それでも私の走馬灯のBGMにはAquaTimezが流れる

私がAquaTimez好きを公言してきて、

もう16年目になる。


AquaTimez、15年間の活動の末、

2018年に惜しまれつつ解散となったバンドだ。


私の音楽史は「決意の朝に」から始まり

「last dance」でひとつの区切りとなった。


出会ってから16年目にして、

何故ここまで狂ったように

ひとつのバンドを好んでいたのか

ようやく言語化に漕ぎ着けた。

時代に埋もれていいバンドではないんだ

ということを強く主張したい。


AquaTimezと聞いて感じる諸君のイメージは、

「ブレイブストーリー」「ごくせん」「BLEACH」、

そんなイメージだろう。

少なくとも、今2020年代に流行りの

お洒落でスマートなイメージはない。

どちらかといえば中高生向けの一バンドと

いう印象を持つ方が多いと思う。


タイアップした子供向けのアニメやドラマ、

どう聴いてもティーン向けの恋愛ソングである

「等身大のラブソング」、

ネットで叩かれてしまった国歌斉唱

等々を思い返せば、

20代が「このバンドが一番好き」と表明するには

周囲への受けが足りないのかもしれない。


しかし、ファンである私からすれば、

大人になった今こそ、聴いて、感じてほしいと

願ってやまない曲ばかりを

彼らは作っているのである。


まず、彼らの曲を愛する

私のステータスを紹介しなければならない。

私の価値観を共有することで

何故彼らの曲を好むのかという理由を

論理的に理解することで、

単にバンドを盲信しているということがないと

納得してほしいからである。


まず、私の政治的な主義としては

「中道」を志向している。

わかっている。皆が引き始めていることは。

頼む。続けさせてくれ。

極右や極左という言葉があるが、

私は「極中」になりたいのだ。


物事に是非というのは無く、

異なる視点があるだけである。

人は、家族や友人のために少し右寄りになったり、

意地や酔狂で左寄りになったりもする。

私もそうであるということを自覚しながらも、

一番真ん中に収束したい。

真ん中を貫いて穴を開けたい。

そういう思想である。


それは対人関係でも同じである。

誰に対しても偏見を持ちたくない。

「偏見を持たないように」意識している。

どんな人の価値観も妥当な点があり、

状況によって善し悪しが判断されるだけで、

どの人の存在も否定されるべきではない。

私はそういう信条で生きようとしている。


だから、私が人に何かを主張するとき、

あくまで自分の意見を相手に伝えたい

というのがその目的であり、

相手の意見を曲げたいとは思っていない。

いや、そんなこともない。

「価値観を受け容れる」という価値観を

他人に押しつけたいとは思っている。

難しい話ですね。


「自分が誤りである可能性がある」と

自覚をしているかしていないかというのは

天と地ほどの差があると思っている。

「無知の知」とは少し違う。

その自覚というのは、

他者の存在を認識しているということであり、

自分の感情を理解するということであり、

相手への愛情を表現するということである。


私のこの信条に、

AquaTimezはディンプルキーの如く

ピッタリと差し込まれ、

感性を面白いくらいこじ開けられた。

いや、このような自分の信条に辿り着いたのも

AquaTimezに出会っていたからである

可能性すらある。

卵が先かAquaTimezが先かという話である。


未だにそうなのだが、私は

J-POPの音楽性を言語化して理解していない。

メロディのみとして曲を捉えたとき、

好きな曲・そうでもない曲の差が

どこにあるのかわからない。

AquaTimezの曲はメロディとしても

総じて自分にとって好きな曲が多いのだが、

(言語化できている)他のバンドとの差異は

歌詞のメッセージにあると思っているので

以下、その点について述べる。


AquaTimezの曲を初めて聴いたのは

2006年の「決意の朝に」だった。

当時は小学生だったから

先程私が喚いた自身の価値観の形成も

言語化も完了しているはずがない。

しかしながら、

そんな自分をもどこか得心させる

説得力が彼らの曲にはあった。


彼らの曲の特徴は

「一人称・二人称視点」の曲である点だ。

聞き慣れない概念かもしれない。

私が考えたからだ。


楽曲の人称とは、

一人称 アーティスト

二人称 聞き手

三人称 歌詞に出てくる架空の人物

と区分できる。

単にその曲の歌詞に一人称や二人称が

出てくるというだけでは分類はできない。

例えば「僕」が架空の人物であるという

場合も多い。

曲の世界観を総合的に判断して、

アーティストが聞き手に呼びかけるように

描かれている場合に、

それを「一人称・二人称視点」の曲と言う。


歌詞の中の「私」や「僕」は一人称である場合も

三人称である場合もあるわけだが、

この見分け方は、筆者である私の

主観的な判断に委ねるしかない。

現代の技術では、曲の人称視点を

定義したいときは私に尋ねる以外にないのである。

ごめんな。


多くのアーティストの作品は

三人称視点に完結する。

曲の中で物語を作り、

そこに出てくる架空の人物たちに

仮託して思いを伝える。


AquaTimezは基本的に、

聞き手である我々に思いを伝えようとしている。

自分たちの主張を曲に乗せていたり、

音楽性を殊更に主張する一人称の曲ではない。

ただ聞き手に対して一方的に励ましたり、

耳障りの良い言葉を並べた二人称に完結する

曲でもない。

彼らは自分たちの不完全性を自認した上で

聞き手を励まそうとしてくれている。

そういう意味で一人称と二人称とを

含んだ曲を世に送り出している。


知名度の高い「虹」、

この曲で繰り返される「大丈夫だよ」

というフレーズを、彼らは当初

無責任な言葉じゃないかと心配していたそうだ。

「本当は大丈夫じゃないかもしれない」

「だけどやっぱり大丈夫だよ」

と、そういうメッセージが込められている。


別々の空を持って生まれた 記憶を映し出す空

君には君の物語があり 僕の知らない涙がある

もしかしたら僕が笑う頃に 君は泣いていたのかもしれない

似たような喜びはあるけれど 同じ悲しみはきっとない


「虹」の2番の歌詞である。

彼らは「自分」と「他人」の境界線を

とても意識した歌詞を書いている。

「君」と「僕」は異なる人間であり、

環境も価値観も違う。

ただ異なるもの同士でも、そこに生まれる

感謝や愛を大切にしたい。

そのようなメッセージをひしひしと感じるのだ。


だからこそ、彼らの曲は

「価値観は絶対的に相対的なもの」という

私の価値観に響き、あるいは私の価値観を

形成したのである。


彼らが伝えようとしているのは、

総じて聞いている人たちへの肯定である。

彼らは恐ろしいくらいに

自分たちのバンドのことを

不完全なものだと思っている。

あるライブで、「俺たちは昔等身大のラブソングで

売れた一発屋」と冗談めかして言っていたときは

笑うより泣きそうになってしまった。

そんな謙遜しないでくれよ。

(まぁそのライブ以前に開催された

Shoes and Stargazing Tour 2014では

「一発屋じゃないんで」とも言ってたから

本当に冗談なのには違いないだろうが。)

と言うかそもそも「等身大のラブソング」は

彼らの中で元々異質な曲であって、

たまたまティーンの若者の恋愛ソングとして

売れてしまったんだけど、

ただ惚れた腫れたの曲を作るだけの

イメージではAquaTimezは語れなくて、

等身大の自分たち(バンド)を応援してくれる

ファンのみんなのおかげで強くなれてるし、

ファンのみんなにも同じ気持ちで向き合って

等身大の自分でいていいんだと歌で肯定したい。

そんなファンとバンドの関係でありたいと、

そういう気持ちを込めてライブで

この曲を歌ってくれていたわけで……。

みんなぁ!!


完璧でないことを認めているからこそ、

自分たちは他人の優しさを感じる事ができるし、

曲を聞いてくれている人の欠点も

肯定することができる。 

彼らは無責任にポジティブな

言葉を並べている訳ではない。

寧ろ人間のネガティブなところを歌っている。

元々自分たちがネガティブであるから

聞いてくれている人を勇気づけるのに

綺麗な言葉だけでは伝わらないと

思っているのである。

良い思い出だけでは生きられないけれど、

今生きている自分たちや

周りの大切な人たちを愛して生きていこうと、

そう歌っているのである。

このような曲を書けるのは彼らしか知らない。


彼らは音楽で世界を変えられる

バンドではないかもしれない。

しかし、この「人を肯定する力」を持つ曲を

作り出す点において唯一無二であると思う。

完璧からはほど遠く 人間じみて愛おしいように

愛されるって そんなに難しいことじゃないよ

世界にいる一人一人に 頷いてもらえるような

生き方をしようだなんて グロテスクなエセ道徳だ


これは、最後のアルバム「二重螺旋のまさゆめ」の

「over and over」の歌詞である。

最後のライブでこれを歌われたときはもう

感極まってしまった。

彼らの到達点を見た気がした。

だから解散にも至ったのだろう。


「I love you, because you are you」なんて

歌えてしまうのがAquaTimezである。

ポエミーに感じて苦手だという人もいるはずだ。

けれど彼らは綺麗事を

いちばん綺麗に歌えるバンドだと思う。

私の価値観や優しさは、家族と友達と

AquaTimezで形成されたと本当に思っている。


解散から早3年、

昔読んだ小説を大人になって読んでみると

見方が変わるように、15年の歴史のある

彼らの曲は、私に青春を思い出させると同時に

今また違う想いを起こさせる。

子供の頃よりも自分は優しくなれているか、

大事なものを忘れていないか、

そういった自問をさせてくれる。

ボーカルの太志はlittle paradeというグループで

また曲を作っている。

他のメンバーも、それぞれ音楽を続けたり、

また違う道を見つけて進んだりしている。

まだ私の青春は終わらないようでどこか安心する。


サブスクリプション全盛期の今、

「音楽を聴く」ことが主の動作になることは

少ないかと思われる。

通勤しながら、作業しながらがほとんどだ。


AquaTimezの曲は歌詞の優しさにその

真髄がある。

沈んだ気持ちのとき、

歌詞カードを眺めて彼らの曲を聞いてみてほしい。


また彼らのライブに行きたい。

根拠もなく大丈夫だと言っておくれ。

次に会えた時もまた。













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