11月17日(短編小説)

 会社の慰安旅行みたいなやつで(紅葉の季節だからって)割と有名な温泉にいった。いったけれども本当は行きたくなかった。なぜなら以前彼といったことのある温泉地だったからだ。何年か前だけれども何十年にも前に思えるのはなぜだろう。
 あのころはまだあたしと彼は絶頂の愛の渦の中にいた。部屋に露天風呂があったし料理だって高級(鰻と牛肉)で布団だってフカフカだったしなにせチエックインをしてすぐに抱き合ったし夕食の前にしたしお風呂に一緒に入ってはしたし眠るときにもしたし朝もしたしチェックアウトの10分前にもした。にも関わらずうちに着くに従って離れがたくなり、寄ってく? ラブホテルの前で彼に真顔でつぶやかれ、あたしは、ははと笑いながら、まじ凄い性欲だねといい真顔を崩してうんとうなずいた。そしてまた抱き合った。あんなに情熱的になったことが今まであっただろうか。あのころのあたしはいやあたしたちは本当に幸せの絶頂にいた。
「ふーちゃんなにぼーっとしてんの?」
 温泉地を見やりながら思い出に浸っていたあたしに年下のまみちゃんが話しかけてきた。 あ、うん。いやなんでもないよ。ぼんやりしてただけだよというと、いつもぼんやりしてんじゃんとさらっと返される。
「なんかね、あたし温泉の仲居さんの仕事してこの温泉地に住みたいなぁって真面目に考えてた」
 まみちゃんは、なに急にそんなこといってんのなんて顔をしたけれど
「うん。いいかも。だってこの温泉さ、美人の湯っていうらしいよ。毎日入れば美人になるよ。まあふーちゃんは美人っていうかかわいいっていう方がしっくりくるけどね」
 かわいいかぁ。30代でかわいいはないよな。やっぱり綺麗な方といわれたいなと内心でおもう。かわいいってただあたしがミクロだからだろう。なにせ小さいのだ。全てが。目も身長も足も手も。
 まみちゃん。名前を呼ぶ。なに? と振り向くまみちゃんの顔は見事なほど完璧に綺麗に出来上がっていた。
 温泉街で自由行動になりあたしは前に彼と泊まったホテルを探した。かなりうろ覚えだった。けれどなんとか記憶を引き出そうして街の中を彷徨う。皆一様に楽しそうに写真を撮ったり男と女なら肩を並べ歩いて笑いあっている。あたしはただひとりだけ妄想の中にいた。心もとない記憶の中で見つけた宿の前で立ち尽くす。もうこの宿には一生来ないだろうなぁと感慨深くおもいながら。あの部屋の中の露天風呂から見た壮大な山の稜線。その山は雪帽子を被っていた。だから冬に来たのだ。そのことも急に脳裏に浮かぶ。ただ一緒に泊まった宿を見ただけで頬に一筋の涙を流していた。
 あたしは。あたしはまだ彼をずっと好きだと再確認をしてしまい愕然となる。

『今日会うか』
 温泉から帰ってきた翌日。唐突に彼から連絡があってぎょっとした。1ヶ月にいちどほど気まぐれに連絡をしてくる彼。温泉から帰ってきてから妙に彼に会いたかったからそのメールを見てまさかあたしの心読まれてるなんて不意に考えたけれどそんなことあるわけないしなとすぐにおもい直し自虐的に笑った。
『うん』
 すぐに返信をうち、彼はじゃあいつものとこで待ってる。という返事がきてあたしはいつもの場所に歩いていった。この会う前の待ち合わせの時間が好きだ。待ってもらうよりも待つ方の方がいい。だからあたしは先に待ち合わせ場所に行き待っていた。あまり寒くない11月の夕方。夕焼けがひどく橙色で燃えているみたいだ。
 しゃがんで待っていると白いカローラワゴンが目の前に停まり
「おい」
 窓をジャーっ開けて声をかけられた。うちにいたらよかったのにと彼が怪訝そうにいう。乗ってと付け足して。
「最近ね会社で前一緒にいった温泉にいってきたんだよ」
 助手席に乗ったら開口一番そう口にした。
 彼は首を傾げて、ん? どこだっけと考えている。そういえば何箇所か一緒にいっている。あたしはあそこだよと切り出し彼はああと唸ってあそこねと切り返した。行ったねそういえばという彼の声には感情などどこにも見当たらなかった。
 もう過去のことだ。過去の彼は今はいない。今会っているのは今の彼だ。あたしのことを別になんともおもっていない彼。都合のいい女のあたし。
 あたしたちは不倫をしている。あたしも夫がいる。彼には奥さんと子どもがいる。だからもう愛という単語を語れない。愛を捨てて今は割り切って会っているということにしている。彼にしたらまあパチンコにでも行くかその程度に過ぎない。けれどもあたしを抱く。抱く行為はただの性処理だとでもおもっているのだろう。それでもいいからと泣いてすがったのは紛れもなくあたしの方だ。
「あなたを失うなら死んだほうがまし」
 泣き叫んで会うのを拒んだ彼を引き止めたのだ。依存だよ。彼は呆れ顔をしてつぶやいた。うん、わかってる、わかってるの。あたしはけれど本当はなにもわかってはいなかったし実際いまでもわかってはいない。ただ好きなことだけは真実で嘘偽りない。
 吸い込まれるようホテルに入ってゆく。あのとき。温泉の帰り離れたくなくて入ったホテルに。
 ホテルは一緒だけれどあのときの彼は今はいないことと車が違うこととお互い歳を重ねたこと以外はなにひとつ変わっていないホテル。
「最近映画行った?」
 乱れたシーツの上でお互い無防備な格好で横になっている。喘ぎ過ぎて喉が痛かった。
「えいが?」
『えいが』が『映画』という感じに変換されるのにやや時間を要した。ただ心臓がまだ忙しなく稼働していて頭の中が真っ白になっていた。
「行った」行ったからそうこたえた。え? なに急に? 行ったの? と質問をしてみる。彼はうんと顎を引き、なんだとおもうと切り出す。
「わからないよ」あたしは苦笑してなに観たの? と逆に質問をする。
「真帆といった」
 娘さんの名前が出てきゃとつい声が出た。まさかあれ? とおどろきながら聞くと、そうと今流行りの映画だと説明された。へえ。そうなんだね。知ってるの? というとまあねと得意そうにアイコスを咥えた。
「結構おもしろいよ」
 娘さんと映画に行く余裕があるのならなぜあたしに連絡をしてくれないのだろうと一瞬娘さんに嫉妬心をいだく。『あいたい』とメールを打っても無視をする彼。けれど娘さんとは映画にいく。なぜが苛立ちがあたしの体を慄かせる。
「そう」
 さらっと聞き流しあたしは裸の彼に抱きつき首筋に唇をはわせて勢いよく吸引をしてやった。
「わっ!」
 彼は何かを察したのかあたしの体を引き剥がした。吸引したあとがバッチリとついていた。呼称キスマーク。
「バカか」
 その声はけれどもうどうでもいいよという声に聞こえてあたしはいっそ虚しく悲しくて涙を流した。も、う、なんでなの? なんでこんなにあたしだけが、こんなにも、顔を覆っておいおいと泣く。泣く女が嫌いと豪語していた彼だったけれどいつからだろうか。あたしは彼と会うたび彼のぶっちぎりに嫌いな女に成り上がっていて今では泣くことが当たり前のようになってしまい彼に黙認されている。彼はあたしを諦めている。諦めているとはもう何の感情もないという地獄絵図だ。
 いつも帰りの車内は無言で覆われる。さっきまで重なりあっていた彼の体がまだあたしの体を包み込んでいる。ベットの上にいた彼は間違いなくあたしだけのものだった。その事実だけがあたしの救いだ。
 待ち合わせ場所に着くと彼が着いたと口を開く。あたしはうんとうなずき名残惜しそうにドアに手をかける。
「またね」
「ああ……」
 車から降りるともうすっかり闇に包まれた夜がそこにあった。車のテールランプが見えなくなるまでずっと見ていた。ただぼんやりと。
 夜空に星がまだらに輝いている。あの日。温泉に一緒に行ったあの日も露天風呂から見える星が綺麗だった。あの日に見た星はあるのだろうか。
 夜空が歪んで見え出す。あたしはまたたくさんの星が映ってる瞳に涙を浮かべては星という涙をダーダーと流す。  


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