日本橋七福神めぐり
友人が誘ってくれましたので出かけてきました。
全て神社の七福神めぐりは珍しく、どの神社も比較的近くにあるため、歩いて巡ることができます。
どの神社から巡っても良いとのことでした。
日比谷線人形町駅からスタートしました。
御宮参りや安産祈願の方がたくさんいらっしゃる中、アラ還二人組も御参りさせていただきました。
写真左側のお社が弁天様です。
久留米の第9代藩主有馬頼徳が加賀第11代藩主前田斉広と宝生流能楽の技を競うことになった際にこちらの弁財天様に願掛けをして、見事勝利したことが起源になるそうです。
芸事、学業、金運の守り神様です。
息子達の安産祈願で20数年前に来たことがありましたが、その頃からしたら改築されてとてもきれいになっていました。
この辺りは徳川時代に堀田家の上屋敷だった…と説明を受けて
どこかで聞いたお名前…?と思いました。
下総佐倉の城主大老堀田家の事でした。
千葉県佐倉市の城址公園や武家屋敷巡りをするとよく聞くお名前です。
御祭神は倉稲魂大神で伏見系のお稲荷様。
堀田家の守護神として祀られていて、周囲の土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれていて、芝と茶の木の緑がとても見事だったそうです。
御屋敷や周囲の町方にも永年火災がおこらなかったので、火伏せの神と崇められ、年に一度初午祭の日だけ開門して一般の参拝を自由にされたところから「お茶ノ木様」と呼ばれたそうです。
小網神社は雑誌クロワッサンでも紹介されていました。
約550年前に悪疫鎮静の神として鎮座し、太田道灌の崇敬も篤く、社名も太田道灌がつけたと言われているそう。
社殿が戦災を免れたり、御守を受けた兵士全員が無事帰還したことから「強運厄除の神」として信仰を集めているそうです。
1月終わりの平日に朝からこんなに賑わうなんて…驚きました。
藤原秀郷が平将門の乱鎮定のために戦勝祈願し、戦後に白銀の狐像を奉納したと言われています。
また、太田道灌が雨乞いをしたところ霊験あらたかとして山城国(今の京都府南部)稲荷山五社大神を祀ったとのこと。
江戸時代には、柳森神社(神田)や鳥森神社(新橋)とともに、江戸三森の一つと呼ばれていました。
こちらで日本橋七福神めぐりの色紙を買うことができました
お願い事を御祈りするときに「ますます…」を付けると良いとか
日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社から御分霊を笠間藩主牧野貞直公が江戸屋敷に奉斎したのがはじまりといわれる。
日本橋魚河岸の守り神として、五穀、水産、殖産興業の守護神。
寿老人は長寿の神にしてお導きの神、幸運の神。
人々の運命を開拓してくださる福徳長寿の守護神なのだそうです。
慶長元年以前に稲荷祠として鎮座。
この場所にあった葭原(吉原)の氏神として信仰されていました。
延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかったことからこの名前になりました。
毘沙門天の御神徳は勝運向上が有名ですが、昔から疫病鎮めの信仰も集めたため、病気平癒、厄除、財運向上、福徳繁栄など多聞天の別名のとおり
さまざまな御神徳を求めて祈願する参拝客が多いそうです。
こちらは御朱印を直接書込みいただけます。
もちろん書置きもあります。
鎌倉時代以前からあると言い伝えられているとか…
大昔、この辺りが入り海で小島があったそうです。
柴田家の祖先が下総の国から移り住み、邸内に諸神を勧請し夜に掲げる燈火を目標に舟人が航海したとのこと。
邸宅を公開したときに島内が松の木が欝蒼していたことから松島稲荷大明神と、唱えた。と、資料にありました。
1時間半程でまわれるとネットには書いてありましたが、列に並んだり、道を間違えたり、寄り道したり…で3時間近くかかりました。
途中で清寿軒のどらやきを買いました
椙森神社の境内でパクっといただいた時は、空腹に甘さがしみ込んでたまりませんでした。
後半頑張ってまわれたのは、このどらやきのおかげです。
めぐり終わった後、銀座線で浅草へ
天丼をいただきました。
外はサクッ、エビはプリプリ
ナスやキス、イカはふわふわ
タレの甘辛さがこれまた胃袋に染みわたります。
おいしかった!
せっかく浅草まで来ましたので
浅草寺にもお参りします。
たくさん歩いて
たくさんおしゃべりしました。
楽しい時間でした。
帰ってきて歩いた歩数を見て、そりゃ足も痛くなるわと驚きました。
早くも1月が終わりに近づいてきました。
七福神めぐりをして少し気持ちも穏やかに、まわりの幸せを祈る余裕をつくることができたかな…と思います。
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