見出し画像

チャルメラ

 あたたかいものが冷え切っている足先にあたり、はっとして瞼をあげる。薄暗い部屋。天井からゆっくり目と体を左に向ける。比較的大きな背中をじっとみつめる。
 あれこんなに背中さ大きかったっけ? と。規則正しく上下に動いている肩に耳を澄まさなくても聞こえてくる寝息。ああそうか寝ちゃったんだ。わたしはその背中に手をのせる。滑らかでまだ水分を吸い込みそうな綺麗な肌に。
 なんじだろうか。すぐ帰るといっていたけれどすぐに帰らなくていいのだろうかとおもいつつ規則正しく寝息を立てているひとを起こさないようにゆっくりと布団から這い出る。それでもやっぱり起きる気配はない。さむっと小声が出てしまうのは裸だったからであわててさっき性急に脱がされたパジャマを探す。ゴミのよう丸まったショーツがひどく滑稽にみえる。パジャマは上下ともきちんとワンセットでベッドの下においてあった。着替えて規則正しく寝息を立てているひとの顔にねぇ、と声をかける。ねぇ。起きないでいいの。2度、呼び、3度目は体を揺らし、4度目はあまりにも無垢な顔すぎて頬をなぜた。
 階段を降りて台所にいき、いやにデカいマグカップにインスタントコーヒーとクリープとスティックの砂糖2本を入れポットのお湯を入れる。ドリップコーヒーよりもインスタントコーヒーのほうが好きだ。毎朝飲んでいるコーヒーだけれど毎朝甘さが違う。クリープの盛りかげんなのかコーヒーの量なのかなにが違うのだかわからない。うん、今日はおいしいという日と、あちゃー甘ったるいなという日。なんというか毎日微妙に味が違うのだ。今日はまあまあおいしい日寄りだった。温風ヒーターに表示されている部屋の温度は9度と出ていた。スイッチを押す。その前にいささか大きすぎるマグカップを持って温風がくるのを待つ。ぼっという音がし温風が出てくる扉があいてぼーっという音とともに温風が吐き出される。
 おもては嘘くさいほど真っ青な色をした空が広かっており、ときおり車が通る音がする。シーンとした部屋の中でコーヒーをすする。ここだけ時間がとまったようだ。
 心療内科にいこうかな。午後の診察は19時までだしなと考えて温風を受けながら文庫本を開く。体がじょじょにあたたまってくるのがわかる。冷たい足先も冷たくなくなってきた。本格的な冬が到来したなとまた空をみつつつぶやく。
 まだわたしのベッドにいるひとは起きてはこない。
 
『いまから会えませんか』
『今夜は? どうですか』
 頻繁に連絡がきていたけれどずっと返信をしないでおいた。会えませんか? メールはいつも唐突で深夜1時だったり朝8時だったりするからだ。
『今夜は比較的早く帰れそうです』
 昨日の夜またLINEがきたけれどつい既読にしてしまったため
『なんじごろ?』
 つい打ち返してしまった。すぐ既読になり
『わかりませんね…』
 一文のあとにクマが泣いているスタンプがくる。わかりませんねと素直なところはあまりにも天然だなと頬が緩んだ。
『じゃあ、朝仕事の前にうちにおいでよ』
 いくのもめんどくさかったし来てくれるのならそれはそれで都合もいい。けれどいや、あやさんのうちはちょっと……というような否定の文章を想像していた。ヒカルくんは結構ビビりなのだ。
『え? いいんですか? 朝9時にいきますね!』
 え。返信におどろきつい声をあげてしまった。来るの? ほんとうに? それでも来ない確率のほうが高いから勝手に入ってきてねと打っていちおう鍵を開けっぱなしにし眠ることにした。
「……さ、ん」
 遠くのほうで声がする。夢? いやに現実味を帯びている。あやさ、ん、はっきりと耳元で聞こえ人肌が布団の中に入ってきた。
「来ちゃいました」
 うまく現実が飲み込めない。寒いっといいながらもわたしのパジャマを脱がしていく。寒いのに肌に熱が伝わるのがわかる。素っ裸にされて首すじにキスをされる。あっ、という声をかわきりにヒカルくんはあえないでいた時間をうめるかのよう、わたしの足を持ち箸をわるように両足を開かせ自分のものを目標の部位目掛けて否応なしに入ってきた。うっ。ヒカルくんが放った単語は最初のそれと最後の、あっ。だけだった。わたしは精神を病んでいる患者のようにバカみたいな声を出しバカみたいに震えそして痙攣をし下半身が浮いた。
「なんでいつも泣くの?」
 行為がすみわたしは肩を震わせながらヒックヒックと嗚咽をもらした。
 わからないという言葉のかわりに首を頼りなく横にふる。2度。ヒカルくんはそんなわたしを頭から抱きしめそのまま寝息を立て始めた。
 なんで泣くんだろう。だれとしていても泣いている。愛されていると錯覚をしているからなのだろうか。それともヒカルくんだからなのか。いやいや違う。抱かれるたびに泣くのはいつ死んでもいいとおもっているのかもしれない。だれかの胸の中で死ねたら。最近はそんなことばかり考えている。迷惑な話だなとめんどくさい女だなと自虐的に笑う。

 階段からトントンという足音が聞こえヒカルくんが起きてきた。
「おはようございます」
 寝癖ついてるよといいはははと笑う。もう15時だよと続ける。
「そうなんですよ。すみません。疲れててつい寝ちゃいました」
 グーとお腹の音が鳴り、ヒカルくんは恥ずかしそうにお腹を押さえた。
「腹減ったか?」
 きっと朝からなにも食べてないはずだった。だから訊いてみる。わたしもその実腹が減っていた。グーっお腹が鳴る。
「まあまあです」
「え? なにそれ」
 お腹を押さえながらケラケラと笑った。ラーメン食べる? チャルメラだけども。ええ。はい。いただきます。
 ラーメンを2袋取り出しじゃあ作るねと声をかけ冷蔵庫からたまごを取り出す。
「インスタントラーメン食べるの久しぶりです。嬉しい」
 嬉しそうにヒカルくんがいい寝癖を気にした。遠くで救急車のサイレンの音がし近いねというと近いですね僕を迎えにきたのかもですねと真顔でいう。
「そうかも」
 わたしはクスクスと笑う。ヒカルくんも笑った。
 出来上がったラーメンを一緒に並んで食べる。寒い中でのラーメン。美味いに決まっている。
「味……、」
 顔をみあわす。
「うん。薄いねぇ。ごめんね……」
 コショウ入れましょう! あわててフォローをしてくれるヒカルくんにほんとうにごめんねとまたあやまった。
「いやいや大丈夫ですよ!」
 薄味のラーメンをすする。お湯が多かったようだった。いつも目分量の上2人前を一気に作ったので余計に曖昧になったのだろう。味も頭もボケている。
「あやさんってもうすぐお誕生日じゃないですか?」
「ええまあ。お誕生日です。覚えてたんだね」
「出会ったときもこの時期でたしか。で、わたしもうすぐ誕生日なんだぁっていってました。だから覚えてます」
 幾つになったんですか? とはさすがに訊かれなかった。出会ったときわたしは30代前半でヒカルくんは24歳だった。10歳くらい年下で知りあって10年が経とうとしている。
「ヒカルくんはね変わらないね。あの頃のままだ」
 ラーメンはまずいけれどじょじょに減りつつあった。箸を止めなければいつかはなくなり胃におさまり、小腸から大腸にいく。
「けれど、いまのほうが好きだよ。大人になったね」
 顔を見られないようそう続けた。
「ヒカルくん、早く彼女をつくってよ」
 さらに続ける。
「え? なぜですか?」
 彼のどんぶりはすっかり空になっていた。スープはさすがに残していてコショウが砂のようたくさん浮いている。
「なぜって……、ねぇ、」
 ため息をひとつ吐き、そのあとの言葉がみつからなかった。
 もうお年頃だしさ、結婚とかあるでしょ? と喉のそこまで出かかった言葉を飲み込んで
「わたしってさ、いったいどんな存在なのかな。ヒカルくんにとって」
 急にサイレンの音がし出し音が遠くになっていった。だれかが乗ったのだろう。ヒカルくんの顔から色が消えていく。訊いてしまって後悔をした。
「あ、いや、忘れて。なんでもない」
 なんでもなくなどはない。わたしといてはヒカルくんは彼女を真剣に作らないだろう。適当でいい関係。したいときにできる関係。年上の女。都合のいい女。それでもいい。しかしそれではいけない。彼のためにならない。
 ブーブーとテーブルの上にあるスマホが寒いようという感じでブルブルと震えた。
「あ、ちょっと、」
 手でわたしを抑える真似をしスマホを握りしめ通話ボタンを押し、もしもしと電話に出たヒカルくんは靴を履いて玄関のドアを開けおもてに出ていった。
 並んでいるラーメンどんぶりの器が同じ位置に箸があり、なぜだかわからないけれど涙がこみ上げてきてしょうがなく急いで器を手に取りシンクに持っていった。サイレンの音がまだ薄っすらと耳の中に残っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?