気のせい

 なんとなくだけどいつもと違う雰囲気だったから話しかけるのをやめていた。けれどわたしから話しかけないと絶対に口を開かないとわかっていたから、どう最近はいそがしいのというありきたりなことをありきたりなふうをよそおって訊ねた。
「──あ、うん──、」
 それだけいうとまた閉口し顔をテレビに向ける。テレビはなにかお笑い番組でもやっているのか大袈裟すぎる大笑いがいたく耳に入ってくる。こっちは笑えない状況だというのに。
「──それなりに忙しいよ。変わらず」
 なん分かしてやっとつづきの応答があった。タイムラグがありすぎて一瞬なんのことだか考えてしまう。
「毎日会社にいる感じがする。うちは寝に帰るだけだ」
「そっか。それは大変だね……」
 体調に気をつけないとというと、ははっと苦笑いをし、酒の量だけは増えるけどとつけ足して目をつぶった。
 部長に昇格した直人は以前の倍くらい忙しくなった。忙しくなったかわりに元気も気力もついでに性欲もわたしに対する感情もなくなった。昇格と引き換えになくしたもののほうが多いのかもしれない。
 それでも部長という役割を得た彼は責任感があり風格が出てきたようにおもう。真面目がさらに輪をかけてくそ真面目になった。そんな感じだ。
 俺はひとに関わりなくないんだ。ひとが嫌い。めんどくさい。話しかけて来ないで欲しいもん。きっとコミ障だよ俺。
 以前いっていたことがあり、そっかなぁ? そんなことないよねだって部長になったんだよコミ障のひとがさ、まずもって部長なんかになれなくない? 普通はとわたしはいい返したけれど、なりたくてなった訳じゃないしと辛辣なこたえが返ってきて口をつぐんだ。
 確かにつき合いだって長いし新鮮みもない。ないけれどなんでわたしだけがいつもこんなにぞんざいな扱いを受けても好きなのだろうか。ぞんざいだという認識は彼にはないのだろうか。ないだろうなきっと。どこにも連れていってはくれないし最近は一緒にご飯さえも食べない。自由行動。一緒にいて違うものを食べている。それでもわたしは彼が好きとか頭がおかしいのだろうか。それとも依存か。わからない。
「ねぇ、」
 ソファーで横になっていた彼に声をかける。待っても応答はない。もしもし。応答せよ。無線でもテレパシーでもダメだった。そっと近寄り顔を覗きこむ。おいおい無駄にいい男じゃねーかよ。顔でつきあっている訳じゃないけれどやっぱり顔もあるのかもしれないなとおもいつつ顔をしばらくみつめる。
 いままでこんなに身近に感じた男はいなかったしこんなに好きになった男はいなかったとまた自覚をする。
 顔を散々みたあともうお腹いっぱいになりシャワーをして洗顔をしこざっぱりして冷蔵庫を開ける。缶ビールと缶チューハイとマーガリンとマヨネーズともうとっくに賞味期限切れの焼肉のタレの入った冷蔵庫。このタレまだ捨ててなかったんだと手に取ると遠心分離機をかけたように油と調味料が分離しておりついでにカビが生えていてぎょっとなる。ぎょっとなったわりにまた元に戻す。キャッチ&リリース。魚釣りじゃないないとなぜだか笑いが込み上げてくる。これ間違えて焼肉につけて食べたら絶対に腹壊すじゃんとおもいつつもやっぱり処分はやめておいた。殺したいのだろうか。ふふっ。つい声を出して笑ってしまう。
 アルコール度指数7%のレモン酎ハイのプルトップを引く。プシュと景気のいい音がなり、口をつけ一気に胃の中に流し込む。もうこれで3本目。わたしだって酒の量が増えた。お前のせいだとは決していえないし酒がないと眠れないのは事実なのだ。
 いつも敷きっぱなしになっているせんべい布団に横になる。缶チューハイとメガネを横に置く。いつの間にか誰が決めたのか謎なのだけれどいつもわたしは直人の右側で眠る。直人はわたしの左側。普通男ってさ、右側じゃないの? だって抱きしめるときって右手のほうが自然でしょ? 以前同じ職場だった子とそういった夜のことを喋っているときそんなことをいっていて、ああそうだよなぁなんで直人って左側で眠るんだろうという疑問が浮かんだけれど、浮かんだだけでそんなことなどどうでもよかった。ただ、一緒に眠るだけで。それだけでよかった。いまだってそうでその気持ちはずっと変わらない。
 乱視の目で大きな掛け時計に目を向ける。23時か24時のあたりをうろつく時計の針がなん本かみえる。あっ、しまった電気切ってないやと立ち上がり、急に立ち上がったものだから缶チューハイを倒してしまい少しだけ残っていた液体に顔をしかめる。枕元にあるティッシュに手を伸ばしなん枚か引っ張り出して床を拭く。ただこぼれた液体を拭くはずだったはずなのに、ティッシュにほこりが付着してさらに床を拭き始める。よくみてみると床にほこりや髪の毛やらがたくさん落ちていることに気がつく。そういえばめっきり掃除してないなと汚い床をみておもう。おもうけれど明日掃除をしようとかはまるでおもわなく、そのかわりなぜだか知らないけれど不意に涙がこぼれてさらにティッシュをなん枚は引っ張り出してまた床を拭く。今度はもうほこりはつかなかった。
 はっとして目がさめる。隣の定位置に直人がそっと滑りこんできて眠っているとおもいこんでいるわたしの頬に手を乗せる。起きてるよ。わたし。けれど寝たふりをし頬にある手の温もりを噛みしめる。
 部屋の電気は常夜灯になってる。さっきチューハイをこぼしてしまいすっかり電気を切るのを忘れていた。
 たまに直人はわたしの顔をさわる。確かめるかのように顔の稜線をなぞる。そして背中を向けて眠ってしまう。残されたわたしはそれからは一睡もできなくなる。
 一睡もできないまま朝を迎える。朝の気配は外から入ってくるあかりでわかる。冬の時期はあかりが遅い。遅いから勘違いをする。なかなか明けない朝が来ない。けれど実はもう6時半だったりする。
 明け方。直人はわたしの下着をはぎ取ってわたしの中に容赦なく入ってくる。声にならない声。叫び声のような悲鳴。嬌声。
 直人は朝だけ素になりわたしのことをおもいだしたかのように求めてくる。求めてきて眠くても絶対に受け入れてしまう。それ以外直人からの愛が感じない。もう体を重ねるほか愛情などはないのだろうか。いやないだろう。わからない。もう朝が始まってしまう。そしてわたしたちはまたひとつづつの個体となり別々になり、他人になる。
 気がつくとまだ横に直人がいて寝息を立てて無防備な顔をし眠っている。何時だろう? メガネをかけ時計をみる。
「えっ!」
 びっくりしつい声をあげる。ついさっきみたような時間だった。11時と12時の間の時間。
 もう12時間も横になっている。お腹が空いていた。隣にいる眠っているひとを起こさないよう布団から這いでる。トイレにいきたかった。
 と、そのとき足をつかまれてきゃっとおどろく。
「いかせないし」
 足をつかむ手の力が強くて動けない。
「はなして。トイレにいきたいの」
「ダメ」
 なんでなのというと、俺が先といい残しさっと立ち上がりトイレにいってしまった。素早い。わたしはクスクス笑う。
 戻ってきた直人が台所で手を洗いながら、なんか食べにいくかと珍しいことをいうから、えっ? とおどろきけれど、うん! いく! ととことん笑顔でこたえた。うなぎがいいなとリクエストすると、ウナ吉にいくかと提案したので、うん、歩いていこ! とわたしも提案をした。ウナ吉は徒歩10分のところにある。
「えー車でいこう」
「混んでるよ。きっと。停めるとこないかもよ。昼どきだし」
 うーん。出前にするかぁと悩んでいる直人は普通に直人だったし、なぜ昨日あれほど不安になったのかが不思議だった。このままこの時間がつづけばいいのになといつもおもう。おもうけれどきっといつかは終わる。いつ? そんなものわからない。わかれを計算をし一緒にいるわけではないのだから。
「もしもし──、」
 ウナ吉に電話をしている直人を横にわたしはぼんやりと窓の外をみやる。晴天だ。
 あっ、掃除しよと思いたち立ち上がる。
 クイックルワイパーにシートをセットし床に滑らす。直人はまだ電話をしている。特上にしてといえないわたしはまだ絶対に直人が好きだ。 
 雲ひとつない嘘みたいな青い空が異世界にいるようで不思議な感じがした。

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