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人にしか書けない"味のある"文章
多くの人が、自分の好きな作家やエッセイストを持っていると思う。うまく言語化できないけど、この人の文章なら読んでしまう。文章に顕在化されている主張、背景にあるメタファー、文体、言い回し、理由は様々。
AIが進化し、知識・情報はさらに廉価になっていく。もはや解釈のないニュースは無料と多くの人が思っており、新聞購読者数は減少の一途。ロジックが明快な文章、小泉進次郎構文的な当たり前のことしか書いてない文章の価値は、さらに下がる。
読者がカタルシスを感じるような文章すらも、今後はAIを通して作られていくのかもしれない。ロジックで記述可能なものは、置き換えられてく。
では、AIには、絶対書けない文章ってどんなものなんだろう。
ロジック・データにならないもの、これに気づけるのは人間だけ。言語化される知識・情報はどんどん網羅の域を広げていくけれども、そこにいつでも "スキマ"は生じうる。そんなスキマを文章にできる人が長く残っていくのかもしれない。
もちろん、他人に読まれることが文章を書く理由ではない人も多い。私もそのひとり。自分の内に湧き上がることを連々と、脳のdiffuse modeを生かして、発散的に書いていく。脈絡のない、支離滅裂な文章もある。書く事で頭はスッキリ整理されることも多いし、文章にするとココロが落ち着き、なんともいえない小さな達成感のようなものも感じる。
そんな無意識に紡いだ発散的な文章であっても、あ、あの人が書いた文章っぽいな、私は好きだなと、読者が感じる。そんな文章を紡げる人の希少性は高いんだろうな。
言語化してしまった時点で、それはなんだか陳腐なものに感じてしまうこともある。その現象も面白い。書くという行為は、なかなか深淵なもの。
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