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くるしい

 しゅうちゃんに会う。来週には新車が来るよ。先週だったかその言葉を訊いてからしゅうちゃんの車を降りた。その車。黒いヴィッツは新車で買って5年と半年。17万キロを乗っていろいろとガタが来て廃車にした。ヴィッツの助手席に一番最初に乗ったのはあたしだった。「なんかさ、あやちゃんの特等席になってるね。もはや」なんていいながらヴィッツで下呂温泉に行ったり、伊豆に行ったり、金沢に行ったり、たくさんラブホにも行った。思い入れの多い車だった。けれど、なにせ建築士なので荷物がべらぼうに多い。ヴィッツではもうキャパオーバーだった。助手席は図面やパソコンに占領されあたしはそれらを隅にどかし乗っていた。
 ヴィッツの中で何度も別れ話をした。あの日は大雨でお互いに車で待ち合わせをし、しゅうちゃんが乗れよというのだからしょうがなく乗った。あたしは後部座席にいて(そのときはまだ後部座席には余裕があった)しゅちゃんにもじゃあこっちに乗って、と後部座席に促し並ぶ形で別れ話をした。奥さんにあたしのことがバレてしまいそれでそうなったのだ。あたしはもう身体中の水分が全部でちゃったんじゃないの? くらい嗚咽を上げ泣いた。泣くというより叫んでいた。おもては大雨。雨が車の天井を叩く音に負けじと泣いた。泣き過ぎると呼吸が苦しくなることをそのとき初めて味わった。今の今までそんなに感情を込めて泣いたことがなかったのだ。父親が死んだときでさえそんなに泣かなかったし産まれたてのあかちゃんのような泣きかたは自分でもおそろしいほどだったからしゅうちゃんはもっとおそろしかったしなにも出来ない自分の不甲斐なさを憎んでいたと思う。最後に、お願い、最後に、抱いて……。なんとか絞り出すように訴えたけれどしゅうちゃんはただあたしをきつく抱きしめるばかりでもう疲弊をしていた。
『また泣く。泣いて泣いて。もうめんどくさい』
 実際彼の心の中読めていたし涙を武器になんて思ってなどはなかったけれど女の涙ほどめんどうなことはなくどの男もさーっと引いていくのはわかっていた。わかっていたけれどしゅうちゃんの場合はもう構ってはいられなかった。もっとも嫌うことをしても止めることなどまるでできなかった。涙がどんどん溢れてくる。どうしようもなく。あたしは多分2時間は泣いていたと思う。
「……、もう、」
 帰りたそうなしゅうちゃんの言葉を遮りあたしは彼の胸ポケットにさしてあるボールペンをさっと取り出し、先端から思い切り彼の太腿を刺した。うっ、という声と同時いやな感触が手のひらから身体全体に広がる。うぐいす色の作業着がみるみる真紅に染まっていく。いやーー! あたしがしたことなのにあたしはびっくりして急いで車から降りた。雨がひどく降っているしもうおもては闇に覆われいた。
 お、おい! しゅうちゃんがあたしを追いかけついてくる。太腿のボールペンはもう抜いたのか無くなっていたけれど真紅は健在でそれは雨に濡れて一瞬わからなくなったけれど裾の方から血が雨と一緒に流れてきて、もうやだよ、もう……、あたしはその場にしゃがみこみ顔を覆いながら大声で泣いた。頭の中が真っ白で呼吸もうまく出来ない。過呼吸になり心臓がばくばくして夏だったけれど雨に濡れてつめたくなった身体はいっそう縮まりあたしはその場に倒れこんだ。頭の中が混乱して取り乱しパニックになったのだ。こんなことはもう一生ないだろうと思う。
 しゅうちゃんの怪我は全く大したことはなかった。けれどあのときあまりにも好きが加速し過ぎてしまい、そんなんだったらあたしが殺してしまえばいいじゃないか。それからあたしも死んでやる。とふいに思いつたのだ。
 彼はあたしに人を愛することを植え付け、快楽という麻薬を憶えさせ、優しさという海に溺れさせ、そうしてあたしをあたしの全部を殺したのだ。
 本当に生き地獄だった。
 快楽は誰からでも与えられるものではない。心から好きになり愛した男とつながることでやっと手に入れるものだとしゅうちゃんはあたしに教えてくれた。

「へー、カローラにしたんだ。今度は」
 うん、けどさ、全然まだなれないんだよ。しゅうちゃんは苦笑いを浮かべ、最近の車ってすげーのな、とつけたす。なにかいろいろな機能がついているけれど怖くて試せないよ、といっていた。
 新車の匂いがした。来てまだ1週間だしね。ふーん。そんな会話をしながらふと、助手席の足下にヘアピンが落ちていた。ピンク色のヘアピン。多分まほちゃんのだろう。娘さんのだ。
 あたしは今からしゅうちゃんに抱かれる。けど、なにもいえない。好き、とても好き。まだこんなに好き。そんなこと絶対にいえない。彼はあたしがもう完全に割り切っていると思い込んでいる。それか思い込んでいるふりをしているのか。わからない。なんこんなにも好きなのだろう。それになんでやっぱりあってしまうのだろう。なんで? それさえも聞けない。あたしたちの関係性にはもう名前すらもない。仮に名前をつけるなら『セフレ』か『都合のいいおんな』あたりだろう。それでもいいから。あいたい。そんなことを以前にいいそしてまた始まってしまったように思うけれど、会わないでもつらいし会ってもつらい。どうしたらいいのかほんとうにわからない。
 抱かれるたびにいつも思う。そんなに優しくしないで。そんなにあたしを。涙を流せない代わりにそっと子宮から歓喜の涙を流している。
「え? 今日お前さ、仕事だったの?」
「うん」
 他愛ない会話の中、あたしは新車の匂いを肺の中一杯に吸い込む。ピンク色のヘアピンがじっとこちらを睨んでいるようにみえる。

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