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1年、休んでみることにした

休んでみよう。そう、ふいに思ったのは、2年前。山間の畑で、夕日を眺めていたときだった。「あぁ、これが休みだ」と思った。

摘んだばかりのミントで淹れたティーが美味しすぎたから、そう思ったのかもしれない。あるいは、そんなエピソードや、そんな語り口を、どこか恥ずかしいと思う心持ちが嫌になっていたのかもしれない。

ゆえに、有言実行。心に浮かんだ言葉のままに、休んでみることにした。1年間。いさぎよく、全ての仕事を手放して。休みとは、「他人から課題を与えられない時間をつくること」だと思うから。

ほんとうに実行可能か。その検討に1年。周囲への伝達にもう1年。そのようにして、今日を迎えている。今日からの1年間、予定は全くの白紙だ。

「1年休みます」そう周囲に伝えると、「何をするんですか?」と聞かれることが多かった。「休む」単体では、動詞としての機能を果たさないのか?と思うなどしたけれど「1週間休みます」とは違うわけで、目的や理由を問われるのは当然のこと。むしろ、ありがたい気遣いだ。

「何をするか決めないようにしている」それが、質問への回答。僕は、僕たちは計画すると、予定を埋めてしまう生き物で、効率的に、生産的に時間を使わなくては、人生をもっと豊かに、充実したものにしなくてはというビジネス書的な強迫観念に駆られがちだから。それはもう、休みではない。

ふつふつと湧き上がる「あれができる」「これもできる」は、あえて深追いしないよう注意深く過ごしてきた。文字通りの「休み」を過ごす中で感じたことをベースに行動する1年にしたいと思っている。予定はまさに未定だから、ほんとう、どうなることやら。

今日から、働いていない夫。何をしているんだかわからない父。

1年のあいだ、不安定な存在になることについて相談したとき、妻は、「いーんじゃない?」と言った。長男は、「決めたら言って。」と言った。人生の決断は、いつでも自分でするものと改めて教えられた。

育休ではない。ただ、この1年間の記憶が、子どもたちが大人になったとき、何かに行き詰まったとき、「休む」という選択肢を思い浮かべるきっかけになればいいと思う。

それでは、人生の夏休みのはじまり、はじまり。宿題はない。何をしても、しなくてもいい。会社から独立した6年前の7月1日と同じように、僕は今すごくワクワクしている。


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