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ビタミン代謝療法で末期癌から生還した患者の声を紹介しています

二度の余命宣告後3年元気に地元の医師も唖然>末期消化器癌②からの生還者の声~「B17 第2巻 癌クリニックの体験」(1979年初版発行 著者:ジョン・A・リチャードソン 訳者:渡辺正雄、河内正男、小笠原治夫 監修:河内省一 ノーベル書房)を紹介します。
※で囲んだ文章はシン・説が僭越ながら解説している部分です。
 ※消化器癌の病歴例が多いため3回に分けて紹介しています。今回は2回目です。※
※「50年近く前のアメリカ人のケースかあ」とおっしゃらないでください。本書ほど温故知新ということばが当てはまる本はありません。※
 
【L142N】直腸癌の72歳女性
1974年12月坐薬をさし込んだときに肛門の入り口にしこりを感じ、近くの病院で生検を受けた。病理学的報告では「浸潤性の変性扁平細胞癌腫」だった。女性が検査後休んでいるときに、ふと医師同士が「年を取り過ぎていてとても助からない」と話し合っているのを耳にしてしまった。どうせ助からない生命ならと、飲んだこともない酒を飲んで自殺しようと考えた。ひと箱買い込んだシェリー酒による自殺はうまくいかなかったが、この騒ぎのときに友人からB17療法はすばらしい療法だとすすめられた。
生検の翌月、1975年1月からB17代謝療法を始めた。女性のメモによれば、「1週間後から、今までの生涯に感じたこともないほど、気分がすぐれてきた」と喜んだ。食事療法もビタミン強化も正しく守ったが、手術も放射線も化学療法も受けなかった。癌と診断されてから2年経過し、健康で何の症状にも悩まされない毎日を送っている。
患者ファイルに添付された彼女の医師から仲間の医師に送られた手紙にはこう書かれていた。
「5~6000ラドの放射線療法を施せば、腫瘍の切除手術の代わりになろう。彼女の年配の死亡率から見て、ほとんど救済には値しないかもしれないが……」。
しかし、彼女は放射線も永久的な切除手術もしないで、元気に立ち直った。
 
【L129G】子宮癌と乳癌の前歴を持つ結腸癌の49歳女性
1965年に子宮を切除。6年後の1971年5月に左乳房にしこりを発見するも未処置で4か月後、腫瘍が胸壁にはりついていると診断された。翌月カリフォルニア州の病院で生検。癌性と確認され、「コバルト照射を受ければ約半年から1年は生きられる」と宣告されたので、コバルト照射を受けた。その結果、急に衰弱した。腫瘍は残ったままの感じで処置した場所は感覚を失う後遺症が4年半続いた。B17以外のビタミン療法を試みていたが、コバルト照射から1年7か月後の1973年5月、便通不調から結腸癌を切除。転移もあり化学療法をすすめられたが、彼女は拒否した。この際、「化学療法をしないともう2週間から2か月しか生きられない」と宣告されている。
菜食とビタミン中心の食生活を再開し、リチャードソン診療所のB17注射を始めた。はじめのコースを終えると、手術後の衰弱から回復し痛みもなくなり体重も増えた。数週間しか生きられないと言われてから3年以上経過した。彼女は、地元の医師のチェック結果も良好でその医師は唖然としていると話している。
 
【C120C】手術不可能な直腸癌の53歳男性
10年来の大腸炎が1974年4月に悪化し体重が15キロも減った。しかし、医師には大腸炎のためと言われ、その4か月後には失神し、すぐに結腸人工肛門手術が行われ、このときに癌が発見された。衰弱しすぎており、直腸腫瘍は切除できなかった。回復を待って3か月後、直腸癌は切除。さらに3か月後3回目の入院では癌が成長しており手術不可能と判明。この際医師から男性へ「とにかく帰宅して遺言書を作り、身辺の整理をしてから病院に戻って来るように。短い余生をできるだけ楽しくすごさせたい」と忠告された。
その9か月後の男性によれば、
<衰弱がひどく何かにつかまらないと歩けない。夜は睡眠薬と鎮痛剤を飲み続けているのに15分ごとに便所に行かねばならなかった。なんの希望もなく、妹と話し合いながら泣き暮れた。
ロサンゼルスの友人たちにわかれを言いたくて電話すると、彼らは私にB17療法を強くすすめた。
B17をすすめられたのは3回目だったが、何も失う理由はないし何もやらない理由もないので、B17療法を受けようと決心した。
3回目の入院から3か月後の1975年2月リチャードソン診療所に行ったときは、人に連れて行ってもらった。
治療2週間で体重は4キロ増えた。希望が湧いて診療所近くのレース場まで競馬を見に行くまでになった。運よくお金を儲け、夏にはハワイに休暇に行き、滞在中の直腸検査で腫瘍は20%小さくなり、喜び勇んでカリフォルニアに帰って来た。いつまでも灰色の病室になんか座っている必要はなく、自由に生きている。>
 

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