どんな逆境にも負けない男、歳内宏明

今季途中に東京ヤクルトスワローズに入団した1人のピッチャーがいる。歳内宏明、27歳。背番号は91。この大きな数字の背番号に、歳内のこれまでの野球人生が詰まっている。

歳内宏明という選手

歳内は1993年7月19日、兵庫県尼崎市で生まれた。2歳の時には阪神淡路大震災を経験している。その影響で負った多額の借金を返すために働き続ける父を見て、幼き頃の歳内は父を楽にするためにプロ野球選手になるという目標を持つようになったという。
歳内が野球を始めたのは小学3年生のとき。中学生になると、ボーイズリーグの宝塚ボーイズに所属。この宝塚ボーイズはあの田中将大を輩出した、地域では強豪で知られるチームである。そこで力をつけた歳内は、チームの監督の勧めもあって遠く離れた福島県の聖光学院高に進学する。

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「プロ野球選手になる」という目標を持って進学した歳内は、1年生の時からベンチ入りするほどの能力の高さを見せつける。2年生になるとチームのエースに成長し、夏の甲子園ベスト8まで導く。この頃から歳内の名前は全国に轟くようになる。現在日本ハムのエースである有原を擁する広陵高に1―0で投げ勝った試合や、現在球界最高のセカンドである山田を擁する履正社高に投げ勝った試合は高校野球ファンにはおなじみだ。そして3年の夏にも甲子園に出場した歳内は、その年のドラフトで阪神タイガースに2位指名を受ける。歳内の幼き頃からの夢はここに叶ったのだ。なんと順風満帆な野球人生・・・


というわけではない。高校時代の歳内は逆境の連続だった。ストレートは高校入学当時から130キロを超えるなど能力は高かった歳内だが、実は腰痛に悩まされていた。強い相手には好投しても、実力的に劣るような相手には痛打を浴びるような投球を繰り返し、チームメイトからの信頼も失っていた。こんなやつはいらない、そう言われたことすらあった。エースとして名前をあげた後も、腰痛は悪化する一方だった。このような逆境を乗り越えていく中で、歳内は「プロ野球選手になる」という自己目標のために野球をしていたところから、周りを見れるようになっていった。そんな歳内をさらに成長させる出来事が起こる。2011年3月11日──そう、東日本大震災だ。歳内自身にとっては2度目の大震災。野球に集中できるような状況ではなくなり、野球ができるありがたみを知った。被災県の代表として、チームのエースとして、様々な思いを背負ってマウンドに上がるようになった。3年の夏、敗戦した時に見せた涙は歳内の3年間の成長の証だった。

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舞台は再び甲子園に

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こうして、高校3年間で野球の実力だけでなく人間的にも大きく成長しながらプロ野球選手になるという夢を叶えた歳内。プロでは地元である阪神に、やり残したことがある甲子園を本拠地とする阪神にドラフト2位と高い順位で指名され、将来のエースとして嘱望された。そんな歳内はプロ1年目から上々の滑り出しを見せる。二軍で10試合に投げて4勝、防御率は1.95。フレッシュオールスターに選ばれると、1回を無失点に抑えて勝ち投手。9月2日には甲子園で高卒ルーキーながら先発で一軍デビューを果たした。残念ながら勝利投手とはならなかったものの、高卒ルーキーで一軍登板を果たしただけでもすごいことである。

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プロ2年目の2013年には、開幕早々に中継ぎとして一軍に昇格。残念ながら結果はあまり残せなかったが、二軍では先発として登板を続けた。
プロ3年目の2014年には20歳にして結婚。相手は高校時代からの知り合いだというが、元々は福井県と福島県という遠距離で連絡を続けながら交際、さらには結婚に至ったというからすごい。こうして守るべき人ができた歳内は飛躍を見せる。ウエスタンリーグの開幕戦で開幕投手に指名されると、4月10日にはこの年一軍初先発。この日は長女の生まれた日でもあった。シーズン途中には中継ぎとして登板するようになり、7月30日のヤクルト戦では4回無死満塁からマウンドに上がり無失点に抑える好リリーフを見せると、味方が逆転しプロ初勝利をマーク。さらには日本シリーズでも登板、日本プロ野球80周年記念試合として行われたMLBチームとの試合でも阪神巨人連合軍の一員として登板した。

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前年の活躍そのままに、歳内は4年目も結果を残す。2015年はシーズン中盤に一軍に昇格すると、自己最多の29試合を投げて1勝1敗2H、防御率2.62を記録。ストレートの被打率は驚異の.083と圧倒し、そこに武器であるスプリットを織り交ぜた投球で打者を打ち取っていった。また、CSにも登板し無失点に抑えた。韓国からやってきた助っ人守護神・呉昇桓が退団することもあって、松田遼馬や石崎剛らとともに後の守護神候補とも言われるようになってきていた。

2016年には初の開幕一軍入りを果たすと、9試合に登板し0勝0敗2H、防御率3.00。シーズン途中からは二軍生活が続くなど、直近の活躍ぶりを見ると足踏みの一年となってしまったが、オフに行われたU―23W杯の代表に選ばれると、主に守護神を務め登板した全4試合を無失点に抑えるなどチームの優勝に貢献し、胴上げ投手にもなった。
この経験を活かして来季こそは一軍に返り咲き、そして成長してくれるだろう…そう思っていた。

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一変する野球人生

そんな歳内の前に再びケガが立ちはだかる。しかも、今度は右肩痛。投手にとっては致命的な箇所だ。結局2017年は歳内は二軍で春先に2試合を投げたのみにとどまった。オフには育成選手契約へ移行、背番号は26から126へと変わった。かつては虎のエース、虎の守護神として期待された男は、プロ野球の表舞台から姿を消してしまった。
2018年はリハビリから帰ってきて二軍で25試合に登板。防御率こそ5.92に終わったが、背番号97として支配下選手に昇格。しかし、一軍のマウンドに上がることはなかった。
2019年も二軍スタート。しかし、ある日突然、歳内が一軍へと呼ばれた。実はこのとき、二軍は関東へ遠征していたのだが、そこに帯同せず鳴尾浜に残っていた歳内に、桑原の抹消で空いた一軍リリーフ枠として白羽の矢が立ったのだ。まさかの緊急昇格に僕も困惑しながらも心が踊った。かつて甲子園で輝き、甲子園で活躍が期待された男が、背番号を97に変えながらもついにこの場所に帰ってくるんだ、と。ワクワクせずにはいられなかった。でも、残念ながら登板機会なく、わずか2日で再び一軍から姿を消した。これが最後だった。このあとは一軍に呼ばれることなくシーズンを終え、ちょうど1年前、歳内は阪神から戦力外通告を受けた。

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まだ、諦められない

阪神を退団した歳内は、球団職員の道も提案されたというが、それを固辞して現役に拘った。肩の痛みも癒え、再び全力で腕を振れるようになってきたという手応えがあったからだ。NPB復帰に向けて11月に大阪で行われたトライアウトに出場した歳内は、打者3人に投げて1安打を許しながらもストレートで見逃し三振を1つ奪う好投を見せた。僕自身もこの登板を見るために現地へ駆けつけていたが、これを見て「まだやれる、終わった投手じゃない」と感じた。

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トライアウトを終えた歳内はさらに積極的に動く。翌年から台湾リーグへの再加盟が決まっていた味全ドラゴンズにウインターリーグ期間のみの契約で加入し、台湾ウインターリーグに参加。3試合に先発して1勝を挙げるなど、NPB二軍や社会人チームなども参加するこの大会でアピールを見せた。
残念ながらこの時点ではNPBには復帰できなかったが、独立リーグ・四国の香川オリーブガイナーズに入団し2020年を迎えた。ここで歳内は格の違いを見せつける。開幕投手として開幕戦に先発するといきなり完封勝利。その後も先発を続け、9試合64イニングを投げて5勝0敗、防御率0.42と大活躍を見せた。その姿は「歳内無双」と一部で話題になるほどであった。
香川の地で歳内は先発としてやっていくために、阪神時代後半はあまり投げていなかったスライダーを磨いたという。中継ぎではストレートで押してスプリットで打ち取るという力の投球で誤魔化せるが、長いイニングを投げる上では他の球種も必要だと考えたからだ。さらに、コントロールにも気を遣うようになった。武器とするスプリットも、よりストレートと似た軌道から落とせるか意識するようになった。歳内はNPB復帰を目指す上で常に「プロの一軍レベル」を意識しながら投げていた。そんな歳内に吉報が届く。

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第2のスタート

8月も終わろうとしているある日の深夜。寝付けなかった僕は深夜3時くらいにTwitterを開いた。そこに流れてきた記事に目を疑った。ヤクルト、元阪神・歳内を調査──目を何度こすっても、見間違えではなかった。香川での活躍ぶりを見たヤクルトが投手補強の一手として歳内に目をつけたのだ。それから1週間ほど経ち、歳内は正式にヤクルトの一員となった。背番号は91。数々の試練を乗り越え、不死鳥のごとくNPBの表舞台に舞い戻ってきた男にはよく似合う、大きな数字だ。
歳内の出番はいきなりやってくる。二軍で1試合を投げて6回無失点と好投すると、翌週の9月16日には新たな本拠地・神宮で復帰後初登板。もちろん、先発として。一度NPBから脱落した選手が再び戻ってきて一軍登板を果たすこと自体かなりすごいことだが、中継ぎを主に務めていた投手が先発での復帰となると、とんでもないことだ。この日は残念ながら復帰後初登板初勝利とはならなかったが、歳内は5回2失点の好投を見せた。
そして10月1日、ハマスタでのDeNA戦。この日が復帰後3試合目の登板だった歳内は、初回に梶谷、神里、ソトと並ぶ強力な上位打線を見事5球で三者凡退に片付ける。実はこれが復帰後初の三者凡退のイニングだった。ここで流れに乗った歳内は味方の援護も受けてストライク先行のテンポの良い投球を披露。ストレート、スプリット、カーブ、スライダーとどの球種でもストライクが取れ、DeNA打線に狙い球を絞らせない。5回まで無失点に抑えて勝利投手の権利を掴むと、7回にはピンチを招くも代打山下に全球スプリット勝負!気迫の7球でここを乗り越えて7回無失点の好投を見せた歳内に嬉しい嬉しいNPB復帰後初勝利&5年ぶりの勝利&先発としてのプロ初勝利がついた。逆境を常に乗り越えてきた男がまた一つ、逆境を乗り越えた証だ。

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東京ヤクルトスワローズ・歳内宏明。様々な苦難を乗り越えて再びNPBに帰ってきた男のストーリーは第2章を迎えたばかり。これからどんな展開が紡がれていくのか、楽しみに見ていきたい。ヤクルトファンの思いを、歳内ファンの思いを、福島県民の思いを、そして独立リーガーの夢を、様々なものを背負って、歳内は腕を振り続ける。

おわりに

阪神ファンである僕は、ふてぶてしさすら感じる佇まいから相手の懐に臆することなく投げ込まれるストレートや打者が振った時には消えているような鋭い落差のスプリットに魅了され、歳内投手のファンになりました。阪神時代の歳内は二軍生活の方が長く、僕が現地で歳内を見たのはほとんどが鳴尾浜でした。
そんな僕が鳴尾浜に行った時、あの日は2018年の鳴尾浜最終日だったでしょうか、平田二軍監督の粋な計らいによってその時鳴尾浜にいたファンに球場を開放してサイン会を行うことになったのです。1人1選手だけという決まりがある中、僕は歳内投手にサインを貰いに行きました。この時は二軍に上本や北條ら人気選手がいたこともあって、歳内の元に行ったファンは僕だけでした。なかなかファンが来ず、グラウンドの端の方で石崎と談笑していた歳内に声をかけた時の照れくさそうな、そして嬉しそうな反応は忘れられません。色紙にサインをもらい、ツーショットまで撮ってくれました。

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この時のことは一生忘れられない思い出です。
また、昨年トライアウトを見に行った際にも、歳内投手は登板後に取材を受けたり忙しい中でも、帰り際に集まったファン一人一人に丁寧に対応していました。その時に阪神時代のグッズ、通称「漢字タオル」に書いてもらったサインも僕の宝物です。

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同じセリーグのライバルであるヤクルトに行ったことで、まだ実現はしていないものの、阪神戦で先発してきたらどんな気持ちで見ればいいんだろう…と複雑な気持ちもあったりはしますが(笑)、これからも僕は歳内投手を応援しています。どんな逆境にも負けない、這い上がってくる底力で夢を見せてくれる歳内投手が僕の永遠の「推し」選手です。

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