現役大学生も全然落ちてたし

私が小学生の頃だったか、『血液型別取扱説明書』

なるものが流行ったことがあった。

A型の人はこういう所があります。だから許して。

みたいな砕けた文体で書かれた占いめいた本だ。

所謂バーナム効果で誰にでも当てはまることが

連なっていただけだった気がするが、

クラスで取り合いになるくらいに人気だった。

人間は往々にして自己分析、もとい

客観的に評価されることが好きだ。

「あなたはこういう人ですよ」と言われたい。

占いが流行るのはそういうことだと思う。


ただし、客観的に評価されることは好きでも、

そこに当てはまっているのが自分の望む自分では

なかったときには、その評価に拒絶反応を示す。

その拒絶反応の結果として生まれた言葉が

「バーナム効果」であり、「インチキ占い師」だ。

客観的に自己分析はされたいが、

自分の全てを見透かされたいわけではないのだ。

心がふたつある〜。


しかし、趣味ではなく実用を伴った自己分析は

場合によっては必要不可欠になる。

就職活動などで、小学生のときやった占いのように

当てはまる・当てはまらないのアンケートで

自分がどんな分野に向いているのか

測られるタイミングがある。


常時斜に構えている男こと私はそれが苦手だ。

「やや当てはまる」とかいう選択肢の

意味がわからない。やや?とは??

「旅行の際は計画的に行動する方だ」?

ある程度の計画性がないと旅行にならないだろ。

行き当たりばったりじゃ帰れなくなるわ馬鹿が。

とか言いながら「全く当てはまらない」だけ

選んで「自主性がある」とか言われることが多い。


社会人になってからも

提出義務のあるストレスチェックで

当てはまる・当てはまらないの選択を迫られる。

本当に苦手だ。意味がわからない。

人間がこんな選択肢の組み合わせで明らかになる

はずがないのだ。

そう思いながら「とてもよく当てはまる」だけ

選んで提出したら、「ストレスは溜まってません」

と言われた。

確かにこれが意図的にできる人間の精神性は

弱いか強いかで言ったら多分きっと強い方だ。


人を客観的に評価することは難しい。

見た目が9割だなんて言われることもあるが、

内面は外面に出るというのはその通りでも

見た目で判断するというのは人間関係において

弊害をもたらす。


私は見た目で「真面目な人」「冗談通じなさそう」

と思われる節があるが、

知識の総量はサブカル分野の割合がいちばん高いし

冗談は大好きだ。

見た目で「冗談とか言わなそう」と判断された結果 

年次研修のときに発表順を決めるため

じゃんけんをする人間を同期の各グループから1人

選出する際、「私が行きます。人生で一度も

じゃんけん負けたことないので」と言ったら

「すごい!お願いします!」と返されてしまった。

そんな奴いるわけないだろ。突っ込みをサボるな。

本当に10人くらいに勝ってしまったときは

「な?」って顔しながらグループに戻るしか

できなかった。


神のような上位存在がいない以上はどうしても

人間が介在するのだから、客観的な評価などない。

価値の尺度、物差しをどこに構えるかで

人の見え方は変わってくる。

それが「みんな違ってみんないい」

ということだ。


稀に「みんな違ってみんなよくても

俺はお前を許さない!!」という人間はいるが

それも主観的な人のなせる技である。

倒すべき敵は往々にして存在している。


幸い何が良くて何が悪いかなんてそれぞれだよね

という世の中になってきている。

だが自由は閉塞と隣り合わせだ。

自由だからこそ不安で、

一定の普通や基準に縋り縛られたくなる。


それも価値尺度を自分ではなく「客観的風なもの」

に依存しているからだ。

自分が直感でどう思うのか、

どういう態度でどう臨むのか、

そこが先ずは大事にされるべきで、

他人からどう判断されるかは二の次の問題だ。

自分が何を学んでどう進んでいくか。

それが最優先で、

客観的に判断されるのはそれからで構わない。


このようにして、

私は今年剣道の段審査に落ちた言い訳をしている。

客観的評価から何を学ぶかが大事だから!

来年私は初心に返って頑張るのだ。

何事も遅すぎるということはないからね。


よいお年を。





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