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ペイペイ

『あまり時間ないけど……』
 いつも時間ないじゃんよ。そう思いつつも
『わかってるよ。どこで待ち合わせする?』
 どこっていってもなぁ、と小声でいいよどんで少し間が出来る。間はとても長く感じたけれどそれはしかしたったの30秒だった。
『ラ・セーヌの近くのドラックストア、えっと、なんだっけ? そこまで来いよ』
『あ、うん。わかった』
 わかった。の4文字をいう前にもう電話は切れていた。

 昨夜、しゅうちゃんにメールをした。絶対に返信は来ないだろうと踏んでいたので返信が来たことは奇跡に近く嬉しさも半端なくその文面にまた頬を緩ませた。
【明日連絡をします】
 という草加せんべいのようにかたかったけれどこれはきっと会えるだろう確信に変わり、その確信は真実になったのだ。思いがけない邂逅。思いがけないことはときに自分へのご褒美に思える。
 しゅうちゃんは建築士だ。クリエイティブだね。そういうとなんだそれ。といいながら笑う。日焼けをした男らしい顔におじさんっぽいメガネがひどく不釣り合いだけれどあたし的には気に入りだ。
「本当に時間ないぞ」
 開口一番に口を開く。車の中は現場の荷物などで散らかっていた。オマルがあった。住んでるの? あ、またこの質問してるわ。会うたびに車の中の荷物が増えていくからつい訊いてしまう。いやいや住んでねーし。あはは。最初は冗談っぽく笑っていたけれど今では何もこたえてはくれない。
 無言で手慣れたホテルの暖簾をくぐる。もう何回来たのかわからないホテル。ポイントが89ポイントも溜まっているので少なく見積もっても89回は来ている。
「あー疲れたし」
 部屋に入るやいなや勝手知ったるよう有料冷蔵庫を開けてオレンジジュースを取り出す。本当はビール飲みてーな、といいながら。飲む? とオレンジジュースを上にあげ目で訊いてくる。ううん、あたしは首を横にふった。おもては秋の夜気と湿った空気をまとっていたので部屋の中におそろしいほど効いている冷房が肌に刺さるように寒かった。
 しゅうちゃんはすぐにシャワーをしにいく。会話らしい会話もしていない。あたしたちは俗にいうところの『ダブル不倫』な関係だ。5年も続いている。なかなか別れることが出来ないのはお互いにどこか似ている部分があるからかもしれない。たとえば、本音で話せる友達がいないとか、酒が好きだとか。好きな本の趣味が合うとか。からだの相性が良すぎるとか。そういうの。けれどもう情にほだされている。わかっている。しおどきはいつかおとづれるということは。
 あたしもシャワーをしベッドに入る。ことは目を閉じている間に終わってしまう。背中に這う唇の愛撫のいちいちにあたしの子宮は叫び声をあげずにはいられない。もうこのまま死んでもいいって。思ってしまう。しゅうちゃんとのそれはいつも死を覚悟しないとならない。
「あのさ、PayPay知ってるよね?」
 並んでベッドの上。
 ぼんやりと天井を見上げながら訊いてみる。
「ん? あー、あの?」
 そう、あの。あたしはうなずく。しゅうちゃんは目を閉じている。
「下っ端の奴のことだろ? ぺいぺいって。いうだろ?」
 はっ? 下っ端のやつ。ぺいぺいっていうだろ。あたしはついぞ考えてしまう。
「ぺいぺいの時代は誰にでもあるんだよ」
 だろ? あ、うん。あ、でも、それじゃないんだよ。しゅうちゃん。
「ヤダァー。もう、違うって。それじゃないの。PayPayだよ。スマホから払えるキャッシュレス決算のやつだよ」 
 あたしは腹を抱えつつ大笑いをした。ウケるー。もう最近でこんなに笑ったことないよ。といいながら。
 ぽかんと口を開けているしゅうちゃんはあたしが何をそんなに笑っているのか把握していないようだった。
「PayPayよ。ググってみてよ」
「うん。俺さ、そういうの疎いもんな。LINEもしてないし。よくわからんし」
 職人さん相手にしているからなんとなく下っ端がぺいぺい。だと真っ先に思いついたのだろう。きっと。
「本当にしゅうちゃんさ、笑えるね」
 薄暗い部屋の中であたしのクスクス笑いだけがこだまする。遠くで救急車の音がけたたましく鳴っている。時間は午後9時前を示している。
「あさ……」 
 そこで言葉を切りアイコスに火をつける。そうして続ける。
「朝、早いんだよな。4時起き。だからいつもこの時間になると眠ってるよ」
 アイコスはもう不快な匂いでは無くなっていた。そういえば。あたしはシャワーもしないで洋服に着替える。帰りましょう。そう促すように。
 しゅうちゃん。なんでいつもこんなにもあたし好きなんだろうね。
 ドアの前に立つしゅうちゃんの背中に問いかけてみる。けれど無論。返事などはない。むわんとした空気がふたりを包む。
 またね。
 ああ。
 今度いつ会えるのか全く予想は出来ないけれど月が出ていなくてよかったなって思った。月が出ているときに会うのは嫌いだから。だってあたしには綺麗すぎるから。
 星もない雲がたちこめる空を見上げつつ両の腕を思いきり天に伸ばす。自由を感じそうしてついでのように悲しみも感じてしまう。感じたくないのに。

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