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まってもまっても

 ここのところずっとGmailの画面だけを開きっぱなししていたのは、彼からのメールを待っていたからだ。だからYahoo!ニュースも観なくなったし、YouTubeも観なくなった。けれどamebaでライブ配信されている相撲だけは観ていたけれど、やはりGmailが気になって気になって心ここにあらずな状況だった。
 おもえば、いつもいつも待っている。待つのは嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。特に好きな男からのメールを待つことなど嫌だけれどメールが届くかもというワクワク感だけで幸せにもなれる。
 だから10日ほど待ってきたメールはいつも鬱なわたしの身体や脳や下半身を一気に裏返した。
 そのとき、コメダにいてモーニングを食べていた。11時までのモーニングに間に合ったのだ。店内は異様に混みあい、辟易しつつ順番待ちのボードに名前を『佐々木・1名』と書いて待った。『佐々木』はうその名前だ。本名もうそのような名前だけれど、なぜか『佐々木』と書いたのは前の前の前の前のひとの名前が『佐々木』だったからだ。それだけの理由で他に意味などはない。
 混みあった店内でわたしだけがわたしだけのオーラが一気にピンク色に変わったとおもう。わたしはもう天にで昇っていきそうな勢いでメールを打ち返し、会う時間と場所を決め、スマホをカバンにしまい、バターをたっぷり塗ったトーストを頬張った。いつものトーストがいちだんと美味しく感じた。こういう気持ちだけで世界ががらりと変わる。なんて単純な生き物なのだろう。人間というものは。人間ほど単純なものはないけれど、人間ほどむずかしいものはない。そもそもわたしはわたしのことさえもよくわからない。わかるのはただひどく彼を愛しているということだけだった。
 約束の場所に行くとまだ彼はいなくて待ち合わせ場所のコンビニで立ち読みをしていた。
 ポツポツと雨が降っていたけれど、わたしがコンビニの駐車場に自転車を停めた途端、鬼のカタギのように雨が一気に降りてきて、アスファルトに大きな水溜まりをつくった。本を持ったまま、窓の外をぼんやりと眺めていると、彼の車が駐車場に入ってくるところがみえた。本をそっと戻し、ドアの外に出る。ピロロロー。と出入りのときに鳴る音は雨の音にかき消される。
 ずぶ濡れのまま助手席の取ってに手をかける。あっ、という顔をした彼が、手をぐっと伸ばしドアを開けてくれる。
「なんだ……。傘は?」
 顔をしかめながら、これとタオルを渡される。ありがと。それを受けとってどっかの野良猫になったような気分で髪の毛をふく。
「……、さ、さっきはね、あんまり降ってなかったから。持ってない」
「そ」
 足元にはなにかの資料とか図面などが雑多に置いてある。踏んでもいいよ。いつもならそういうけれど、今日はなぜかいわなかったのでそれらを足で避けて座り直した。
「──実は、今日さ、元気がないんだよ……」
 車に乗って数分したあと、ぼそっとそうつぶやく。いつもだけれどいつもよりもなんだか元気がないようにみえたので
「そんな気がしたよ」
 彼のほうに顔を向けいいかえす。元気がない。それはずっとメールを無視してきたい言い訳なのだろうか。それともほんとうに元気がないというか体調が悪いのだろうか。具体的にどのような症状がでて元気がないのだろうか。元気がないというのは下半身のことなのだろうか。彼の下半身事情だけを心配しているわけではないけれど、その実。ほんとうはそこがいちばん心配なのかもしれない。なのでこういった。
「べつに、しなくてもいいよ。なんならどっかでしゃべる」
 しゃべるの語尾は下がっても上がってもなく、質問のような提案のような物言いだった。雨はいつの間にか小雨になっている。ふと、運転席にある温度計をみると19度と表示されていた。
「しゃべるなら、まあいっしょじゃん」
 結局わたしたちは行くところがない。いつもいく行きつけのホテルの暖簾をくぐる。会う前は泣きそうなほどいや泣いてしまうほど会いたくてしかたなくて、ドキドキしワクワクするのに、こうして会ってしまうとどうしてだかそうしたドキドキもワクワクもすっとなくなってしまう。
「そうそう、ゆうき、陽性だったんだよ」
「え」
 彼の息子さんは高校三年生で、ちょっと遠くの全寮制の高校に行っている。ちょっと遠くでもないか。かなり遠い。熱がでたのは聞いてはいたけれど、まさか陽性だったなんて。わたしはおどろいたけれど、まあ、さほどおどろかない。
「PCR検査家族でやったけれどみんな陰性だった。まあ、ゆうきがどっかから持ってきたとおもうけど学校でも流行っていたみたいだしな」
「どんな症状だったの? 大丈夫だった?」
 どんなって、とそこでいったん言葉を切り、目の前にあるハイボールに手を伸ばす。ジョッキに入ったハイボールのグラスが汗をかいて濡れている。だから飲むとき、必ず水滴が垂れる。わっ、といつもの台詞を口にして言葉を再度つづける。
「喉が痛いっていってた。咳もしてたし。熱もあったけれど、2日で下がったみたい。まあよくわからんけどな。俺、うちにあまりいなかったし」
 現場の近くのビジネスホテルに何日が泊まっていたという。以前なら軽い口調で呼んでくれたら行ったのに! なんてことをいっていたとおもう。
「そうそう、最近ね、おもしろいYouTubeがあってぜひみてほしいんだよね」
 会うといつもお互いにはまっているYouTubeの話題になる。
「これこれ」
 画面をだし彼にスマホを渡す。それは『現場監督あるある』というチャンネルだ。
 顔を寄せあいながらそのYouTubeをみる。現場監督の仕事が結構リアルに再現されていて、みながら彼が、ふふふ、とか、あわかるとかいっている。ケラケラと笑いながら。見終えてから、わたしにスマホを返し、まあ、だいたいはあってるなといいまた笑う。こんなYouTubeあったんだと感心をしながら。
「そんなにがんばらなくてもいいよ」
 ベッドに入り、彼を抱きしめながらそうささやく。
「そのつもり」
 さらっといいかされ、ぷっとつい笑ってしまった。笑かさないでよといったタイミングいと彼がわたしの乳首を舐めたタイミングが重なり、わたしはあっと声をあげ、そのまま目を伏せる。
 元気がないような平穏な波のような穏やかな行為だった。シーツの乱れも呼吸の乱れもあまりないなんだか教科書に載っているようなマニュアル的な行為だった。けれど、わたしはまた泣いた。シクシク。そんな感じで。涙のわけはもはやよくわからない。泣かないといけないような儀式のようなそんな感じになっている。意地悪をして泣かせているわけではない彼。けれどほんとうは意地悪をしているのかもしれない。わたしの身体の中をいつも貫いているのだから。そして快感を残していくのだから。
 好きなひととの行為があるからヘルスの仕事ができる。同じ行為でもそれは全く違うのだから。
 彼に、なんかあまり歳食わないねと話すと、そうそうよくいわれるんだよねとちょっと照れながらベッドからはいでる。
「いい歳の取り方してるね。たまにこうして女を抱くからかな」
 半笑いでそういうと、まんざらでもない様子で、そうかもなと呆れた声をだし、まあ、波にも乗るしなと笑う。女と波に乗るぅ? わたしも同じように笑った。
「この前さ、ラジオでいってたんだよ。明日からがまた始まりだって。いつだって朝生まれ変わるんだってさ。じゃあ、何度生まれ変われっていうんだよなぁ〜。でもそれを聞いてさ、なんか納得したっていうか……、」
「へー。でもいつかは死ぬよ。明日かもしれないし、いまかもしれないし。わからない。わたしがいま、あなたを殺すことだってある」
 殺したい。殺したい。わたしだけのものにするにが殺すしかない。殺意がないわけではない。けれど彼には守るものがありすぎる。
「じゃあ、わたしを殺してよ。好きな人に殺されたい」
「──。ダメだ。殺人犯になるし」
 沈黙が降りてきてまたおもてから雨の音がしてくる。本気なのになとおもいつつ、あ、うそだようそ。忘れてといいのこし、手のひらをひらひらさせシャワーをしに浴室に向かう。なにか言葉を背中に感じたけれどもう振り向かなかった。怖かった。
 ほんとうにわたしを殺してくれることはない。わかっている。メンヘラじゃねーかよということも。
 いつまでこんな関係がつづくのかわからない。わかっているのはお互いが身体だけを求めていることだけだ。それだけでもいいじゃないか。
 わたしは顔から少し熱めのシャワーを浴びた。

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