためにあるものだと考えていて、そういう機能を果たしうる作品づくりをめざしています
そのための手法じゃないですけど、リアルな私の語りを媒介項としつつアーバンファンタジー的な荒唐無稽な描写を混ぜるというのはよくやります
語りにリアリティをもたせるために実在するものを媒介項とするというのはよくある話だと思います。私の場合、それらは私の周りに実際にあるものだったり、私が実際に感じたことだったりします
私にとってのリアルであっても他者にとってはフィクショナルに感じられるものごとというのはたくさんあるはずで、それらを実在する私の身体性でもって媒介することによってゆるやかにノンフィクショナルなものごとへと接続させたいということを考えます
短歌は私性の文学とよく言われますが、短歌が私性に縛りつけられているというのはテクストが身体性というゆるぎない基盤に結びついているということです
この私にとってどんなにフィクショナルに思われることであったとしても、それをリアルに感じる実体ある主体が存在しうるというのはかなり強力な希望を描きうる道具立てだと、個人的には思います

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