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いもうとさん

『げんき』
 朝の9時。いもうとさんは決まってこの時間に電話を寄越す。頼んでもないのに。半ば義務のように。あるいは生存確認のように。
『ええ』
 毎日代わり映えのない中年女性の一人暮らしの生活の中で『げんき』とはいったい具体的にどのようなくらいの『げんき』でなければいないのか考える。
『そう。ならよかった』
 いもうとさんは何かを食べている。電話越しにガサガサと音がするしならよかったが、なあよらった。という具合にきこえた。
『今日はね病院に行ってくるわ』
 あ、へー。もうあれから一ヶ月経ったのね、と、半ばおどろいた声をだす。いもうとさんはしかしいったい今どこに住んでいるのだろう。電話は毎日同じ時間にかかってくるけれどこの15年ほどあっていない。
『根治はしないのかな。あたしもその気があるみたいね。たまにこわくなるの』
『それならあなたも病院に行きなさいね』
 そうね、そうする。じゃあね、おねいちゃん。
 たった2分で電話が切れる。いつもそう。いもうとさんはなぜかいつも『公衆電話』からかけてくる。携帯の画面に表示されるのはいつも『公衆電話』で最初はそれこそオレオレザギかと危惧したけれど今では『公衆電話』からかかってくる電話は全てにおいていもうとさんになっている。
 いもうとさんといってもあたしたちは同じ顔をして同じ誕生日だし同じ血液型で同じお腹の中に10ヶ月一緒にいた。あたしの方があとから産まれただけで『おねいちゃん』だなんておかしいと思う。どちらかいえば『いもうとさん』の方がよかったのかもしれない。いつもおそろいの洋服を着せられ同じものを食べ思春期になればその当時つきあっているおとこのこたちを騙したりもした。
「あ、おまえ、ねーちゃんのほうだろう?」とか
「わー、てゆうかさ、いもうとの方ってわかるよ。さすがの俺も」とか
 あの頃は楽しかったし毎日が修学旅行のようだった。遠い遠い日々。けれど今はもうあの頃の悪ガキだったあたしたちはいないし徐々にその記憶すら剥がれていっている。
 同じ顔をした人間がいる。しかし同じ顔なのにいもうとさんの顔がまるで思い出せない。どこに住んでるの? 今誰かと一緒なの? 子どもはいるの? それらの言葉はたった2分の時間では足りなくて訊けないのでないことをあたしは知っている。訊いてしまえばもう一生いもうとさんからの電話はかかってこない気がするからだ。
 孤独には慣れている。ずっと独り身だし男性とつきあったことなどはない。50歳を1つ過ぎてしまった。恋やら愛についてもうあれこれ考える力など残っていない。webデザイナーの仕事は個人でしているためうちから出るのは買い物と久美さんとの仕事の打ち合わせと園芸屋さんに行くくらいだ。それでもあたしはこの生活が気に入っている。いもうとさんの電話を待つように。
 病院はいつでも混んでいる。え? この人どこが悪いの? と思わせる人間が大多数の心療内科。観賞植物の葉っぱがゆらゆらと揺れている。全面ガラス張りの病院の中には午前中独特のおもての日差しがサンサンと降り注いでいる。
「こんにちわ」
 受付の看護婦さんが優しい笑みを浮かべ番号札を渡す。
「こんにちわ」あたしも同じよう挨拶をかえす。
「あ、そういえば自立支援の用紙届きました?」
 看護婦さんがあたしの背中に声をかけたので振り向いて首を横にふる。
「そうですかぁ。じきに届くはずです。すみません。実費になってしまって」
「あ、大丈夫です、」
 手続きの不具合で医療費が免除になる申請をし忘れていたのだ。なので看護婦さんが謝る理由などほんとうはないのに。あたしは首をすくめ、なんだかすみませんという具合に窓際の席に座る。
 人間との関わり方がよくわからなくなって人間と喋ると過呼吸になり考えがまとまらずいっとき引きこもりになった。もしあのとき久美さんがうちに来てくれなかったらきっと死んでいた。孤独死ね。久美さんはその後あうたびに、孤独死だけはよしてね、と冗談まじりに笑う。死にそうになったことでも冗談にしてしまう魔法を持つ久美さんに連れられて今あたしは心療内科にいる。
 窓の外から人間が歩いているのがみえる。闊歩して果敢に歩んでいる。日傘をさしている腰の曲がったおばあさんでさえお化粧をし赤い紅を引いている。皆この時間に生きている。孤独なのはきっとあたしだけではない。人は皆ひとりで産まれてきてひとりで死んでゆくのだ。
 あ、
 ちょうどいい具合に顔に太陽光があたる。目の前にある観葉植物の横に『いもうとさん』が立っている。茶色のワンピースとニット帽と気に入りのブーツを履いて。
「おねいちゃん、あたしたちはひとりで産まれてないわ。ふたりで産まれてきたのよ」と。ささやく。
「けど」
 かわいい顔したいもうとさんの目をじっと見つめる。けど、いもうとさんは続ける。
「けどね、やっぱりひとりなの。おねいちゃん」
「そうね」
 意味がよくわかりかねるけれどそうこたえた。いもうとさんはおそろしいほど満足気な顔をし観葉植物のうらに隠れた。

「先生、そういえばあたしには妹がいたんです。けど事故で死にました。今さっき思い出したんです」
 先生はカルテにペンを滑らせる。そうして目を細め
「そうですか」
 そうですか、と、繰り返し、眠れますか? と従来の質問に入った。
 夢と現実の狭間。
 それはとてつもなく遠くとてつもなく近い。
 会計をし病院から出ていくとき、おねいちゃん、あのね、いもうとさんはまだあの観葉植物のうらにいてニット帽に手をあてていた。

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