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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】  自由へのダリア 作:獅子川修光

「自由へのダリア」

作:獅子川修光


朝の音は心地良い。目玉焼きを焼く音、オーブンからトーストを出す音、食器を並べている音、鳥のさえずり、世界が動き出したような音は、私の活気を呼び起こしてくれる。
「結菜、起きなさい」
お母様のお声は、蚊の鳴くようなお声で、とても目覚ましには向いていない。ここ最近、体調がかなり悪そうで、私は咳き込んだ度に過度に心配し、
「あまり無理をなさらず」
と背中を摩りながら言った事があって、お母様は、
「結菜が大学に行って、きちんと卒業して、結婚するまで、お母さんの事は心配しなくて大丈夫よ。卒業まで残りわずかなのですから、勉強をしっかりがんばってください」とおっしゃった。
「お母様、ご飯は私が作りますので、無理をなさらないでください」
私はお母様に休んで貰おうと提案をしたが、お母様は、すました顔で食器を丁寧に並べて、
「お気遣いありがとう、さあ、どうぞ召し上がってください」
とおっしゃって、椅子に腰を下ろして私を見つめていた。
私の家の食卓は、異様だ。
高貴な食器がずらりと並んでいるというのに、ベーコンも、チキンもなくて、スープは味噌汁、バターの塗ってある食パン、醤油を掛けた目玉焼きが毎日の朝ごはんとして並べられて、お昼は学校の食堂で済ませる為、異様さを感じないが、夜になればやはり高貴な食器が並べられていて、お米、お芋、味噌汁、目玉焼き、漬物と、毎日同じ献立の食事が提供され、やっぱり、少し可笑しいと、この歳になれば、さすがの私もバカじゃありませんから、高貴な食器を出すのであれば、普通、ベーコンやらチキン、コーンスープに、オムレツ、フレンチトーストだって、出せばいいものの、高貴な食器には見合わないような食を入れてでも、誤魔化して、過去に縋るお母様の姿が、みっともなくて、堪らない。
見栄を張るぐらいならば、いっその事、お安い食器に総入れ替えして、食器に見合った食事をしていた方が、素敵だと思って、お母様に一度提案をした事があるけど、お母様は顰蹙して、
「この食器は捨てる事は出来ません」と固辞した。
一度、家の食器の値段を調べた事があって、一皿何十万もするイギリス製の品で、私はそれ以来、お皿を使う事に躊躇するようになった。
「お母様はこのお皿をお気に召したようですね」
私が皮肉を交えて言っても、お母様は澄まし顔で私のコップに水を注いで、
「あら、結菜は気に入ってないのかしら」
と苦笑して、私はお母様の気取った態度に顰蹙して、目玉焼きの黄身をフォークで乱暴に突っついた。
「やめてちょうだい。お皿に傷つくでしょう」
お母様は、何よりこのお皿を大事にしている。
以前、私が誤ってお皿を一つ落として割ってしまった事があって、バレないようにこっそりゴミ箱に捨てたのだが、翌日には、そのお皿の破片が全て回収されて、破片同士をテープで貼って、元の形に直され、そのまま味噌汁を入れて私の夕食に出されて、不揃いに張り巡らされた食器の隙間から汁が漏れ、まるで漏れ鍋のような悲惨さで私は驚いて何も言えなかった。
お母様は、私に対して直接的にお叱りを下す事がなく、とても悪辣だ。
お母様はじっと私を見つめて
「味噌汁、冷めますよ。早く飲みなさい」
と冷たい表情でおっしゃって、私は萎縮してしまい、
「ごめんなさい。お皿を割ってしまったのに言えませんでした」
と言うと、お母様はにっこりと笑って、
「その味噌汁をまず飲みなさい」
と言い、私はいよいよ畏怖を感じて、その場で泣いてしまった。
お母様は泣いている私を見ても、表情一つ変わらず、私は仕方なく割れた食器に入った味噌汁を飲み干した。
「味噌汁、美味しかったですか?」
お母様は、満足をなさった表情で皮肉をおっしゃって、私は悔しくて堪らなくて、
「今までで一番美味しかったです」
と言った。
高校三年生になってから、私はお母様に少しの反抗心が芽生え始めていた。
お母様は厳格で、お菓子や清涼水、甘いデザート、アイスクリームを禁止し、アニメや漫画を勉強の妨げとして制限した。
恋愛に関しても厳しく制限され、女子校に入学させられ、男子校との合同行事も参加禁止にされてしまった。
このような状況に反苦心を抱く事が多くなった。
習い事の作法、習字、デッサン、バレエ、ピアノも行かなくなって、学校では勉強にも身が入らず、それでも、テストの点数は優秀だったのに、お母様は相変わらず、澄ましたお顔をなさっていて、私は余計に腹が立ってしまった。
お母様と出掛けた事は、年に数回と限られていて、毎回、歌舞伎へ行って演劇を鑑賞したり、浅草で買い物をしたりと、お母様が行きたい所に連れていかれるばかりで、私は飽き飽きとしていた。
私は、渋谷に行ってみたくて、お母様に提案をしたけど、お母様は、
「渋谷なんてふざけた所に行ってはいけません」
とキッパリ言い張って、では、
「横浜は如何でしょう?」
と提案しても、結局難癖を付けて却下されてしまう。
お母様は、自分勝手で、私の意見なんてちっとも聞いてくれやしない。
お母様が可笑しくなってしまったのは、お父様が居なくなってしまった影響だと思う。
お父様は、私が中学校に進学するタイミングで、突然、居なくなってしまった。
お父様が居なくなってしまってからのお母様は、人が変わってしまったようで、悲壮感が漂い、私を厳しく育てる事がまるで宿命かのように、過激な束縛をし、私はお母様の事をとても愛していたけど、今のお母様を愛しているかどうかは、分からなくなってしまった。
お母様は、私を都内の有名な大学に進学させようと必死で、私は高校に入学してから、毎日机に向かって試験勉強をして、夏休みの間でも、友達と出掛ける事も許されず、真夏の蒸し暑い時期に、毎日机に向かっていると、気が可笑しくなってきて、一度、冷蔵庫の中にあったワインを飲んでしまった事があって、その時初めて、お酒の美味しさを知って、酷く酔ってしまった。
お母様が酔った私に気付いた時に、ようやく、私が見たかったお母様の困ったお顔をこの目に焼き付ける事が出来て、とても清々した気分になっていると、お母様は憤慨なされて、今まで私に手を挙げた事が無かったお母様が、私の頬に手を挙げてしまい、私は痛みというよりも、震撼し、声を荒げて泣いてしまった。
あまりにも大きなお声で、お母様は近所の人に聞かれるとまずいと思ったのかしら。
私に必死に謝って、私の涙を止めようと、慌てふためくお母様の姿は、滑稽で、私は思わず笑ってしまって、それからお母様は、私に対して、警戒心を持つようになった。
夜は、必ず私が就寝してから、お風呂に入られて、私が部屋に戻った際も、ドアの向こう側には、お母様が潜んでいる事を私は知っている。
私が、家から飛び出さないように、じっと監視していて、まるで私が刑務所に囚われた犯罪者みたいで、嫌気が刺す。
学校の帰り道でも、お母様の異常さを目の当たりにするようになり、友達の美結ちゃんと一緒に寄り道をして、近くの喫茶店に行き、紅茶を飲みながら雑談をしていた時に、ふと、嫌な目線を感じて振り返ると、窓からお母様がじっとこちらを睨みつけていたことがあって、私はさすがに怖くて堪らなく、家に帰るのに躊躇してしまっていて、美結ちゃんの家に行こうかと思ったけど、美結ちゃんに怖い思いはさせたくなくて、私はまっすぐお家に帰ることにして、お母様に何か酷い事をされるかもしれないと思ったけど、結局、お母様はいつも通りで、何もしてこなかった。
私の唯一の心の拠り所は、お父様が使用していた部屋の匂いで、ハイライトの煙草の香りが微かに残っていて、私はその匂いを嗅ぐと、なんだか落ち着くから、嫌な気持ちになった時によく利用する。
ある日、いつも通り、お父様の部屋に向かおうとしたら、お母様がいらっしゃって、お父様の部屋に香水を振り撒いていて、私は思わず、
「辞めてください」
と声を荒げてしまった。
すると、お母様はとても怖い目つきをしていて、更に不気味だったのは、何故か笑っていて、私に、
「結菜、煙草の匂いなんて好きになってはいけませんよ」
とおっしゃって、香水をずっと振り撒いていて、私は怖くなって部屋に逃げ込んだ。
最近は、家に帰るのが億劫だ。
お母様の存在が、私を苦しませて、学校生活も十分に楽しめず、早く学校を卒業して、大人になれば、お母様から離れられるのかな、なんて思う事が多くなった。
家に帰るのが嫌だった私は、少しでも時間を潰そうと、学校でテスト勉強をするという口実を作って、夜の七時ぐらいまで、自習室に残る事が多くなった。
学校の自習室には、同学年の生徒が残って自習をしており、たまに先生が見回りに来るのだが、私にとって、この時間はとても開放的で、居心地が良かった。
「中条、いつも勉強頑張っててえらいぞ」
数学担当の前田先生が声を掛けてくれた。
前田先生は、私が自習室に遅くまで居るたびに、優しく励ましの言葉をかけてくれた。
時折、難易度の高い問題にぶつかると、先生は静かに横に座り、一緒に解き始めてくれる。
その時の先生の的確な指導に、私の苦手だった数学が少しずつわかるようになるのを感じた。
私が、成績優秀で、お母様に怒られないで居られるのも、先生の指導のおかげだ。
先生と過ごす時間は、学業の面だけでなく、心の支えにもなっていた。
私が悩みを話すと、先生は親身に聞いてくれて、時には助言をくれる。
その対話の中で、私は先生に頼ることで安心感を得れるようになった。
先生の笑顔や明るい人柄は、周りの生徒たちからも大きな支持を受けていた。
彼の授業はわかりやすく、生徒一人ひとりに合わせたアプローチを取る事で、みんなの学習意欲を高めていた。
私もその一人であり、先生に対する尊敬と信頼は日々深まるばかりだった。
「なあ、中条。一つ質問をしてもいいか?」
先生は急に視線を下げて、私に説いた。
「ええ、どうしましたか?」
私はいつもの先生ならまたお冗談を交えた発言をするのかしらと期待をしていると先生は、
「彼氏とか欲しくないのか」
と、予想外れな質問をしたので、私は照れくさそうに微笑んで、
「欲しいですよ。恋をした事はありませんので」
と答えると、少しの間が出来て、普段とは違う視線で私を見つめる先生の目が、私には異名に見えた。
自習室の空気が一変して変わった気がして、変な緊張感があった。
場の空気を変えなくちゃと思った私は、軽く冗談めかして、
「でも、先生が彼氏にならないかしら?」と口にしてしまった。
すると、先生は一瞬固まったかのように見えたが、その後に大きく笑って、
「そんな喋り方はだめだよ。中条。でも、もうすぐ真剣な話があるから、それまで我慢してて」
と急に話の展開を変えて言った。
それでも、私はその瞬間、先生の瞳に映る微笑みが、いつもとは違う何かを感じさせた。
電球が一瞬途切れ、部屋中に異名な空気が流れる中、先生は一瞬にして私の背後に回り込んできた。
そのまま首に顔を寄せ、微かに息を感じさせながら囁くように言った。
「中条。君にはそういった恋愛感情がまだ潜んでいる。それが君の中に芽生える瞬間を、私が教えてやろう」
その言葉に、私は全身に冷水を浴びたかのように凍りついてしまった。
「先生、ちょっと、おふざけはやめてください」
私が必死に抵抗するも、先生は力強く私を押さえつけて、
「ふざけてなんかいないさ。ずっと、君の事を美しいと思っていた。恋を教えてやろう」
と言って、私は、叫びたくても声が出ないぐらい恐怖を感じて、それでも必死に抵抗していると先生は野獣のように暴走していき、
「泣いているのか?中条。一度、君の泣き顔を見てみたかったんだよ」
と更に興奮して、私は誰でもいいから助けに来てと願い、迫りくる重い体を避けようと必死の抵抗をするも、大人の男性の力は予想以上で、私は簡単にも唇を奪われてしまった。
私にとって初めてのキスは、とても、性欲の匂いがした。
朦朧としている中、小さい頃の記憶が頭をよぎった。
お父様と一緒に、真っ白な大きな布に、赤と黒のペンキで塗りつぶして、私は真っ白な布が、赤色に染まって、黒色にも染まって、あんなにも綺麗な白色の布が一瞬にして染められていく瞬間を目の当たりにし、お父様は私に、
「白い色は染まりやすい。大人になると、皆、白色から何かしらの色に染められてしまう。結菜には、黒い色には染まって欲しくないな」
と憂いな表情をしておっしゃっていた事を思い出して、今の私は、まるで黒色に染められているみたいと思うと、涙が止まらなかった。
「中条。美しいよ、君の涙は。もっと見してくれ」
そう言って、ベルトを外してズボンのチャックを下ろす先生を見て、私は無力な兎だと思った。
瞬間、自習室のドアが勢いよく開いて、世界は一瞬にして真っ白に染まり出した。
先生は全身に真っ白なペンキを浴びて、悶えていて、私も白色のペンキを被って、世界は、ぐるぐると回り出して、私は心を浄化された気持ちになって、天井を見上げていると
「貴方は本当に世話が焼ける子ですね」
と、馴染みのある声が聞こえてきて、ふと、声の方向を見ると、そこにはバケツを持ったお母様がいらっしゃった。
外の景色は暮れ始めの空気が漂い、静かな中に真っ白に染まった先生がパトカーに向かって歩いていく姿が映し出された。車の赤い灯が射し込む中、そのシルエットがぼんやりと浮かび上がり、周囲の建物の影に混ざっていく様子が美しく描かれていた。
先生の後ろ姿は微かな影に包まれ、まるで夜の闇に溶け込むようだった。
パトカーは静かにその場に停まり、先生は後部座席に乗り込む様子が描かれる。
社内の照明が先生の表情を浮かび上がらせ、その瞳には何か懐かしい光が宿っているように見えた。
ドアが閉まり、パトカーはゆっくりと走り出し、その赤い灯りが街の暗闇を彩る中、先生という存在が遠ざかっていく様子が幻想的に表現された。
警察の方の事情聴取を終えて、お母様と一緒にお家に帰り、真っ先にシャワーを浴びる事にした。
私はシャワーを浴びながら、白いペンキが流れていくのをぼーっと眺めて、唇に微かに残る感触を消そうと、唇を擦った。
先生は、良い人だった。
でも、先生は私を一人の女として見ていて、獲物を狙うライオンのように豹変し、何も出来ない私は、兎。
無力さに、悲しくなって、いっその事、このまま私もシャワーの水と共に排水溝へ流れていって、そのまま、海にでも流れてしまえばいいと思った。
「そんなに体を洗っても意味がありませんよ」
お母様のお声で正気を取り戻して、私はシャワーを止め、
「すぐに出ます」
と言って、お風呂から出ることにした。
「貴方は教師に対して好意を持っていましたか?」
警察署でもしつこいぐらいに事情聴取を受けたというのに、家でもお母様に尋問をされている。
「いいえ、誓ってないです」
私は素直な気持ちで答えた。
お母様は表情を変えずに質問を続けた。
「では、何故、あのような状況に陥ってしまったのでしょうか」
「私にも、わかりません」
私に、分かる訳がない。
だって私は、男の人との関わりを一切遮断されてきたから、男の人を知らないし、私は何もしていない。
お母様は鋭い目線で、
「分からないなら教えてあげます。貴方が、無意識に誘っていたのですよ」
とおっしゃった。
「そんな事はありません。私はただ、相談に乗って頂いただけです」
そう言うとお母様は苦笑して、
「男性は、弱みを見せるとつけ寄ってくる生き物です」
と言い張り、お部屋へ戻って行った。
翌日、学校では昨日の事件の話題で大騒ぎになっており、私が教室に入った時、皆の目線は一斉に私の方を向いて、私は萎縮した。
「結菜ちゃん、大丈夫だった?」
クラスメイトの美結ちゃんが憂い気な表情で私を心配し話しかけてくれたが、
「大した事なかったよ」
と言って、あまり事を大きくしないように嘘をついた。
「前田先生、生徒をいやらしい目で見てたなんて、気持ち悪いね」
クラスの皆が前田先生の話題で盛り上がっている中、美結ちゃんが、
「前田先生、実は私の事も誘ってきた事あるんだよね。怖くて言えなかったけど、逮捕されてよかった」
と何故か周りの子にも聞こえる声量で話し始め、周りの子が集まってきて、
「そういえば、私も」
と白々しく共感するような声が上がり、女の子って恐ろしいと思った。
「前田先生、結構タイプだったのに。まあ、でも、未成年に手を出すのはさすがにね。いいの、私には志村くんがいるし」
美結ちゃんは、急に話を恋バナに持っていく天才だ。
周りの子も楽しそうに恋愛事情を語り合っていて、話は私にも流れてきた。
「結菜ちゃんは、好きな人いるの?」
「結菜は、多分、年上が好みだよね」
「結菜ちゃん、もてるからね〜」
私は苦笑して、お茶を濁して返事をし、こっそりと席に戻ってテストの復習を始めた。
「はい、みんな静かにしてね。中条さん、いるかな?」
担任の山田先生が大きな声で私を探している。
きっと、昨日の事件の事を聞きたいのだろう。
「はい、ここにいます」
そう言って席を立つと、山田先生は心配そう表情をして、手招きし、私は山田先生と共に廊下へ出た。
「中条さん、昨日の事聞いたわ。大丈夫?」
「はい」
「メンタル面とか、ほら、何かいやな事されちゃったとかないかな?」
あの日、先生に強引に唇を奪われた事は、私以外誰も知らない。
私にとって、誰にも話せない秘め事となってしまった。
家に帰ると、お母様がキッチンで料理をしていて、鼻歌を歌っているのが聞こえた。
上機嫌なのだろう。
「昨日は、ありがとうございました」
と伝えると、お母様は驚いたようにこちらを見て微笑んだ。
「帰っていたのね。いいえ、当然のことをしただけです」
とおっしゃった。
「今日はとても上機嫌ですね。何か良い事でもありましたか」
と尋ねると、お母様は満足げにうなずき、
「ええ、とてもね。明日はお母さんと一緒に出掛けましょう」
とおっしゃった。
「どこに出かけるのですか?」
と聞くと、お母様は一瞬手を止めて私をまっすぐ見つめ、
「東京よ」
と答えた。
「東京に用事があるのでしょうか?」
と更に尋ねると、お母様の表情が少し硬くなり、
「ええ、貴方にとっても重要な事よ」
とおっしゃった。
そして再びお食事の準備を続けた。
翌朝、目が覚めると、外では強い雨が降っていた。
布団から出るのがいつも以上に億劫で、包まれたまま窓を見つめていると、一匹の蛙がぴょこんと跳ねて窓に張り付いた。
雨宿りしている蛙を見つめるうちに、気分も徐々に下がってきた。
今日は、お母様と東京へ出掛ける日だ。
しかし、その目的が全く伝えられていない為、不安が募るばかりだ。
目覚ましが鳴り、重い体を起こして布団から出た。
着替えを済ませ、キッチンへ向かうと、バタートーストの香ばしい香りが漂っていた。
「支度は済ましているのね。ご飯、食べちゃいなさい」
とお母様がおっしゃった。
急いで朝食を食べながら、お母様を見ると、上品な服を身に纏い、化粧も丁寧に施され、髪の毛も美しくセットされている。
「結菜、服、着替えましょうか。この服を着なさい」
渡されたのは昔よく着ていた、少し窮屈になった高貴な服だった。
お母様が準備が整うと、
「お迎えが到着しています。さあ、出ましょう」
と言い、家の電気を消して玄関へ向かった。
「お迎えってなんだろう」と思いつつも特に気にせず、玄関の扉を開けると。家の前には外国産の高級車が停まっていた。
背の高いスーツ姿の男性が丁寧にお辞儀をし、
「中条様、お待ちしておりました」
と車のドアを開けてくれた。
車に乗り込むと中はとても綺麗で広く、まるで夢の中にいるようだった。
お母様は上機嫌で、いつもの悲壮感が嘘のように幸福そうだ。
「お母様、これは夢でしょうか?」
と尋ねると。お母様は小さい声を挙げ、お笑いになり、
「夢ではありませんよ」
と答えた。
車内から窓の外を眺めていると、地方の田んぼ道から高層ビルの景色へと移り変わっていった。
隣に座るお母様はお上品に座り、まっすぐ前を見つめていた。
「到着したわよ」
お母様の声で目が覚めると、目の前には、見た事もないような豪勢な屋敷が広がっていた。
私はお母様の背中を追いかけてその屋敷に入った。
「お母様、ここは一体どこなのでしょうか」
「貴方が、これから住む場所よ」
冗談かと思いながら、お母様を見つめるがお母様は真剣な表情をしていた。
大広間に案内され、高貴な椅子に座って数分待つと、着物を纏ったおじさんが現れて、
「やあ、紗代さん。久しぶりだね。そちらの美人さんは?」
と尋ねた。
お母様は微笑んで、
「娘の結菜です」
と私を紹介すると、おじさんは驚いた様子で私をまじまじと観察し、
「ほお、こんなにも美人さんになられて。結菜ちゃん、久しぶりだね」
と言ったが、私には誰だか検討もつかなかった。
「早速だが、息子を呼んでくるとしよう。お食事のご用意を頼むぞ」
おじさんが隣の黒服スタッフに指示を出すと、瞬く間に次々と豪勢なお食事がテーブルに運ばれてきた。
「結菜。貴方にはずっと話していませんでしたが、今日、ようやく話す事が出来ます」
お母様は神妙な面立ちで私を見つめ、
「今私達が招待して頂いたこのお屋敷は、神童家様のお屋敷なの。日本でも唯一無二の貴族家系よ。」
私はお母様が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「お母様、何をおっしゃっているのか良く分からないのですが」
「貴方には、神童家の長男様と結婚していただきます」
お母様は満面の笑みを浮かべて、ステーキをナイフで小さく切り分け、上品にお口
に入れ、ワインで流し込んだ。
私は、お母様の言っている言葉を聞いて、愕然とした。
「お母さんね、ずっと貧乏な家庭で育ったのよ。結菜が想像している貧乏よりもずっと貧乏なの。お米だって、お肉だって、お魚だって、パンだって食べられなかった。
纏う服も汚れていて、散々、あそこの家の子は貧乏だって言われたの。
そんな時に出会ったのが、お父さんだった。
お父さんの一家は貴族家系でね、貧乏な私の生活は一変したの。
どうしてお父さんが私を拾ってくださったか分かりますか?
私が美人だったからよ。
服も汚くて、髪もボサボサだったけど、顔だけは良かったの。
貧乏な家庭に産んだ親を恨んでいたけど、この顔に産んでくれたことだけは感謝しているわ。
結菜も、私と同じ人生を歩むの。
お父さんがいなくなって、財産も失って、私の唯一の希望は結菜、貴方よ」
お母様が言っていることが、あまりにも現実的ではなく、信じられなかった。
お母様は、ずっと興奮していらっしゃり、ワインを飲むペースも早まっていた。「その、お母様。私は、結婚をしなくてはいけないのでしょうか?」
お母様に薄氷を踏む思いで質問をすると、お母様は微笑んで、
「ええ、そうですよ。貴方は、寄生するの。神童家の血筋を受け継いで、お金も、地位も、名誉も、手にいれるの」
「でも、私、好きではない人と結婚なんて、とても出来ません」
「結菜に教えてあげるわ。愛よりもお金の方が大事なのよ。愛はお金で買えます。貴方のその美貌はお金になるの。お金がないと、とても惨めなのですよ」
「愛はお金では買えません。それに、私、裕福な生活を望んでおりません」
「黙りなさい!」
お母様が声を荒げると、ドアが開いて、おじさんが慌てて入ってきた。
「奥さん、そんなに大きなお声を出されて、食べ物に虫でも入っていましたかね?」
「いえ、申し訳御座いません。あまりの美味しさについお声が大きくなってしまいましたの」
「はは、それは良かった。さて、息子を紹介しよう。おい、翼!こっちへ来い」
扉から悠々と入ってきたのは、小太りで目つきが鋭く、とても貴族家系の長男とは思えない風貌の男だった。
「お父様。失礼します」
「息子の翼だ。神童家は、翼に継いでもらおうと思っている」
その風貌の彼は、私を見て、口角が上がったのが分かった。
その瞬間、私は全身に氷水を浴びたかのように身震いをしてしまった。
「翼様。今後ともどうぞ宜しくお願い致します」
お母様が丁寧に頭を下げると、彼はぎこちなくお辞儀をし、その度に私を見てくるのがとても不快だった。
「結菜、翼様よ。貴方の婚約相手になります」
お母様は私に小声で私に言い。私は小声で、
「私、あんな人嫌です」
と返すと、お母様は顰蹙して目線で黙るように訴えていた。
その後、お食事を終え、お母様が軽くおじさんと話を済ました後、家に帰る事になり、車に乗ろうとすると、さっきの彼が私の所に来て、
「結菜さん、宜しく。君とこれからを歩んでいく事を楽しみにしています」
と言って、私の手にキスをして、去って行った。
私は、車の中でこっそりと。その手を服で拭いて、ため息をついた。
「はあ、お母さんね、この日をずっと待ち望んでいたの。娘が貴族の血を受け継げるなんて光栄だわ」
「そうですか」
「お父さんが居なくなって、バカにしてきた近所の方々、どんな表情をするのかしら」
お母様は、いつも体裁ばかり気にして、まるで自分の意思がないみたい。
私は、別に体裁なんて気にしないし、自分が本当にやりたい事をやりたいの。
笑みを浮かべるお母様に私はつい思ったことを口にしてしまった。
「お母様、周りの方々の評価がそんなにも気になりますか?」
お母様は、呆れた表情をしてため息をつき、私の方を見ておっしゃった。
「結菜はお母さんと生まれた環境が違うから分からないのよ。でも、いいのです。これから、今まで味わった事のない経験をして、周りからの賞賛を浴びていけば、体裁がどれだけ大事なのか、わかりますよ」
「私は、周りの方々に影響されて生きていくのは嫌です」
「今は、何も分からなくて良いです。大人になれば、お母さんの気持ちが分かります」
家に着いた私は、お風呂に入った。その後、お母様の姿が見当たらなかったので、キッチンの引き出しを開けてお父様の部屋の鍵を探し出した。お父様の部屋に入ろうとすると、なぜかすでに鍵が開いていた。
部屋の中に入った私は、椅子に座っているお母様を見つけた。
「お母様、何をしていらっしゃるのですか?」
お母様は落ち着いて振り向き、
「今日、私があなたに話したことが全て事実だと思いますか?」
と問いかけた。私は少し迷ってから、
「いいえ」
と答えると、お母様は微笑んで言った。
「私の話の八割は事実ですが、二割は嘘です」
お母様のその言葉に、私はどうしても腹が立ってしまった。
「お母様はどうして私をいじめるのでしょうか?」
思わず声を荒げてしまった。その瞬間、お母様は目を大きく見開き、少し驚いた様子で、
「いじめてなんかいませんよ」
と静かに答えた。それから、お母様は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
私は、荒くなった息を落ち着かせる為に椅子に腰を掛けて、お父様のお部屋の煙草の匂いを嗅ごうとしたけど、匂いが香水の匂いで消えてしまって、私は悲哀な気持ちでいっぱいになっていると、ふと、お父様の机が気になって、机の引き出しを開けてみると、引き出しの中にはハイライトの煙草が置いてあって、私は気が付いたら煙草に火を付けていて、ちょっと吸ってみたら、咳き込んでしまった。
部屋には、お父様の煙草の匂いが充満して、私は涙が溢れてしまった。
約束された未来なんて、つまらないじゃない。
未来は、見えないからこそ、見えない未来を想像して、生きていけるのに、未来が見えてしまったら、もう、生きていけないわ。
私は、家を飛び出して、近くの河川敷に向かった。
外は夕暮れ時で、辺りの落ち葉が風で舞い散り、川の水の流れはいつもより微かに強い気がした。
河川敷では、様々な音が耳に入ってくる為、なんだか楽しい。
橋からは、夕方の帰宅時で車の音が激しいけれど、川は水のせせらぎ、鴨の鳴き声、魚の跳ねる音、自然の調べが耳をくすぐって、とても心地よい。
心地の良さにうっとりしていると、野良猫が小さな鳴き声で寄ってきて、頭を撫でてやるとうんと甘えてくるから、可愛くて堪らなく、抱きしめてやった。
あまりにも痩せているから、何かご飯でも食べさせてあげたかったけど、今の私には何も出来やしない。
猫と一緒に川を眺めていると、近くから足音がして、私は驚いて振り向いた。
そこには見た事もない美少年が立っていた。
「見かけない顔だな」
少年は、隣の男子校の制服を着ていて、ポケットから煙草を出し、火を付けて吸っ
ていた。
「あなた、隣の男子校の方かしら」
少年は、煙草を吸いながら川をじっと眺めて、
「高校生が、煙草を吸っていたら悪いと思うか?」
と質問をし、私は、
「いいえ」
と答えた。
少年は驚いた様子で、私を見つめて、急に笑い出した。
「何がおかしいのでしょうか」
と私はムスッとした表情で言うと、少年は急に隣に座り出して、
「俺は何かに縛られるのが嫌いでね。俺の人生は俺が決める。周りの人間は良い大学行けだの、煙草を吸うなとか言うけど、俺は、誰かに決められた人生を歩みたくない」
と言って、私は、少年の言葉を聞いて、どこか共感を覚えた。
ふと、気が付いた事があって、私は少年に、
「貴方が吸っている煙草、もしかしてハイライトでしょうか」
と聞くと、少年は唖然としてポケットからしわくちゃになったハイライトを取り出して私に手渡した。
「正解。よくわかったね」
残り一本のハイライトは、どこか懐かしい香りがした。
「お父様も同じ煙草を吸っていましたの。よく一本しか残っていないことがありました」
彼が疑問の眼差しを向けると、私は微笑んで続けた。
「煙草を吸う奴で、性格がわかるんだ。俺みたいに残り本数が一本になるまで新しい煙草を買わない奴は、大雑把で、残り本数が半分もあるのに新しい煙草を買う奴は、心配症だって」
その言葉を思い出すと、なんだか笑えてきた。
少年も微笑を浮かべて、私の話を熱心に聞いていた。
「君は、親父さんが好きだったんだね」
「ええ、大好きです。でも、もう会えないんです」
お父様の事を思い出すと、目元が熱くなり、涙が頬を伝い始めた。少年に見られないように横を向いた私に少年は、
「なあ、死んだら人間はどうなるんだろうな。一年前、俺の大好きだったじいちゃんが突然亡くなってさ、あのときは本当に何も手がつかなかった。でも、じいちゃんの吸ってた煙草を見つけて、それを吸ってみたんだ。煙草の煙をじっと見てたら、蝶々が寄ってきてさ。もしかして、じいちゃんなんじゃないかって思って、その蝶々を追いかけたんだよ。そしたら、いつもじいちゃんが農作業してた畑に辿り着いてさ、やっぱりあの蝶々はじいちゃんの生まれ変わりなんじゃないかって思ったんだ。でも、結局その蝶々は見つからなかったけど、だからさ、俺は死んだら人間は何かしらに生まれ変わるんじゃないかって思うんだ。」
と呟いた彼は、私が抱いている猫を見て、
「その猫だって、もしかしたら誰かの生まれ変わりかもな」
と言った。
「お父様が生まれ変わるなら、きっと、猫じゃなくて犬ですわ」
と私が返すと少年はまた笑って、
「本当面白いな。なあ、名前教えてくれないか?」
と尋ねられて、私は答えた。
「中条結菜です」
「結菜か。俺、志村琥太郎。よろしくな」
志村?もしかして、美結ちゃんが言ってた子かしら。
「美結ちゃんって子を知っていますか?」
私が質問をすると、志村くんは少し困ったような顔をして、
「ああ、知っているよ。君も知っているのか?」
と言った。それで私は、
「知っているも何も、同じ学校のクラスメイトで友達です」
と答えると、志村くんは驚いた表情を浮かべて、
「彼女、しつこいんだよ。学校の前まで来たり、しつこくメール送ってきたり、もううんざりなんだよね」
と言いながら川に石を投げていて、私はおかしくって笑いながら、
「あなた、モテるのね」
と言うと、志村くんはやに下がった表情をして残り一本の煙草に火をつけた。
そして、私を見つめながら、
「俺、毎日この時間にここ居るからさ。悩んだ時は気軽にこいよ」
と言った。
私は志村くんと一緒に居ると、なんだかとても心地よくて、気が付いたら心を開いてしまって、もっと話したいと思ったけれど、お母様が心配してやってきたら嫌だから、早めに帰ることにした。
家に着いて音を立てないように玄関のドアを開けると、目の前にお母様が仁王立ちして待っていた。
私は驚いて思わず、「ワッ!」と声を出してしまった。
「お帰りなさい、結菜。どこに行っていたのでしょうか」
その声は冷たく、鋭く響いた。
「ちょっと、外へ…」
「外?誰かと会っていたのですか?」
「いいえ、少し外の空気を吸いたくて」
「では何故、貴方から煙草の匂いがするのでしょうか。説明しなさい」
「それは、その」
膝が震え、言葉に詰まる。
「来なさい」
瞬く間にお母様に強引に手を掴まれ、お風呂場に連れて行かれた。お母様の力強い手が離れると同時に、冷たいシャワーの水が私に浴びせられた。
「やめてください、お母様!なんでこんなに酷い事をするのですか!」
叫ぶ私の声に耳を傾けることなく、水は冷酷にも体を打ち続けた。
「冷たいです。お母様、もう許してください」
耐えかねた声が震えた。
「貴方から匂う嫌な匂いを消しているのですよ」
お母様は冷徹な声で言い放ち、水を掛け続けた。
その視線には一片の感情もなかった。
ようやく水を止めたかと思えば、彼女は淡々とした声で、
「しばらく反省するまで、そこにいなさい」
と言い、お風呂場のドアを閉めた。
「お母様!風邪を引いてしまいます。酷い、酷すぎます!」
声を張り上げたが、お母様は一切耳を貸さず、お風呂場のドアの前に立って私を閉じ込めた。
「お母様、許してください。私、怖かっただけなの」
しばらく訴え続けても、無反応だった。水滴がポタリと落ちる音と、身震いする私の音だけが、冷たい空間に響いた。
突然、記憶の扉が開かれたかのように、お父様と一緒に入ったお風呂の事を思い出した。温かい湯船で鼻歌を歌っていたあの時の風景が、今の冷たい現実と対比を成し、瞼の裏に蘇った。あの歌、なんだったっけ…?
思い出そうと、もがくうちに、体の震えがますます増し、意識が遠のいていった。「結菜はお父さんの自慢の娘だ。結菜はきっと、たくさんの男に愛されるだろう。でもな、結婚をする時は好きになった人としなきゃだめだぞ。お父さんは、早く孫の顔が見てみたいよ。はは、まだ早いか。それとな、これから先、運命を決めなくてはいけない時がくる。その時に、結菜の運命を決めようとする人間が現れるだろう。でもな、結菜の人生は結菜のものだ。誰にも決める権利はない。お父さんは、結菜の味方だからな」
「お父様、私、お父様と結婚します」
「はは、結菜にはもう既に運命の人がいるはずだ。いいか、金も地位も名誉よりも、一番大事なのは愛だ。愛は金で買えない。金が無くたって、愛さえあればどうにだってなる。金で手に入れたものは、金がなくなったら消えていく。お父さんはな、結菜に強欲になってほしくはない。だから、もっと一緒にいて、教えてあげたかった。結菜、そろそろ時間だ。結菜、お父さんはずっと結菜の味方だよ」
目が覚めた時に、私は部屋のお布団の中に居て、泣いていた。
「おはよう、結菜。目が覚めたのですね」
隣を見ると、お母様がいらっしゃって、昨日の事を鮮明に思い出して、私は畏怖を感じた。
「随分と良い夢を見ていたのですね」
お母様は怪奇染みた表情を浮かべて、私の事をずっと見つめていた。
「お母さんの事が嫌いになりましたか?」
「いいえ」
「本当の事を言いなさい」
「本当の事を言ったら、私をどうするつもりですか」
「殺す、と言ったら、どうしますか?」
私は私をも恐れなかった。今この地獄から抜け出せるのであれば、恐れるものなどない。
「好きに、殺してくれて構いません」
お母様は、私の言葉を聞いて、厳粛な表情をする訳でもなく、憂いな表情でもなく、やはり、不気味に笑って
「殺しませんよ。だって、貴方には運命に従って頂く必要があるから」
「私が従わなければ、手を汚す覚悟があるという事でしょうか」
「ええ、貴方が思っている程、貴族の家系に嫁ぐという事は、簡単ではないのですよ」
「私、貴族の家系なんて興味がありません」
「貴方をここまで育ててきた母親に対して、恩を返すという事は、子の使命です」
私は、我慢の限界だった。
「お母様、貴方は、本当に私のお母様ですか?」
喉からつい漏れてしまった言葉を拾ったお母様は、鬼のように憤慨し、私の頬を強く叩いた。
「お母さんに向かってそんな口の聞き方をしてはいけないと教えたはずです。いい加減にしなさい」
私が知っているお母様は、こんなお母様ではなかったはずなのに、どうしてこうなってしまったの。
お金、地位、名誉というものは、そんなに人を狂わすものなの?
それとも、今ここにいる人は、お母様の皮を被った化物なのかしら。
「もうすぐで、高校も卒業ですね。卒業式を終えたら、貴方は神童家に嫁ぐのです。お母さんも、神童家に住む事になっていますので、幸せに暮らしましょうね」
そう語るお母様の姿は、まるで獲物が目の前にあってよだれを垂らしている獣のように、強欲さが露呈していて、気味が悪かった。
私は、決意した。
私の運命を奪い取ろうとしている者には、絶対に運命を渡さない。
私の運命は、私のものだ。
私は、強い女。
それから私は、この女の前では忠実な娘を演じて、密かに正体を暴くように行動を開始した。母親のふりをする相手を見破るため、まず手がかりを探そうと思った。しかし、どこを探しても戸籍謄本は見つからない。古いアルバムも開いてみたけれど、昔の写真はどれも見当たらない。まるで、私の記憶そのものまで消え去ってしまったかのように。
あの女は巧妙に証拠を全て消し去ってしまったのかしら。そんな不安が心をよぎる。私は学校が終わるとよく河川敷に行き、そこで唯一の味方である志村くんに会って相談するようになった。
「そいつは母親じゃないね。本物の親って感じじゃないもんな。よし、俺も協力するよ」
と志村くんは言ってくれた。彼の目はどこか楽しげで、私とは違って事の重大さを楽しんでいるようにも見えた。
「でもさ、どうしたら良いか分からないよ。だって、戸籍謄本も昔の写真も一切ないから、あの女が偽物だって証明できない。志村くんだったら、どうする?」
私の声は焦りを含んでいた。
「そうだな、俺だったら、拳を握って、お前偽物だろ!って言うね」
と冗談めかして答える志村くんに呆れつつもどこか安心する自分がいた。
「はは、まぁでも冗談は置いておいて、何かあったら俺が必ず君を助ける。それは約束するよ」
と志村くんは真剣な顔で言い、私の心に温かさをもたらした。志村くんの言葉は、私にとって心強く、彼の存在は、今の私にとってかけがえのないものだった。
「よし、美味い飯食わしてやる」
と元気づけるような声色で言い、私は志村くんの言葉に誘われ自転車の後ろに乗った。志村くんの腰に手を回し、二人で風を切って河川敷を走り抜ける。志村くんの背中を眺めていると、どこか懐かしい気持ちになってきた。
最近の私は、とても涙脆い。過去の思い出や迷い、不安が頭の中でぐるぐると廻り、涙が溢れてくる。そんな私を見て、志村くんは
「雨か!?水滴がかかってきたぞ」
と冗談を言ってくれる。
私は志村くんを強く抱きしめて、
「雨かもね」
と優しく答えた。志村くんの背中から伝わる温もりと安心感が、私の心を少しずつ解きほぐしてくれる気がした。
「着いたぞ、汚いとこだけど、まあ、上がれや」
志村くんの家は、河川敷からすぐ近くにある築年数の長い古き良き木造の貸家だった。
その外観は、昔ながらの風情を漂わせており、どこか懐かしい気持ちにさせた。
玄関を入ると、珠のれんが掛かっており、珠のれんをくぐるときに軽やかな音が響いた。
その先には、レトロなインテリアで飾られた落ち着いた雰囲気の部屋が広がっていた。
「わあ、すごい。私、こういうお家が好きなの」
私の声には興奮がこもっていた。
「そうか?古臭いだろ」
志村くんは照れくさそうに言いながらにこっと笑った。
「そんなことないよ。とてもよく眠れそう」
「ちょっと待っててな、今、作ってやるから」
と言って、志村くんはキッチンへ向かった。
私はクッションに腰を下ろして、彼の料理する姿を見守ることにした。
キッチンからはまな板に包丁を巧みに走らせるカチカチという音が聞こえてきた。
その音がリズミカルで、まるで音楽のようだった。
彼は手際よく野菜を切り終えると、次にフライパンを取り出し、火を点けた。
「ジュワッ」
と油が熱せられ、そこに投入された材料たちが一斉に踊り始める。志村くんがフライパンを振る度に、具材が宙に舞い、香ばしい匂いがキッチンから一気に広がってきた。
彼は軽快な動きで炒め続け、時折聞こえる
「カンカン」
というフライパンの音が心地よかった。
志村くんの背中を眺めながら、
「料理をする手つきも優しいな」
と思った。
彼の真剣な横顔に見とれていると、ふと、自分がこんな風に家庭的な幸せを感じる日が来るなんて思いもよらなかった。
「できたぜ、チャーハン!」
志村くんは机にそのままフライパンを置いて、スプーンを私に渡してくれた。
「今、お茶持ってくるから、待っててな」
彼がキッチンからボロボロのやかんを持ってくる音も、なぜか心安らぐ。
コップに注がれるお茶の音が、暖かい雰囲気を一層引き立てた。
「食べようぜ!」
志村くんは素早く手を合わせると、かき込むようにチャーハンをお口に運んで、熱かったのかお口をハフハフさせていて、可愛かった。
「お腹空いていたの?」
私が笑いながら聞くと、彼は、
「今日はなんも食ってなかったからな。ほら、結菜も食えや」
ともぐもぐしながらそう言って、私は彼の事が可愛くて仕方がなく、微笑んでしまった。
チャーハンは驚く程美味しくて、思わず私は、
「美味しい、すごいね。志村くん」
と言うと、彼は得意げに笑った。
豪勢ではないけれど、私にとっては、お屋敷に行って出されたチキンやステーキよりも美味しくて、私が一番求めていた光景だったのかもしれない。
お母様、私、特別なんていらないの。
この光景こそが、私にとっての幸せなの。
お嫁になんて、行きません。
私、ようやく気がついたの。
私、今、すごく恋をしている。
彼が美味しそうにご飯を食べている姿を、ずっと、これからもずっと、見ていたいのです。
「結菜、なんで泣いてるんだ?」
「幸せだから」
「そうか、俺もすごく幸せだ」
「志村くんも?どうして?」
「どうしてって、結菜に惚れちまったからだな」
「私も、志村くんに惚れちゃった」
志村くんは頬がリンゴみたいに赤く染まって、口角が上がっていて、可愛かった。
男の子に恋をすると、かっこいい、という感情よりも、可愛いと思う事の方が多いのね。
彼の笑顔を見ていると、なんだか、これから先どんな事があっても、きっと乗り越えられるはず。
「結菜、俺が守るから。高校を卒業したら一緒に暮らそう」
「うん、約束ね」
彼は、私に優しいキスをした。
彼のキスは、私の秘め事を浄化するように、純粋なキスだった。
私の嫌な記憶が、彼によって消し去られていった。
ふと、時計を見ると19時を回っていて私は名残惜しみながらも
「そろそろ、お家に帰るね。正体を暴くまでは、良い子を演じなきゃだから」
と言って、お家に帰る決断をした。
今、この幸せを壊される訳にはいかない。
「そうか。気をつけてな。何かあればすぐに飛んでいくから」
彼は優しく、私を抱きしめてくれた。

お家に着くと、お母様は普段と変わらないご様子で、私は笑顔を作って、
「ただいま戻りました、お母様」
と言うと、お母様はにっこりと笑って、
「お帰りなさい」
とおっしゃって、少し違和感を感じたが、特に気にしないようにしているとお母様が、
「随分と幸せそうな顔してるわね」
と何かを察しているかのようにおっしゃり、私は
「お母様こそ、幸せそうですよ」
と返答すると、お母様は、私を鋭い目つきで睨みつけ、
「ええ、もうすぐ、全てが手に入りますから」
とおっしゃった。
私は次第に溢れてくる憎悪を押し殺しながら、お部屋へ向かった。
寝る前には、彼の事を思い浮かべて、少しニヤついてしまう自分がいる。
恋ってこういう事なのね。
つい最近までは、とても厭世的だったけど、今は楽観的。
お母様だって、ちっとも怖くはないわ。
翌朝、学校へ向かう途中、美結ちゃんを見掛けて声を掛けると、美結ちゃんは目を鋭くして私を睨みつけ、無視して通り過ぎた。
その瞬間、私は悟った。
美結ちゃんは志村くんに好意を寄せていたことは知っていたけど、どうやら私と志村くんの関係に気づいてしまったらしい。
でも、どうやって知ったのだろう。
恐る恐る教室のドアを開けると、教室には朝の清々しい光が窓から差し込み、机や椅子の影を長く落としていた。
教室の奥の方では窓際に寄り集まっていたいくつかの人影が、一斉にこちらを睨むように視線を送っていた。その中にはもちろん、美結ちゃんもいた。
彼女達からは、笑い声が響き、その音色には毒が含まれいた。
彼女の険しい表情は私に対しての憎悪が溢れ出していて、女の嫉妬深さを思い知る事となった。
「泥棒猫が紛れ込んでいるわね」
「本当、いやらしい女」
「毒親にそっくりだわ」
彼女たちの非難の声は、私の心に何の揺らぎも与えず、私はちっとも気にしなかった。
だって、私の心は今、彼への愛で満たされているから。
だって、今の私は貴方達よりもずっと幸せですもの。
窓の外に目を向け、志村くんを見つけると、思わず微笑んでしまった。
その様子に気づいた美結ちゃんは私の前に立ちはだかり、
「どんな気持ちなの?友達の好きな人を奪って、最低ね」
と声を荒げて言った。
「奪ってなんかいないわ。彼が、私を選んだだけです」
と冷静に答えると、美結ちゃんは顔を真っ赤にして怒り、私の頬を強く叩いた。「この泥棒猫!」
と言い捨てて教室を去っていき、周りにいた友達も便乗して、
「貴方って最低ね」
と言い捨てて、教室から出ていった。さっきの私は、ちょっと、お母様に似ているような気がして、とてもお下品で、私自身に嫌悪感を抱いてしまった。
それから美結ちゃんは私に悪質な嫌がらせをするようになり、教科書に
「しね」
と書いたり、机には
「泥棒猫」
と油性ペンで大きく書いたり、体操服や靴を隠したりして執拗に嫌がらせを続けた。
それでも、今の私は動じなかった。
学校では孤独でも、放課後には彼と過ごし、彼の癒しで満たされていたからだ。学校での出来事も彼には話さず、彼とただお母様の素性を探る計画を練ったり、デートを楽しんでいた。
ただ、唯一気がかりなのは、美結ちゃんが何故、私と彼が交際している事を知っていたのだろうか。
河川敷に二人でいる所を見られたのだと思うけど、それにしても、美結ちゃんは、被害妄想がすごい。
私が美結ちゃんから奪ったって騒いでるけど、美結ちゃんの物じゃなかったじゃない。
学校の先生が心配して、私にいじめられてないかと聞いてきたけど、私にとっては蚊が騒いでいるだけ。
だから、先生には、
「何もありません」
って言って、先生の仕事を増やさないように気を使った。
あまりにもしつこくてうんざりしたら、私は美結ちゃんに直接言ってやるの。
だって、今の私は強いから。
幸せだから、どんな邪魔をされても跳ね除けてみせるわ。
その後、美優ちゃんのいじめは徐々にエスカレートしていったが、私の飄々とした態度に諦めたのか、いじめから一ヶ月程経った頃には、もう何もしてこなくなった。
卒業まで残り僅か。
結局、お母様の素性は何一つとして手掛かりが見つからず、このまま、何も知らずに卒業して、二人でどこか遠い町へ逃げてしまってもいいかもしれないと思うことが多くなった。
授業が終わると、美結ちゃんが急に、
「放課後、体育館に来て。話があるの」
と神妙そうな表情で言って、私は、ついに謝ってくれるのかしらと思い、ちょっとにやけてしまった。
放課後になって美結ちゃんの言われた通り、体育館の方へ向かった。
体育館の静まりかえった廊下を進むと、不意に後ろから声を掛けられた。
「結菜ちゃん。こっちだよ」
振り返ると、美結ちゃんが校舎の影から顔を出していた。
彼女の表情はどこか不自然で、何かを隠しているような気がしたが、謝罪するためにそこにいるのだと思い込んだ私は、その後ろについて行った。
体育館の扉を開けると、薄暗い照明の中で静かな体育館が広がっていた。
私の胸の高鳴り、少し緊張しながらも奥へと進んだ。
「こちらなの?」
「ええ、ちょっと待ってて」
美結ちゃんはそう言って体育館の倉庫の扉を示した。
私は一瞬に躊躇を感じたが、結局彼女の言葉を信じて中に入った。
その瞬間、背後の扉が勢いよく閉じられ、冷たい声が響いた。
「あんた、そこにずっといなさい。目障りなのよ」
扉を閉めたのは美結ちゃんだった。
私は戸惑い、扉に向かって叩いたが、扉は固く閉ざされびくともしなかった。
「ちょっと、美結ちゃん!何をしているのか分かっているの!ねえ、ちょっと」
と叫んでみたけれど、返事はなかった。
急に暗くなる体育館の内側。心臓がドキドキと早鐘を打ち、恐怖が膨らむ。だが、ここで落ち着かなければならない。
心細さと怖さで涙が出てきたが、私は決して諦めないと心に誓った。
窓からのわずかな光を頼りに、何かドアを叩くものを探し始めた。
目に入ったのは古いバスケットボールのゴールポール。
私はそれを引っ張り、倒してみようと試みるが、重すぎて思うように動かない。
私は悔しくてドアを思いっきり叩いた。
「あの女、本当最低。はあ、どうしよう」
体育館の中はとても寒く、私は凍える手に息を吹きかけながらも、周りを見回していると、バレーボールのネットの支柱を見つけて両手で力いっぱい持ち上げようとしたけれど、とても重く運べない。
焦りが募る私は深呼吸をして落ち着かせ、窓を割ってしまおうと、思いつくも工具が見当たらず、やけになって、バスケットボールを投げつけたがガラスは割れなかった。
私は落胆とし、その場にしゃがんでしまった。
寒さで震える体をさすりながらも、私は辺りを見回すのを辞めず、なんとかして打開策を見つけようと必死だった。
焦りと不安が混ざる中、ふと、棚に置いてあった工具箱に目が留まりました。道具は稀薄だったが、ハンマーが一つ見つかった。私はそのハンマーを持って、全力で体育館の鉄製のドアを叩き始めた。
「コン、コン、コン」
金属音が響き、一瞬だけ希望の光が差し込むような気がした。
その音はすぐに虚無に吸い込まれただけだった。
「助けて、誰か!ここに閉じ込められているの!」
声も、結局のところ体育館の厚い壁に吸い込まれてしまい、外まで届かなかった。
絶望感が襲うが、諦めるわけにはいかない。
窓から外を見たけれど、人影は見えなかった。
一瞬の静寂が訪れる。
私は冷静を取り戻し、深呼吸をした。
次に試したのは、窓にあるガラスを割る事。
ハンマーを再び手にして、窓に向かって振り上げる。
ガラスは固く、すぐには割れなかったが、何度か試す事で、大きな亀裂が入った。「これで外に伝わることもあるかも…」
希望の光が少しずつ差し込む。
外の風が微かに感じられ、やっと開口部ができた。
しかし、それと同時に足元の破片に気をつけながら慎重に身を乗り出した。
その時、
「大丈夫か!?」
という聞き慣れた声が外から聞こえた。
志村くんだった。
私は、涙が溢れ出そうになりながらも、必死にこらえて。
「ここにいるよ、助けて!」
と叫んだ。
「待ってろ、今開ける!」
志村くんの声は力強く、頼もしかった。
ドア越しに鍵を探す音が聞こえ、数分後、ドアが開いた。冷たい風と共に、志村くんが現れた。
「大丈夫か?」
彼は焦りと心配を見せながら、私に駆け寄ってきた。
「ありがとう」
疲れ果てた私の手を握る彼は、暖かくて優しかった。
涙がどっと溢れ、私は彼にすがり付いた。
「もう大丈夫。絶対に君を一人にしない」
彼は強く抱きしめ、私に約束してくれた。
二人は雪の降りしきる中、肩を寄せ合いながら歩いた。
白い雪が二人の双肩に積もる中、志村くんの手の温もりが私を冷え切った心と体を温め続けた。
その後、私たちはさらに絆を深め、お互いの愛を再確認した。
「家に帰ってからも、油断するな。何かあったらすぐに電話してくれ」
志村くんはそう言って、私を家の前まで送ってくれた。
志村くんの背中を見送った私は、重い玄関のドアをゆっくりと開けた。
「ただいま帰りました」
あれ?お母様はいらっしゃらないのかしら。
部屋の電気も付いておらず、キッチンや部屋中を見まわしたけど、やっぱり家には誰もいなかった。
「どこに行っているのかしら」
志村くんに電話をかけてみたが、志村くんは電話に出なかった。
その瞬間、突然インターホンが鳴った。
覗き穴から覗いてみると、見慣れないスーツ姿の男が立っていた。
訝しげにドアを開けると、その男は深々と頭を下げた。
「こんばんは、警察の黒崎です。少しお話を伺いたいのですが、お時間をいただけますか?」
私は戸惑いながらも尋ねた。
「ええ、もちろんです。何か問題があったんですか?」
黒崎刑事は軽くため息をついて答えた。
「特に重大なことではないのですが、お母さんが家にいるかどうか確認したいのです。お母さんはご在宅ですか?」
「今は留守にされていますが…。何かお母さんと関係があるんですか?」
「いえ、近所の一帯でいくつかのことについて聞き込みをしていますので、念のためです」
と黒崎刑事は控えめに答えた。
私は少しためらいながらも返答した。
「そうですか…。でも、どうしてわざわざうちに?」
黒崎刑事は少し考えてからメモ帳を取り出した。
「君は今日の午後は何をしていましたか?」
私は、黒崎刑事の質問に戸惑い、美結ちゃんに閉じ込められていたことや、志村くんに助けてもらったことを思い出したが、それを言うわけにはいかない。
「学校にずっといました」
黒崎刑事はメモ帳に記録しながら、しばらく考え込むような表情をした。
「そうですか。ありがとう。協力に感謝します。また何かありましたらよろしくお願いします」
黒崎刑事が玄関の扉を開け外へ出て行く途中、ふと立ち止まり振り返って言った。「一応念のため、何か気になることがあったら、すぐに連絡くださいね」
その後、玄関の扉を静かに閉じて去って行った。彼の後ろ姿は何かしらの警戒心と、奇妙な親しみを感じさせた。心のどこかで不安が膨らんだが、それが何なのかはまだはっきりとは分からなかった。
私は刑事さんが去った後、深くため息をついて腰を下ろしていると、いきなりドアが開いて私は驚いていると、そこにはお母様が立っていた。
「お、お母様。おかえりなさいませ」
お母様は私を見下すかのように冷酷な表情で私を見つめ、
「貴方には私がお化けにでも見えているのかしら」
と言って、玄関の扉を閉め、キッチンの方へと向かっていった。
「あの、お母様。今日、家に刑事の方が来ました」
お母様は作業をする手を一瞬止めて、何か深く考えるように固まってしまった。
「何か、知っているのですか。お母様」
私が恐る恐る質問をすると、お母様は、
「何をですか?それより、貴方は最近、随分と浮かれていますね」
と私の方に近寄ってきて、私はお母様から威圧感を感じて萎縮してしまった。
「貴方、自分の運命を変えようと企んでいるようね」
「どういうことでしょうか」
「貴方、恋をしているみたいね」
私は心臓の鼓動が早まり、冷や汗をかいていた。
「そんなことありません」
私は嘘を付いた。
今、志村くんとの関係を邪魔される訳にはいかなかった。
その瞬間、お母様は不気味な笑みを浮かべて
「貴方の運命は私のものなの。邪魔するものは、私が全て壊してあげる」
私はお母様の表情が網膜に畏怖を焼き付けた。
そして、何かとても嫌な予感を感じた。
「お母様は、一体何がしたいの?」
私は恐怖に怯えながらも、お母様に反抗した。
「もうすぐ卒業ね。ふふ、あと少しなんだから、大人しくしていてちょうだい」
「あと少しって、どういう事でしょうか?」
「貴方は私にとって最後の希望ですよ」
「私、お母様の望み通りには生きたくないです」
「では、死んでもらうしかありませんね」
お母様はその瞬間、私に勢いよく乗し掛かり、私の首を強く締めた。
私は必死に抵抗をしたが、お母様は異常な程力が強く、私は苦しさでもがいて、お母様の服を引っ張ってしまい、すると、お母様の服は破れて、お母様の肌が露わになり、私はお母様の肌を見て震撼した。
お母様の体には、やけどの生々しい跡があった。
「お母様、これって」
お母様は私の首から手を離して、やけどの跡を隠し、
「こうやって貴方と戯れてみたかったんです。殺されると思いましたか?
と不気味に微笑んで、そうおっしゃった。
「お母様は、私のことを殺そうとしてましたよね?」
そう言うとお母様は微笑んで
「まだ、殺す訳にはいきませんよ。この傷、気になりますか?」
とおっしゃって、私は、
「はい」
と答えるとお母様はリビングの椅子に腰をかけて、ポケットから煙草を取り出して、煙草に火をつけ、吸っていた。
「お母様、煙草吸っていたんですね」
お母様は、何も反応せずに、ただ煙草を吸い続け、私の方を見て、微笑むばかりだった。
「もう、貴方気付いてるんでしょう。私が本当の母親ではないことを」
お母様が憂いな表情をしてそうおっしゃったが、私は何も答えなかった。
お母様は続けて、
「私、貴方の為になんだってやってきたのよ。自分の身を滅ぼしても、なんだってね」
私は、お母様の言葉を聞いて、怒りが込み上げてきて、
「何をしたと言うのですか。私のこと、利用していただけじゃない」
と声を荒げて言うと、お母様は笑った。
「もう、いじめは起こらないわよ」
何を言っているかわからなかった。
「いじめなんて、されていません」
そう言うとお母様は全てを知っているかのように微笑して、
「何を言っているの。悲しくて、泣いていたじゃない」
とおっしゃった。
「何を言っているのでしょうか?私、泣いてなんかないもん」
お母様は知っているというの?
私が学校で起こったことを、全て。
え?いじめが起こらないってどういうことだろう。
様々な疑問が頭の中でごちゃごちゃになっている中、お母様は、
「体育館に閉じ込めるのは、ちょっとやりすぎね」
と呟き、私は驚愕し、お母様に、
「なんで、知っているのですか」
と言うと、お母様は、
「そのうち、わかりますよ」
と言って、リビングから出て行ってしまった。
翌日、学校に行くと、美結ちゃんが恐ろしい表情で私に掴み掛かりながら言った。
「ねえ、何チクってんの。あのまま、死ねばよかったのに」
彼女の声が荒れ、周りのクラスメイト達が騒然となった。
美結ちゃんは周りを見えてない様子で、私を責め続けた。
「ねえ、いい加減にしなよ。中条さんがあんたに何かしたの?」
美結ちゃんに突っかかったのは、クラスメイトの氷室奈緒さんだった。
「何よ。あんただって共犯じゃない。何もしないで、じっと見てたんだから。何よ今更正義面して!」
美結ちゃんがそう言って、氷室さんの頬を強く叩いた。
すると、氷室さんは一切の躊躇もなく、美結ちゃんの頬を強く叩き返した。
「何すんのよ!」
美結ちゃんが声を荒げると、周りの子達は次々に美結ちゃんを責め出した。
「美結!いいかげんにして」
「最低だよ」
「ただの嫉妬じゃない。見苦しい」
「いじめなんてみっともない」
様々な悪口の弓が美結ちゃんに突き刺さり、美結ちゃんは涙を流して教室を去っていった。
「美結、酷いことしてごめんね。逆らえなくて」
私をいじめていたクラスメイト達が手のひらを返して私に近寄ってきて、私は苦笑した。
「ちょっと、なんの騒ぎですか。あれ?原田さんはどこに行ったの?」
担任の先生が来ると、みんな一斉に静まり返り、席に戻った。
「もうすぐ卒業なんですから、みんな仲良くしてくださいね」
先生の言葉を聞いても、クラスメイト達はみんなでこそこそと美結ちゃんの悪口を言い続け、私は呆れてしまった。
すると、隣に座る氷室さんが、
「女の子ってさ、弱い者を一斉に潰しにかかる生き物だからさ」
と言って、微笑んでいた。
「さっきはありがとう。でも、どうして助けてくれたの?」
私がそう尋ねると、氷室さんは微笑して、
「なんだろね、中条さんと私が少し似ていたからかな」
と言って、哀愁な態度で窓を眺めていた。
氷室さんとは、学校生活の中で殆ど関わることはなかった。彼女はただ、とても真面目でずっと孤独な子だった。
ボーイッシュで美人な彼女は、成績も優秀で運動神経もよく、学校内では密かにファンがいると噂を聞いたことがある。
そんな彼女が、急に私を助けてくれたことに、私はとても驚いていた。
その日の放課後、氷室さんが教室を出ようとする私に声をかけた。
「中条さん、この後ちょっと時間ある?もしよかったら、一緒に喫茶店でお茶しない?」
今まで殆ど話したことのなかった彼女からの誘いに驚きつつも、私は頷いた。
「うん、いいよ」
二人で歩くのは少し緊張したけれど、氷室さんの話しやすい雰囲気のおかげで次第に和んできた。
私たちは学校の近くにある落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。
氷室さんは窓際の席を選んで、私に微笑んだ。
「ここ、私のお気に入りの場所なんだ。学校で疲れた時によく来るの」
「そうなんだ、素敵な場所だね」メニューを眺めながら氷室さんは、
「中条さんって、どんなものが好きなの?」
と尋ねた。
「私はアフォガートが好きかな。あの、コーヒーとアイスクリームの組み合わせが」
と答えると、氷室さんは微笑んで、
「じゃあ、今日はアフォガートにしよう」
と言った。
私たちはお互いのことを話し始め、意外にも共通点が多いことに驚いた。
氷室さんは意外と話しやすく、時間があっという間に過ぎていった。
「なんか、氷室さんって親しみやすい人だね。今日話せてよかった」
私がそう言うと、氷室さんは優しく微笑みながら、
「あら、そう言ってもらえて嬉しいわ。これからも仲良くしてね、結菜」
と言ってくれた。
ただ、氷室さんの私を見る目には、光がないような気がした。
「ねえ、結菜。私たちって、やっぱり似ているね」
「え?」
「ううん、なんでもないの。さあ、帰りましょう」
氷室さんはそう言って、席を立ち、喫茶店のお会計を払ってくれた。
「氷室さん、ご馳走様。ありがとう」
私がお礼を言うと氷室さんは微笑んで、
「いいえ。また、お茶でもしようね」
と言って、喫茶店を後にした。
私は氷室さんの背中を見送り、帰ろうとすると電話が鳴って、電話に出ると志村くんからの電話だった。
「志村くん!どうしたの?」
電話越しで無言が続き、私は心配して声を掛け続けると、志村くんが
「結菜、明日の夕方。河川敷に来てくれ」
と元気のなさそうな声で言って、私は不安が過った。
その翌日、夕方になり、私は指定された河川敷に向かっていた。
志村くんの声が何か重要なことを示唆しているようで、不安で胸が一杯になって
た。
河川敷に到着すると、すぐに志村くんの姿が見えた。
彼は寂しげに遠くを見つめていた。
「志村くん!来たよ」
と声を掛けると、彼はゆっくりとこちらを振り向いたが、その表情はとても悲しそうだった。
「結菜、来てくれてありがとう」
と彼は小さな声で言った。
「志村くん、一体どうしたの?最近、なんか様子がおかしいよ」
志村くんはしばらく黙っていたが、深呼吸をしてから言葉を絞り出した。
「結菜、ごめん。俺たち、もう会えないんだ」
その言葉が頭の中でこだました。
「え?なんで?何があったの?」
志村くんは辛そうに顔を歪めながら
「結菜、好きだった。ありがとう」
と言って、私を抱きしめた。
私は、涙がこぼれ落ちてしまって、声を出して泣いてしまった。
「どうして、どうしてなの。ずっと、守ってくれるって言ったじゃん」
志村くんは私の言葉を聞いて、悔しそうな表情をして、私を突き放した。
「結菜。わかってくれ」
そう言って、彼は河川敷を後にした 。
私はその場に立ち尽くし、志村くんが小さくなっていく背中を見つめていた。
心の中には不安と希望が入り混じり、複雑な感情が渦巻いていた。
私は、ただひたすら泣いた。
涙が枯れるほど、泣いて、私の恋は儚く散ってしまった。
志村くんがどうして私を見捨てたのかは分からなかった。
しばらく泣いていると、誰かが私の隣に来て、私を抱きしめた。
「私が、側にいるから」
優しさに溢れたようなハーモニーを奏でる天使のような声がして、振り向くとそこには氷室さんがいた。
「どうして、ここにいるの?」
私が尋ねると氷室さんは慈愛溢れる微笑みで、
「結菜が、泣いている気がしたから」
と言って、私を抱きしめ続けた。
それから、私たちは二人で並んで座って川を眺めて、その間氷室さんは、私の肩を抱いていた。
「ねえ、氷室さんは彼氏いないの?」
私が質問をすると彼女は微笑み、
「いないよ。彼氏なんていらない」
と言った。
「どうして?モテそうなのに」
私がそう言うと、氷室さんは憂いな表情をして、川を見つめていた。
私は何か嫌な事を言ってしまったかと思って、氷室さんに、
「ごめんね、変な事聞いちゃって」
と言うと、氷室さんは、
「いいの、結菜は何も悪くない。私ね、男が嫌いなの」
と言って、落ちていた石を拾って川に向かって投げつけた。
「どうして、男の子が嫌いなの?」
と聞くと、氷室さんは私のことを見つめて、
「美しくないから。欲に忠実で、野蛮で、汚らしい。私の父がそうだったから」
と言って、私のことを強く抱きしめ、
「結菜が好きな彼だって、結菜のこと、いやらしい目で見ているかも」
と私を悟るように言い、私は反対して、
「いいえ、志村くんはそんなんじゃないもん。だって、彼とのキスは、性欲の匂いがしなかったの」
とつい口が滑ってしまった。
日が沈み、鳥のさえずりが辺りに調和よく響き、河川敷でキャッチボールをする少年達が、お腹を空かせて帰っていき、冬の風が強く吹き渡り、川の冷たい水と共に、辺りを冷たくし、私たち二人の体を冷たく包み込んでいた。
私の乾燥した唇に、温かく湿った唇が触れる。
その唇からは、今までに感じたことのないような柔らかさと、温もり、それに、微かに香る色気ある匂いが、私を不思議な気持ちにさせた。
そのまま、舌が私の中に強引に入ってきて、滑らかに私の舌と交わっていき、私はとても心地がよく、そのまま身を任せてしまってもいいかなと思った瞬間、志村くんの事を思い浮かべて、志村くんに初めて唇を奪われた時の感覚が、とても、幸福で、気持ちが良かったと思い出すと、悲しい気持ちになってきた。
「しょっぱいキスなんて、初めてだよ」
氷室さんが私を見つめて、笑いながらそう言って、私はなんだか恥ずかしくなった。
「女の子とキスしたの初めて」
私がそう言うと、氷室さんは微笑して
「悪くないでしょ?」
と言った。

家に帰ると、家の中は静まり返っていた。
暗闇の中、呆然とした不安が胸を襲った。
リビングの方から微かな笑い声が聞こえてくる。
「おかえりなさい。結菜ちゃん」
お母様がまるで獲物を見つけたかのように現れ、不気味な笑みを浮かべて近寄ってきた。
「ただいま、戻りました」
私が言うと、お母様は手招きをし、光を遮るようにキッチンの方へと消えて行った。
「結菜、今、さぞ悲しいお気持ちでしょうね」
お母様は煙草を吸いながら微笑して、私を挑発するようだった。
「どういうことでしょうか?」
私が問いただすと、お母様は大袈裟に笑い、
「何も気づいてないのですね。本当に鈍感ね」
お母様の嘲笑うような発言に私は怒りが湧き上がってきた。
「勿体ぶらないで、さっさと言ってください」
と感情を隠さずに言った。
「あら、嫌だわ。そんなに怒っちゃって」
お母様は終始、嘲笑うような表情を崩さなかった。
「まあ、いいわ。あのね、貴方には恋をする権利はないの。貴方は神童家と結婚をしなくてはならない運命なの」
お母様の冷静な言葉に、私は胸の内で激しい怒りを感じていた。
「貴方が恋をしている男の子に私は言ったの。もう、関わらないでちょうだいってね。あの子、すんごい顔して怒って、私もうおかしくって」
私の体が震えた。
「なんで、そんなことするの!貴方って、どこまで腐っているの。私の愛するお母様じゃないわ。貴方は、私の家を乗っ取った泥棒よ。ねえ、返してよ。お父様も、志村くんも、本当のお母様も、この家も、全部返してよ!」
「黙りなさい!」
お母様は急に声を荒げ、険しい表情で私を見下ろした。
「もう、いいわ。貴方に期待をした私がバカだったみたいね。殺してあげる」
女はタバコの火を乱暴に消して、私に襲いかかってきた。
私はキッチンの方へ逃げて、包丁を手にした。
「来ないで!」
と叫ぶと、女は笑いながら一歩一歩近づいてきた。
「殺せるもんなら殺してみなさい」
女は狂気染みた表情を浮かべ、包丁を握った私の手へと近づいてきた。
震える手を必死に押さえていたが、涙が止まらなかった。
「来ないでって言ってるでしょ!」
私は声を張り上げたが、女は私の持っている包丁の刃先に手をかざし、不気味な笑みで私に、
「貴方のような臆病者に、何ができるの?運命はね、変える事はできないの」
と言った。
私は、ふと、後ろの食器棚に目が映り、食器棚に綺麗に飾られている高貴なお皿を一つ手に取って投げつけると、お皿は見事に割れて、女はお皿を見て絶叫した。
「なんてことするの!ああ、私のお皿」
私はお皿を何枚か取って、壁に向かって投げつけ、お皿は大きな音を立てて割れていき、女は泣き叫んで、お皿を眺めていた。
「貴方にとって、こんなお皿が大事だったのね。貴方が私の大事なものを奪うなら、私も奪います」
私は最後の皿を投げかけると、女が叫んだ。
「まって!わかった。全部話すから!」
手を止めた私は女の言葉を待つ。
女は自白した。
「貴方の本当の母は、死んだのよ。貴方の父の浮気が原因でね。
私は、家政婦として働いていたの。ちょうど、貴方が生まれた時だったわ。
貴方の父の浮気が発覚して、貴方の母は自殺したの。
その秘密は私だけが知っていてね。
私、貴方の父を脅したの。
私を貴族家にしろってね。
だから、貴方の前でずっと母親のふりをしていたの。ただ、貴方が中学に進学する前の日に、貴方の父は私を追い出そうとしてきたの。だから、私は殺したのよ」
女の言葉を聞いて、私は愕然とし、頭が真っ白になった。
女は、続けて
「貴方の父は、財産をどこかに隠したの。私は焦ったわ。
一番欲しかったものを隠されたら、どうしようもないからね。
でもね、貴方の父は唯一、日本でも大きな貴族家との繋がりを残していたの。
だから、私はそれを利用して、神童家に近づき、貴方を紹介した。
神童家の長男があんなにも不細工だから、叔父さんは簡単にも承諾してくれてね、まあ婚約相手は見つからなかったのよどうせ。
もし、結婚してくれたら、財産を半分やる!なんて言っていてね。
だから、私に取って貴方は必要だったの。
高校を卒業するまで、必死に英才教育してきたのに、ここまで来て、全部台無し。
私は、貴方を少し見くびっていたわ。優秀で忠実な犬だと思ったのに」
呆れた女の言葉を聞いて、私はもう、殺してしまおうかと思い、割れた食器を手に取って女を刺そうとすると、突然、リビングの方から煙が上がっている事に気がついた。
「ああ、煙草の火ね。この家と共に、私と一緒に消えましょう」
奥で火が激しく燃えてきて、煙が濃く、私は逃げようとすると、足に激しい痛みを感じて、足元を見ると、女が私の足を割れた食器で刺していて、私はその場で倒れてしまった。
「痛い。やだよ、死にたくない」
火が段々と私の方に近づいてきて、私はこのまま死んでしまうのかと思うと、涙が止まらなくて、叫んだ。
「誰か!助けて!」
「ふふ、無駄よ。誰も貴方を助けやしない」
女は、笑みを浮かべながら、私から離れず、私は痛む足を押さえながら、叫び続けた。
意識が朦朧としてきた時、煙の中から人影が見えて、私の方へと近づいて、その姿は、はっきりと、お父様だった。
「結菜。もう大丈夫だ。俺が、結菜をずっと守るから」
いえ、お父様ではない。
私の前に現れたのは、私が愛している志村くんだった。
「志村くん…」
私は驚いて目を見開くが、煙と痛みがそれを難しくしていた。
志村くんは素早く私に駆け寄り、私を抱き上げた。
「逃げるぞ!結菜!」
志村くんは私をしっかりと抱え込みながら、燃え盛る家の中を疾走し始めた。煙が充満する中、息をするのが困難だったが、彼は一刻も早く私を外から出そうと、全力で走った。
一方、女が狂ったように叫びながら追いかけてきた。
「結菜!簡単に運命が変えられると思うか!二人とも死んでしまえ!」
志村くんが女に向かって
「結菜の運命は結菜のものだ!お前が作り上げたこの牢獄は、もうこれで終わりだ!」
そう叫んで、外に飛び出し、新鮮な空気が肺に流れ込んで私は安心した。
外には、警察と消防隊が駆けつけて、救急車のサイレンもなっていて、辺りは野次馬でいっぱいになっていた。
「もう大丈夫だ。言っただろ?俺がずっと守るって」
笑顔を浮かべてそう言う志村くんを見て、私は涙が一気に溢れ出した。
「警察です。結菜ちゃん、申し訳ない。早く気がついていれば、こんなことにはならなかったね」
刑事の黒崎さんが慰める声を掛けた。
「それと、志村くん。君のおかげで、彼女の命は助かった。感謝する」
黒崎さんがそう言うと、志村くんは少し照れ隠しに笑った。しばらくして、消防団に連れられて女が出てきた。
家は完全に消火され、私が18年間住んだ家はあっけなく完全に消え去ってしまった。
女は、黒崎さんに引き渡され、パトカーに乗せられて、最後に女が私を見つめてきた時に、私はゾッとした。
女は、満面の笑みを浮かべていた。
その後、私は病院に運ばれ、深い安堵の感情と共に涙を流し続けた。
志村くんはその隣で、手をしっかりと握り、
「もう大丈夫だ」
と何度も繰り返し言ってくれた。
入院している間、刑事の黒崎さんが何度も訪れ、詳しい事情を聞かれていった。
私は全て正直に話、黒崎さんは慎重にメモを取った。
黒崎さんは優しい眼差しで私を見守りながら、
「君は勇敢に戦った」
と言ってくれた。
一方で、志村くんは私の傍を片時も離れず、私の回復を手助けしてくれた。
私は、彼の存在に深く感謝し、改めて彼への愛を強く感じた。
雨が強く降った日、志村くんは外せない用事があって、席を外していた。
私は志村くんが剥いてくれたりんごを食べながら、窓を眺めていると、病室のドアが開く音がして、黒崎さんだと思い、ドアを見ると、そこには氷室さんが立っていた。
彼女は私を見ると、涙を流して私に駆け寄り、私を強く抱きしめた。
「結菜!心配だった」
「氷室さん、大丈夫だよ」
そう言うと、氷室さんは私のことを見つめて
「よかった」
と言って、微笑んだ。
「あのね、結菜がいない間、学校では色々事件が起こったの」
私の傍に座る氷室さんは憂いな表情を浮かべて、学校で起こった事を語った。
「美結、自殺したんだよ。屋上から飛び降りたみたい」
私は震撼した。
「え?どういう事?」
私が驚いた様子で質問すると、氷室さんは躊躇いながら、
「あれからいじめがエスカレートしちゃってね。まあ、結菜にしてた事が帰ってきた感じなんだけど、耐えられなかったみたいで」
私に対して酷いことをした美結ちゃんだったけど、一年の頃から唯一仲の良かった子だったから、なんだか複雑な気分になった。
「そっか」
私は何も言えなかった。
ここ何日かで、様々なことが起こりすぎて、頭がパンクしそう。
しばらく氷室さんは私を見守ってくれて、病室を後にした。
なんだか、今日の彼女は、寂しそうだった気がした。
彼女が部屋から出て、すぐに、部屋には刑事の黒崎さんがお見舞いのスイーツを持って、訪ねてきた。
「結菜ちゃん、ごめんねこんな時間に。ちょっと聞きたいことがあってね」
黒崎さんは何やら神妙な面立ちで私の隣に座り、
「結菜ちゃん、君には歳が同じ妹が居たことを知っているかい?」
私は黒崎さんの言っていることに衝撃を受け、
「いえ、知りません。初めて聞きました」
と言うと、黒崎さんは表情を変えずに
「実は、君には妹が居てね。だが、父親が一緒で母親が異なる為、異母姉妹なんだ。
つまり、君のお父さんは最初の奥さんとの間に君を授かり、同時期に別の女性との間で子供を授かっていたという事になる」
「あの女が、お父様が浮気をしていたと言っていましたが、まさかそんな事があったなんて。その、妹、は生きているのでしょうか?」
私が質問をすると黒崎さんは困った様子で言った。
「それが、わからないんだ。情報がなくてね。あの女がそう言っていただけで、確証がないんだ。ただ、女が言うには、妹はとても美形だが少し問題があってね」
私は驚きとともに疑問を持ち、
「問題とは…?」
と尋ねる。
黒崎さんは少しの間をおいて、
「性同一障害だったらしい。詳しいことはわからないが、まあ、女の子が好きだったみたいだな」
と応えた。
「後、君に言おうか迷ったが、おそらく、君の父親は生きている」
黒崎さんの言葉を聞いて、私は衝撃を受けながらも、
「でも、あの女は父を殺したと言っていました」
と告げると黒崎さんは、
「いや、あれは女の嘘だった。君のお父さんは、生きている」
私は、何故だか分からないけど、涙が止まらなかった。
お父様は、最低な人だったけど、もう一度、会ってみたいと思った。
「お父様は、どこにいるのでしょうか?」
私がそう言うと黒崎さんは紙にメモを書き始め、私に渡した。
「高校を卒業したら、訪ねてみるといい。だが、一人では行かないように。
君のボーイフレンドを連れて行くといい。
彼は、中々頼りになると思う。もし、何かあれば私にいつでも頼ってくれ」
そう言い残して黒崎さんは病室から出て行った。
黒崎さんが病室を出てから、私は一人ベッドに座り込んだ。
頭の中で情報がぐるぐると渦巻いていた。
「私には妹が…?しかも、その女の子が好きだなんて…」
信じがたい話に困惑しながらも、ふと氷室さんの言葉と行動が脳裏をよぎった。
明日は退院日、退院してからすぐに卒業式だけど、やる事はたくさんある。
妹の存在、お父様の存在、私には少し重荷だけど、志村くんと一緒ならなんだって大丈夫な気がしてなんだか笑みが溢れてきた。
翌日、すっかり外は雪が溶けていて、窓から眺める景色はとても綺麗だった。
もうすぐ桜が咲く頃合いで、私はこれからの未来に向けて覚悟と期待を膨らませていた。
病室のドアを開けて、病院の外へ出ると志村くんが立っていて、私は志村くんにハグをした。
志村くんは優しく私を包み込み
「よくがんばったな」
と言って、私を強く抱きしめてくれた。
二人で手を繋ぎながら雪解けの道を歩き、私は志村くんに、
「今ね、私が何を思っているか当ててみて」
と言うと、志村くんは微笑んで、
「あ!わかった。俺のことが好きだってことだな?」
と私を見つめて言った。
「違うよ?大好きって思ってるの」
と私が言うと志村くんは、
「このやろう!ちくしょう、キスしてやる」
と言って、私の頬にキスをした。
私はこの微笑ましい空間が、とても幸福で、どんな物よりも価値があって、決してお金では買えない時間で、ずっと、大切にしたいと強く感じた。
「ねえ、志村くん。チャーハンが食べたい」
「お、俺ら気が合うね。俺も今日はチャーハンが食べたいって思ってたから、材料買っておいたんだ」
「やった!嬉しい」
「早く帰ろうぜ」
志村くんは無邪気だった。
無邪気な志村くんだけど、私が窮地の時に必ず現れる。
牢獄に閉じ込められていた私を、煙の中から現れて、抱きしめて助けてくれた王子様。
私にとっての愛は、彼だけのものなの。
いつか、彼と結婚して、幸せな家庭をつくりたいの。
でも、もし、彼が浮気なんてしてしまったらどうしよう。
私、正気でいられるのかな。
ううん、そんなこと思わないの。
彼が、浮気なんてするわけがない。
彼の笑顔を見ていれば、分かるもの。
大好きなんです。
例え、私の運命を揺るがすものが現れても、彼だけは離したくない。

志村くんのお家に着いて、志村くんは早速キッチンへ向かって、料理を作り始めた。
キッチンからは初めて志村くんと過ごした日の音色が聞こえてきて、私は幸福を感じた。
キッチンから奏でられる音色、匂い、景色、全てが私にとって心地がよくて、地獄の日々を段々と霧消してくれて、私の記憶に上書きしていく。
私にとって彼のチャーハンは、どんな高級料理よりもおいしくて、私が何年も口にしてきた最悪な食事の味を忘れさせてくれた。
「できたぞ!わるい、ちょっとこげちゃった」
相変わらず彼はフライパンのまま机に持ってきて、お皿を使わずに食べる。
そんなところも、私は好きだった。
家の中で、お皿一つでも体裁を気にする人はいる。
使うお皿一つでも、安物のお皿は一切許さない。
体裁を飾った人を見ていると、中身はきっとスカスカなんだと思ってしまう。
高貴な食器の中身が質素な食事だったあの頃のように。
だからこうやって、飾らない人を見ていると、なんだかそれだけで新鮮で、とても魅力を感じる。
世間から見た特別なんて、私にとっては特別じゃない。
世間から見たら平凡な日常こそ、私にとっては特別なのかもしれない。
彼が作ったこげたチャーハンは、私が食べてきたどんな料理よりも美味しかった。
「志村くんの作るチャーハンって、なんでこんなに美味しいの」
私がつい、言葉にしてしまうと彼は照れていた。
「いつでも、作ってやる」
そう言って、彼はチャーハンを一気に食べて、喉を詰まらせ、私は急いで彼にお茶を飲ませた。
翌朝、いつもより早く目が覚めて、カーテンを開けると光が入り込んできて、それはまるでこれからの私たちを照らすかのようだった。
「起きてたのか」
彼が目を覚まして、私を背後から抱きしめてくれた。
「うん、目が覚めちゃって」
「今日は卒業式だもんな。卒業したら、一緒に青森に行こう」
「約束だよ」
「当たり前だろ?俺は結菜とどこでも行くから」
こんなにも幸せだと感じる朝は、人生で初めてだった。
支度を済まして、二人で学校へ向かった。
道幅の雪が溶け、まるで過去の困難が消えていくかのように、私たちは手を繋いで歩き、途中、咲き始めた桜を見て、新しい人生の幕開けを期待した。
彼は私を学校の校門まで送ってくれて、
「卒業式が終わったら河川敷で待ち合わせよう」
と言って、彼は彼の学校に向かった。
卒業式では校長に長いスピーチを終えて、卒業証書の授与が行われた。
亡くなった美結ちゃんの遺影と共に、美結ちゃんの母親が先に表彰台に立ち、涙を流しながら卒業証書を受け取っており、異名な卒業式となった。
私は、特にこの学校に対して思い出がなかったから、涙もでなくて、早く彼に会いたい一心だった。
今思えば、散々な三年間だった。
私は、ずっと勉強ばかりしてきて、先の見えない将来に対して不安を感じて、本当に楽しいと思えた瞬間は一度もなかった。
そんな時に、志村くんと出会って私の人生は一変した。
あのまま、志村くんと出会わなかった世界線を考えると、恐ろしくて震えてくる。
好きじゃない異性に無理やりキスをされたあの日の気持ちを、毎日感じる事となり、好きじゃない人の子供を授かって、とても、窮屈な人生を送り続ける世界で生きていたら、きっと、自ら命を経っていたかもしれない。
そういえば、氷室さんからされたキスは、不快ではなかったな。
不快どころか、男の子とは違う味がして、なんだか不思議な気持ちでいっぱいだったな。
あれ?なんで私、こんなこと考えてるんだろう。
ふと、周りを見渡すと、氷室さんが私を見つめていた。
氷室さんの眼差しは、なんだか何かを求めているようで、何か大事なものを失ったようだった。
式典が無事終了し、クラスメイトの子達は涙を流しながら抱き合ったり、写真を撮ったり、思い出を共有していて、私は誰とも話さないようにそっと帰ろうとしていると、周りが騒がしい事に気がつき、ふと、振り返ると、クラスメイトの子に向かって美結ちゃんの母親がナイフを向けていた。
「貴方達が美結を殺したのよ、美結が何したっていうの。ねえ、美結に会ってあげて?いいでしょ?」
美結ちゃんの母親にはよくお世話になっていた事を思い出した。
私が、一年の頃にお母さんに耐えられず、家出をした事があった。
その時に、美結ちゃんがお家に招いてくれて、美結ちゃんのお母さんは何一つ嫌がらずに招いてくれた。
あの時、初めて温かい家庭を感じて、このまま、美結ちゃんのお家に住みたいと思った。
あんなにも優しかった美結ちゃんが一つの恋愛感情によって狂わされてしまい、人が変わってしまった。
今、私の網膜に映し出されている光景も、人間が何か大事なものを奪われた時の光景そのものだった。
あの女も、大事な物を私が壊した時に、狂ったように人が変わってしまった。
私も、彼を奪われてしまったら、善悪もつかなくなる程、狂ってしまうのかしら。
「結菜ちゃん、だよね?ねえ、美結はね、きっと寂しいと思うから、会いに行ってくれないかしら」
美結ちゃんのお母さんの目つきは、光がなくて、何もかも失い、自暴自棄になっているように感じた。
私は、抱きしめてあげたかった。
美結ちゃんのお母さんが持っているナイフに目もくれずに、私はただ、歩み寄って行った。
「大丈夫ですよ。何も怖くありません。ほら、私を見て」
美結ちゃんのお母さんは泣き崩れてしまい、私は彼女をそっと抱きしめて、
「どうか、ご自身をお大事になさってください」
と囁き、ただぎゅっと抱きしめていると、パトカーのサイレンがなって、私は誰かに手を取られて、立ち上がると、氷室さんが心配そうな表情をして、私を見つめていた。
私はそのまま、氷室さんに手を引っ張られて、気がついたら河川敷に到着していた。
しばらくの沈黙が続いても、氷室さんは私の手を離さず、私は氷室さんを見つめて、
「どうしたの?何か言いたそう」
と言うと、氷室さんは静かに口を開いた。
「私ね、ずっと、言えなかった事があるの」
彼女の声には微かな震えが含まれていた。
しばらくの間が続き、氷室さんは私をじっと私を見つめて、
「私、結菜のことが好き」
恥じらいながら思いを伝える彼女に、私は困惑した。
「え?それって、友達としてってこと?」
私がそう言うと、彼女は一切の迷いを見せず、堂々と、
「違うよ。恋愛として好きなの」
私は女の子に告白をされることなんてなかったから、なんて返せばいいか分からずに、ただ困惑していると彼女は、
「私、もう、どうしようもない程、好きなの。
結菜を見ていると、何も考えられなくなるぐらいね。
私が、女だから、困惑しているのでしょ?
でもね、私は知っているの。
私と貴方は、運命で結ばれているって」
私は、氷室さんの目を見て、冗談ではないと察した。
私は氷室さんの気持ちが嬉しかった。
でも、私には愛する人がいる。
私は、偏見もないし、もし、彼と出会わなければ、氷室さんの気持ちを受け取っていたかもしれない。
でも、今は、彼でいっぱいなの。
「氷室さん、勇気を出してくれてありがとう。
でもね、私は貴方の気持ちに応えられないの。
私、心に決めた人がいるの。ごめんなさい」
私は、氷室さんに正直な思いを伝えた。
伝えるのは心痛い事だったけど、氷室さんの気持ちが嬉しくて、ちゃんと伝えたいって思った。
氷室さんは、私の言葉を聞いて、下を向いていた。
「でもね、氷室さんとはこれからも友達でいたいの。
氷室さんといると、とても落ち着くし、それに」
私の言葉をさえぎって、彼女は、
「私が妹だから、私の気持ちに応えられないんでしょ?」
と衝撃的な発言をして、私は震撼した。
「妹とは、どういう事なの?」
氷室さんは、笑みを浮かべて、私を見つめ、
「お姉様、私、ずっと貴方の事を見守ってきました」
と急に丁寧な口調になって、私を尊敬するような眼差しで見つめる。
私は、何が起こっているのか理解が出来ずに困惑していると、氷室さんは続けて、「お姉様にすぐにでも抱きしめたかった。でも、それは許されなかった。私は、ずっとこうやって話せる日を待っていたの。あの日、私はこの場所で、お姉様と二人きりになって、もう、我慢の限界でした。お姉様を見ていると、奥底から溢れ出しそうな欲情がいくら蓋で抑えても、溢れてしまって、つい、お姉様の唇を奪ってしまいました。
でも、私はその時に改めて確信致しました。
私は、お姉様の事を本気で愛してしまったのだと。
お姉様、私はもう、本気です。
もう、お姉様がいない世界など、想像が出来ない程、愛してしまいました」
氷室さんは興奮していて、今にも、私に襲い掛かりそうな目をしていて、私は萎縮してしまった。
「まって、落ち着いて?氷室さん。私が姉だなんて、そんな事…」
ふと、黒崎さんの言葉がフラッシュバックした。
「君には、妹がいる」
まさか、そんなこと、ありえない。
私は、氷室さんを見つめて、改めて聞いた。
「え?私、ちょっと分からないけど、本当なの?私の妹って」
氷室さんは微笑んで、
「ええ、本当ですよ。お姉さんのお父様、中条慎二様。
私のお父様です。
慎二様は、生きています。
私は、お父様の居場所を知っています。
全て、真実を知っています。
でもね、今のお姉様には教えられません」
私は、自分の複雑な過程を知って、恐怖を覚えた。
「どうして、教えられないの?」
私が質問をすると、氷室さんは不気味な笑みを浮かべて、
「だって、私のことを愛してくれないから」
そう言った彼女は、飄々としていた。
「青森にいることはしっているので、私は青森に行きます」
と私が言うと、彼女は笑って
「青森のどこにいるかまで知らないんでしょう?
青森は広いんですよ。
私はね、お父様がいらっしゃる住所も、今、何をしているかも知っています。
ねえ、会いたいんでしょう?
会いたいなら、私を愛するしかないの」
と言った。
「でも、私には愛する人がいます」
私が反論をすると彼女は、
「ふふ、その人に何ができると言うの。
お父様と会うのであれば、私の情報が大事ですよね。
どうすればいいか、教えてあげましょう。
お姉様は、私に抱かれればいいのよ」
と私から目線を外さずに言った。
「でも、氷室さん、それは….」
私が何かを言おうとすると、彼女は私の唇を押さえた。
「黙って、私に従って。お姉様の妹として、そして…愛する人として」
彼女の目は暗い欲望と執着で輝いていた。
私はその目から逃れることができなかった。
彼女の手が私の顎を持ち上げ、唇に近寄ってきた。
私は意識が混濁する感覚に陥りながらも、その場を動くことができなかった。
彼女の唇が私の唇に触れると、その瞬間、河川敷の風景は一変した。
彼女は私に強い力でキスをし、そのキスは次第に深く、激しくなっていった。
「私のものになって、結菜。誰にも渡さない。結菜は私だけのもの」
彼女の言葉は冷たくも愛が満ち溢れていて、同時に強い所有欲が滲み出ていた。
私は彼女の強い抱擁の中で、自分がこの異常な関係に囚われていくことを感じた。
だが、その一方で彼女の愛終には抗えない魅力があった。
「氷室さん….どうして….」
私は涙を浮かべながらも、氷室さんの言葉に耳を貸すしかなかった。
「結菜、私は幼い時から貴方を見続けてきた。貴方がどんなに悲しんでいても、どんなに辛いことがあっても、私はそれを見ていることしかできなかった。でも、もう違う。これからは、私が貴方を守るの。絶対に」
彼女の目は決意に満ち溢れていた。
「でも…」
「黙っていたのは後悔していない。ただ、もっと早く言えばよかっただけ。私に勇気がなくて。触れたくても、触れられなかった日々が私を毎日苦しませたの」
彼女は優しくも冷たい手で私の頬を撫でた。
「今はこうやって、触れられる。これからは二人で、何があっても一緒にいるの」
私は彼女の言葉を聞いて、自分の運命が大きく変わり始めていることを痛感した。
そして、彼女の愛がどれほど歪曲されていようとも、その中には確固たる本物の感情があることを理解するしかなかった。
「結菜!」
振り返るとそこには志村くんがいた。
「志村くん!」
私が彼の方へ行こうとすると、氷室さんは私の腕を掴み、私に囁いた。
「だめよ。お父様に会いたいんでしょ?」
私は、戸惑いながらも、腕を振り払い、志村くんの方へ駆け寄ろうとすると彼女が
「もう、お父様は亡くなっちゃうの!」
私はその声を聞いて、思わず固まってしまった。
「え…?」
私が振り返ると、彼女は涙を流していた。
「もう、持って後一年ぐらいかも。早く会わないと、お父さん..」
私は氷室さんの突発的な涙に一瞬心が揺らいだ。
しかし、氷室さんの涙には、どこか不自然な輝きがあった。
それに気づいた瞬間、私の胸に不安が広がった。
「志村くん、待ってて!」
私は一歩前に出たが、氷室さんの手がさらに強く私の腕を引いた。
「だめよ、結菜。本当にお父様に会いたいのなら、私の言うことを聞いて。」
冷たい風が河川敷を吹き抜け、私たちの間に張り詰めた緊張は一層増した。
志村くんは困惑した表情で私たちを見つめるばかりだった。
「氷室さん、もしかして嘘をついているんじゃないの?」
私は疑念を口に出してみた。
氷室さんの目が一瞬、驚きに揺れたが、すぐに冷たい笑みに変わった。
「嘘ですって?そんなこと、ないわ。お姉様のためを思って…」
「本当に、お父様は生きているの?」
私は強い口調で問いただした。
「あなたの言葉を信じるべきじゃないんじゃないかって、思えてきたの。」
氷室さんは一瞬、哀れな表情を見せたが、その後すぐに怒りに満ちた表情に変わった。
「分かったわ。どうしても信じられないなら、いいでしょう。でも、後悔するわよ。お姉様はお父様に会えないまま、死に別れることになるのよ!」
彼女の言葉に一瞬、戸惑う。しかし、その瞬間、志村くんが声を張り上げた。「結菜!君の心に従うんだ。大事なのは君自身の気持ちだ!」
その言葉に背中を押されるように、私は氷室さんの手を思い切り振り払った。
「志村くん、行こう!」
志村くんは私の手をしっかりと握り、私を守るように立ちはだかった。
「結菜をこれ以上惑わさないでくれ。」
氷室さんは冷たい目で私たちを見つめていたが、やがてあきらめたように一歩退いた。
「ふふ、分かったわよ。だけど、必ず後悔するわ。あなたたちの愛など、運命の前では無力なの。」
その言葉の意味は深く胸に刺さったが、私は志村くんの手を握りしめながら、その場を後にした。
私たちは新たな希望を胸に、未来に向かって歩き出した。
どんな運命が待ち受けていようとも、二人で乗り越えていけるはずだと信じて…。
私たちは手を繋いで踏み出した。
氷室さんが見送る中、後ろを振り向かず、未来への一歩を踏み出した。
その時、私たちの心には新たな希望と恐れが交錯していた。


二人が手を繋いで河川敷を後にするのを見送った私は、胸の奥底から溢れ出す衝動を抑えられなかった。
私の足元に転がってきたサッカーボールを見つめていると、遠くから少年が
「お姉さん!ボール取って!」
と無邪気に声を掛けている。
少年よ、私のことをお姉さんだなんて言ってはいけないよ。
私は、強く、美しく、歴とした中条家の次男だ。
氷室という名字が、本当に気に食わなかった。
お父様に捨てられた女の名字だ。
私は、必ず中条という名字を取り戻し、貴族として生きていく。
それにしても、お姉様が惚れてしまったあの志村という男、どこか見覚えがあるけど、思い出せない。
まあ、いいわ。
私もすぐに青森へ行きます。
「君、このボール取ってほしいかい?」
「うん!」
私はボールを思いっきり川に向かって蹴り飛ばした。
ボールは真っ直ぐに川の中に落ちていき、少年は川に落ちたボールを見て、声を荒げて泣いた。
私は、少年を無視して、計画を実行しに向かった。

翌朝、淡い光が窓から差し込む部屋で、鳥のさえずりが聞こえる中、結菜と志村は目を覚ました。目覚めと共に二人は胸に新たな地への期待と未知への不安を感じていた。日常に別れを告げる準備をし、故郷との最後のひとときを惜しむように、ゆっくりとした動作で荷造りを終えた。
「もう準備できた?」
志村くんが私に問いかけた。
私は静かに頷き、その瞳には決意と悲しみの光が混じっていた。
駅には、しばらく会えなくなる友人や家族が見送りに来ていた。故郷に別れを告げる心境は複雑だったが、新しい地での生活に胸がときめくのも事実だった。列車がやってくると、感傷的な情景は一層深まった。
ホームの端で、私は最後に振り返り、すべての思い出を心に焼き付けた。
その手をしっかりと握ってかかとを上げると、彼は力強く引き寄せる。
「もう行こう、結菜。」
その一言で、彼らの新たな旅が始まった。
列車に乗り込み、私たちは新青森駅を目指す。
車窓から外を眺めながら、彼はしばし無言だった。私もその静けさを壊さないよう、ただ同じ風景を一緒に見つめていた。けれども、何度か目が合うたびに、お互いを確認するように微笑みあう。段々と安心感が広がり、私たちは未来に向かって歩むことを改めて決意した。列車は緩やかに揺れながら、青森へと向かっていた。
外の風景が美しい青森の自然に変わっていく中、二人の心情も次第に安定していくのを感じた。
「志村くん、青森の風景ってこんなに美しいんだね。」
私の言葉に、彼は軽く頷いた。
「そうだね、ここで新しい生活が待ってるんだ。」
長い時間電車に揺られて、ついに新青森駅に到着した。
降り立った瞬間、肌を刺すような冷たい空気が二人を迎えた。息を吸い込むと、風には新鮮な雪の匂いが混じり私は深く息を吐き出した。青森の街は静かで、どこか寂しさを感じさせるが、その一方で灯りが点々と並ぶ街並みが温かさをも約束してくれた。
志村くんは、どこか懐かしそうに周囲を見渡している。私は心の底に少し不安を抱えつつ、心に決めた目的を胸に抱きながら、志村くんの横顔を見ていた。
青空は澄み渡っており、白い雪が地面を覆っていた。建物はどこか時代を感じさせる古風な造りで、遠くには津軽地方特有の広大な田畑が広がっている。山々は雪に包まれ、まるで白銀の世界が広がっているかのようだった。
「ここで新しい生活を始めるんだね。」
私は彼と手を繋ぎながら、次第に希望の光を見出していった。新しき地での生活が、二人の未来をどのように変えていくのか、その冒険が始まろうとしていた。
津軽の地に足を踏み入れると、潮風が心地良く感じられる。五所川原市の中心部は、古い街並みと現代的な建物が交じり合い、不思議な調和を見せていた。志村くんは妙に地元のように振る舞っていて、知識も豊富だった。
「この辺りに古い喫茶店があった気がするんだ。確か...あっ、そうだ、あそこだ。」
志村くんが指差した先には、一軒の古風な喫茶店があった。しかし、なぜ彼がそれを知っているのかは不明で、私は少し疑念を抱いた。
喫茶店の入り口には風鈴が揺れており、ドアを開けると店内にはクラシック音楽が流れている。古びた木製のカウンターと、どこか懐かしい香りが漂う。この場所は時を忘れさせるような雰囲気を持っていた。
店内に入ると、木のぬくもりとコーヒー豆の芳ばしい香りが漂い、心地よい落ち着きを感じさせた。アンティークな家具や、壁に掛けられた古い写真が時代を感じさせる。
マスターがカウンターから顔を上げて、ほほ笑んだ。
「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」
彼は一瞬店内を見回し、一見して懐かしさがこみ上げてくるような表情を見せた。「コーヒーを二つ、お願いします。ミルクと砂糖は別で。」
彼が注文を終えると、カウンターに寄りかかって窓の外に目を向けた。その視線には、まるで過去を探るような気配が感じられた。彼は言葉にしないが、この場所が何かを思い出させるのかもしれない。
店内には、常連らしきお客さんが数人。彼らは穏やかな会話を楽しみながら、新聞を読んだり、コーヒーカップを手に語らったりしていた。壁際のテーブルには、一冊の古い雑誌と、一枝のドライフラワーが無造作に置かれていた。
しばらくして、マスターがふたりの前にコーヒーカップを置いた。
「お待たせしました。」
志村くんはカップを手に取り、香りを楽しむように一口飲んだ。
「やっぱり、この味…」
と、低く呟く。自分でもその言葉がどこから出てきたのか分からない様子だった。
「ここ、来たことがあるんじゃない?」
と相手が尋ねる。
志村くんは小さな一瞬の間を置いた後、微笑を浮かべながら首を横に振った。
「いや、ただのデジャヴかもしれない。でも、何故だか懐かしい感じがするんだ。」
彼は不思議そうに志村くんを見つめたが、深く追求せずに話題を変えた。
「さて、次の手がかりをどうするか考えないとね。」
すると、店員が二杯のコーヒーを運んできた。香ばしい香りが漂い、二人は一口目を堪能した。
「おいしいね、このコーヒー」
と私は微笑んだ。
彼はコーヒーを飲んで、一瞬だけ遠い記憶の断片を思い出すような表情を見せたが、そのままさっといつもの笑顔に戻った。
「そういえばさ、志村くんっておじいちゃんが一年前に亡くなったって初めて会った時に教えてくれたじゃない?お家行った時、誰もいなかったような気がしたけど、その、ご両親って」
私がふと思った事を彼に問うと、彼は窓を眺めながら
「いないよ。ずっと、じいちゃんが育ててくれたから」
私は驚いて、つい質問を続けてしまう。
「え!?じゃあ、どうやって生活していたの?だって、高校生だし、お金とかって」
私の言葉を聞いて、彼は複雑そうな表情をして応えた。
「じいちゃんがお金残していってくれたんだよ」
「そうだったんだ。ごめんね、なんか変なこと聞いちゃって」
「いいんだ。今はこうやって結菜と一緒にいられるからさ」
彼の言葉に温かい気持ちがこみ上げてきたが、同時に青森のことや、喫茶店のことについて感じた小さな違和感が胸に残っていた。
喫茶店を出ようとすると、マスターが志村くんの顔をまじまじと覗いて
「はて?貴方はもしかして、ぼっちゃんでしょうか?」
と言うと、志村くんは怪訝そうな表情をして
「ぼっちゃん?店主さん、人違いだと思いますよ。俺、よく誰かに似てるって言われるから」
と言うと、マスターは目を大きく見開いて
「いいや、そんな事はないですよ!ぼっちゃん、突然おじいさまと居なくなってしまって、みんな心配していましたよ」
その言葉に、私は驚いて彼の顔を見つめる。
彼は困惑した表情で、少し考えこんでいた。
私は、真実を探るためにマスターに尋ねる。
「あの…マスター、その『ぼっちゃん』っていうのは誰なんですか?おじいさまと居なくなったって、一体どういうことなんです?」
マスターはため息をつくと、少し懐かしそうな表情で語り始めた。
「昔、この地方でとても有名な貴族がいたんです。志村家という、大地主の家系。ぼっちゃんはその一家の跡取りで、幼い頃からみんなに愛されていました。でも、ある日突然おじいさまとともに姿を消してしまってね。それ以来、誰も行方を知らないんです。」
私は胸の鼓動が高まるのを感じながらも、冷静に質問を続ける。
「その志村家というのは、ここからどれくらい離れているんですか?」
マスターは目を細めて考えた後、指をさして遠くを示す。
「ここから北に少し行ったところに、志村家の古い別荘があります。今はもう使われていないですが、もしかしたら何か残っているかもしれません。」
私はその言葉を聞いて決意を新たにする。そして、彼の過去を探るため、二人でその別荘を訪れることにした。
喫茶店を出た私達は、マスターの言葉に背中を押されるようにして青森の景色を静かに進んでいた。冬の日差しは冷たく澄んでおり、積もった雪が歩道を薄く覆っている。二人の靴は雪を踏みしめるたびにキュッキュッと鳴き、足元を見ると足跡がきれいに残る。彼は何度も後ろを振り返り、マスターの言葉を反芻しているようだった。
「ぼっちゃん、って…俺にはまったく覚えがないんだけど」
彼がつぶやくように言うと、私は少し前を歩きながら微笑んだ。
「もしかしたら、何かの手がかりになるかもしれないよ。マスターがこんなに覚えてるんだもの」
歩き続けると、道は次第に細く、山道に変わっていく。両側にそびえる木々は、その枝に雪を纏っており、風が吹くたびにちらちらと舞い落ちた。空はどんよりとした灰色で、夕方に近づくにつれ、冷え込んでいく。
ついに、古びた別荘が見えてきた。別荘はどっしりとした石造りで、長い間使われていないことが一目でわかる。屋根には厚い雪が積もり、玄関の扉には風雨にさらされた錆びた金具が目立つ。周囲の草木は手入れされておらず、絡み合った枝や枯れ葉があたかも別荘を守るようにして周囲に広がっていた。
「ここか…」
彼は少し戸惑いながら門を押し開け、中へと足を踏み入れた。
私は彼の後に続き、別荘の玄関前に立ち、深く冷たい息をついた。
「こんなに大きいのに、誰も使ってないんだね…」
私がふとつぶやくと、彼は頷いた。
「昔は誰かがここに住んでいたんだろうけど、今はただの古びた建物だ。」
二人は意を決して玄関の扉を押し開け、中に入った。内装は豪奢だったが、埃が積もっており、長い間誰も踏み入れていないことが明らかだった。壁には絵画がかかり、重厚な家具が並んでいる。大きな暖炉もあったが、薪はすっかり灰になっており、火が灯されることはもうないように見えた。
「ここで一晩を過ごすしかないね。」
彼は暖炉に目を向けながら言った。
「外はもうすっかり暗くなっちゃったし、寒さも増していくだろうから。」
二人は手分けして薪を集め、暖炉に火を灯した。
暖かい炎の光が部屋を照らし出し、その中で彼は何気なく古びたアルバムを手に取った。そしてパラパラとページをめくると、見知らぬ女性と一緒に写っている若い彼自身の写真が現れた。
「この写真…」
彼は戸惑いの表情を浮かべた。
「全く覚えがないんだ。だけど、この女性…誰だろう?」
私は写真を見つめ、彼の言葉に耳を傾けた。
「思い出せないのかもしれないけど、何かの手がかりがあるかもしれないよ。」
彼はしばらく写真を見るが、何も思い出せなかった。彼はそれをそっとアルバムに戻し、辛そうな表情をしていた。
「腹減ったな。俺、非常食持ってきたんだ、食おうぜ!」
暖炉の炎が部屋を温かく照らす中、彼と私は古びたカーペットの上に座り込み、彼が持ってきた非常食を広げることにした。非常食の袋を開けると、乾燥したビスケットや缶詰がぎっしり詰まっていた。
「そんなにグルメなものじゃないけど、まあ、腹は満たせるだろう」
と彼が言いながら、乾いた笑いを浮かべる。
「いいよ、こんな状況なんだし、贅沢言ってられない」
私は微笑みながら答える。
彼は小さなナイフを取り出し、缶詰の蓋を慎重に開けた。中から出てきたのは、見た目はあまりよくないが、ツナの缶詰だった。
「はい、これがメインディッシュだ」と言いながら、彼はツナの缶詰を私に差し出す。
「ありがとう」
私は感謝の気持ちを込めて受け取り、小さなフォークでツナを口に運んだ。塩味が効いたツナの味が、少し荒れた味覚を落ち着かせるのを感じた。
彼も自分の分を取り、一口食べると「うん、やっぱりこれ、実際に食べると悪くないな」と言いながら、それから手早くビスケットの袋を開ける。乾燥してカリカリのビスケットを口に入れると、口の中でパリパリと音が鳴る。
「でも、こんなに寒いのに何も飲むものがないと辛いな」
私はビスケットを口に入れながら言った。
「そう思って水、たくさん持ってきた」
彼はそう言って、私に水を渡してくれた。
私達は暖炉の炎の温もりに包まれながら、少しずつ非常食を食べ進めた。お腹が満たされるごとに、体も少しずつ暖かさを取り戻していった。しかし、その夜の寒さは厳しく、外は静かに雪が降り続け、風が窓を叩く音が響いていた。
寒さと疲れが少しずつ押し寄せてきた。暖炉の火はまだ頼りになるが、私の身体は次第に重くなり、頭がぼんやりとしてきた。そして突然、激しい寒気が全身を襲い、体が震え始めた。
「…あれ?結菜、大丈夫か?」
彼が心配そうに顔を覗き込む。
「顔色が悪いよ、具合が悪いんじゃないか?」
無理に笑顔を作ってみせるが、彼の目は本気の心配を映していた。
「うん、大丈夫、ちょっと寒気がするだけだよ…」
しかし、立ち上がろうとした瞬間、足元がふらつき、その場に崩れ落ちそうになる。彼はすぐに駆け寄り、支えてくれた。
「結菜、無理しちゃだめだ。熱もあるみたいだし、これはただの風邪じゃないかも。」
彼は眉をひそめ、何かを考えるように顔を俯かせた。
「分かった、薬を買ってくるから、ここで待っていてくれ。すぐに戻るから。」
「でも…こんな夜中に街まで行くのは危険だよ…」
「大丈夫、俺が行く。君がここで待っていてくれ。」
心配そうに見つめる私を残し、彼は冬の寒空の中へと足を踏み出した。
私は暖炉の近くに横たわり、彼の無事を祈るばかりだった。

俺は結菜が倒れた瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。あの冷たい別荘の中で、彼女の呼吸が乱れ、顔には冷や汗が浮かび上がっていた。そして、俺は即座に決断した。

別荘の玄関を飛び出すと、雪道が待ち受けていた。深夜の闇に包まれた道は、ただ白く輝くばかりで、その先は見知らぬ出口へと続いているようだった。冷たい風が肌を刺し、雪が顔に降りかかるたびに目を細めた。だが、俺は立ち止まることなくひた走り続けた。
息を切らしながら、足元が滑りやすい雪の中を進む。地面は足を取られそうになるほどの深さで、何度もバランスを崩しかけた。木の枝が闇から突然現れ、服を引っ掛けようとするかのように手を伸ばしてくるが、その度に身をかわした。
「絶対に間に合わせる…結菜のために…」
そう強く念じながら、瞼に溶けた雪が冷たく感じる。その時、不意に振り返ると、暗闇の中から巨大な熊がこちらに向かってくるのが見えた。
「くそ!」
思わず呟き、持っていたナイフを構えた。熊は唸り声を上げながら、俺に向かって襲いかかってきた。一瞬の静寂の後、激しい戦いが始まった。熊の鋭い爪が暗闇を切り裂く。しかし、俺も負けじとナイフで反撃を試みた。ナイフは熊の皮膚を切り裂き、血が雪上に飛び散った。
だが、次の瞬間、熊の爪が俺の腕に深く食い込んだ。激しい痛みが全身を貫き、温かい血が雪の上に線を描いた。それでも、俺は退かず、熊の首元に最後の一突きを放つ。熊は唸り声を上げ、そして静かになった。
「結菜…待ってろ…」
腕から血が滴り落ちるが、俺は再び立ち上がり、街へと向かった。痛みをこらえながらも、無駄な時間を費やすことなく歩みを続けた。
ついに、街の明かりが見えた。だが、薬屋の店に到着した時、その店は閉まっていた。目の前のドアを見つめ、絶望が一瞬にして広がる。
「お願いだ、開けてくれ!」
激しくドアを叩く。ガラス越しに微かに灯りが揺れ動くのが見えた。しばらくして、眠そうな顔をした老人がドアを開ける。
「はいはい、なんだ…」
老人は目をこすりながら戸を開け、俺を見て驚いた様子で言葉を漏らした。
「あれ?ぼっちゃん?」
俺は荒い息をつきながら、腕から流れる血を見せつけるようにし、
「お願いだ、結菜のために薬が必要なんだ!」
と叫んだ。


志村くんが急いで出て行く姿を見送り、私は不安で胸が締め付けられる思いだった。彼がいないこの屋敷は、急に広く、そして冷たく感じる。外の風が窓を激しく叩き、恐ろしさが部屋中に広がっていく。
毛布にくるまりながら、震える体を必死に抑えた。志村くんが無事に帰ってくるまで、私何とかしなくちゃ。でも恐怖は、じわじわと心の隙間に入り込んでくる。
突然、外から足音が聞こえた。私はほっとしたのも束の間、足音の主が志村くんではないことがすぐにわかった。その瞬間、ゾッと寒気が走り、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
ドアが強く叩かれ、次に強引に開けられた。暗闇の中で誰かが近づいてくる音が、心臓の鼓動と共鳴するように響いた。私は恐怖で身をすくめ、毛布の中で身を隠した。
「誰…?」
喉から絞り出すような声が漏れる。しかし答えは返ってこない。その誰かの足音がだんだん近づいてくる。
ドアが完全に開き、薄明かりの中でその姿が見えた。それは…。
血の染まったナイフを持った、氷室さんだった。

夜の闇がひたひたと迫り、冷たい風が頬を打つ。
私はその風にすら不快感を感じることなく、ただ心の中に沸き立つ執着と愛に突き動かされていた。結菜への想いは、もはや掌の中に握り締めることさえ不可能なほどの熱を帯びて燃え盛る。
不意に、私の視線が道端の幾つかの足跡に留まった。
それは紛れもなく結菜と志村のものだと勘づいた。
私の心には暴風が吹き荒れる。
「結菜…」
私はひとり言のように呟き、その足跡を追いかけた。
やがて月が空に昇る頃、一人で走る志村の姿が見えた。私の視界は赤く染まり、怒りと嫉妬が彼の内に渦巻く。私は決心した。この男を排除しなければならないのだ。結菜の笑顔を独占するために。幸いにもすぐ近くには、森の中で息を潜める一匹の熊が見える。
私は静かに熊の注意を引きつけ、そのまま志村の方へと誘き出した。熊は嗅覚を研ぎ澄ませながら音もなく進み、やがて志村に向かって猛然と突進した。私は木陰からその場面を見守り、緊張と期待に身を震わせる。志村が倒されるその瞬間を逃さないために。
しかし、志村は予想外にも熊との格闘に勝利し、そのまま何事もなかったかのように道を下っていく。私の心の中に燻る怒りが獰猛に湧き上がり、胸の奥底で刃を研ぐ。私は倒れた熊に近付き、無意識のうちにナイフを取り出し、その体を何度も何度も刺し始めた。
「この役立たずが。そんなにデカい図体して、一人の男も殺められない猛獣は、死んでしまいなさい」
私はナイフで熊の肉を剥ぎ、口に運んだ。
「結菜、待ってて」
志村の足跡を辿って、私は険しい雪道を歩いた。
辺りにいる野生の動物でさえ、今の私には近づきやしない。
私は、強く吹き荒れる吹雪にも負けずに、ただまっすぐ前を歩いていた。
やがて巨大な屋敷が私の前に姿を現す。
「結菜の匂いがする。結菜、早く、あなたの唇に触れさせて…」
私の心は狂おしいほどに打ち震え、その瞳には執拗な愛情の光が宿った。志村の影に汚されたくない、穢されるべきではない純粋な結菜を取り戻すため、私は屋敷の中へと足を踏み入れる決意を固めた。その愛は歪み狂っているが、その強さと深さは他者には理解し難いものだった。全ては私の結菜のために。
熊に引っ掻かれた傷は、決して軽いものではなかった。
それでも俺は、結菜のために動き続けた。
「ぼっちゃん、その傷をすぐに対処致します」
使用人の声が震えていた。
「いい。それより、結菜の薬を早く用意してほしい」
「そう言われましても、どのような具合か見ないと」
「じゃあ、来てくれ!」
「わかりました、では、まずはすぐにぼっちゃんの傷を包帯で巻かせて頂きます」
「おい!ちょっと!」
使用人はすでに手際よく包帯を取り出し、俺の腕に巻きつけ始めていた。
止まらない痛みとは裏腹に、俺の心にはただ一つの事柄がうごめいていた。
結菜を救わねば、という決意だ。
「ぼっちゃん、その結菜という方はどちらに?」
「志村家が住んでいたとされる屋敷だ」
俺が伝えると使用人は嬉しそうな表情をして、
「ああ、なんと感動的な。ぼっちゃん、おかえりなさいませ」
と言って、俺は訳が分からなく、詳しく聞きたかったが、そんなことよりも結菜が心配で、
「いいから、屋敷にすぐ向かおう。車はあるか?」
と伝えると使用人は
「表に、軽トラックがあります!すぐに向かいましょう!」
と伝え、俺と使用人はすぐに屋敷へ向かった。

「氷室さん…どうしてここに?」
私は声を震わせながら彼女を見つめた。
彼女の唇は血で染まっていて、赤く染まったナイフを持っている彼女はまるで非道的な行為をしてしまったかのようで、私は戦慄を覚えた。
「結菜、やっと見つけた。ねえ、こんな所で一人、何しているの?」
「それは、私が体調を崩しちゃって、志村くんが薬を..」
「薬?そんな訳ないわ。彼は、逃げたのよ。熊に襲われてね」
私は、氷室さんの言葉を聞いて震撼した。
震える私から目線を外さずに彼女は一歩一歩ゆっくりと私に近づいてきた。
「結菜、もう大丈夫だよ。私が、側にいるから」
彼女の手が私の頬に触れた瞬間、冷たい指先が体を這うように感じた。その手はまるで蛇のように滑らかで、ひんやりとしていた
「氷室さん、お願い...やめて...」
私は抵抗しようとしたが、彼女の力強い手に押さえつけられた。
「やめる?結菜、そんなこと言わないで」
彼女の声が低く、耳元でささやくように響いた。
その瞬間、彼女の唇が私の唇に押しつけられた。
そのキスは冷たく、残酷で、どうしようもなく撥ね返したかった。しかし、彼女の力は強すぎた。彼女の唇が私の唇を噛むように深く食い込むと、血の味が広がった。痛みと恐怖が私の心を支配した。
彼女の猟奇的なキスは、舌に血の味を覚えさせるかのように濃く残り、とても強い所有欲を植え付けられた。
「結菜、これが私の愛なんだよ...君にわかってほしいんだ、私のこの気持ちを...」
彼女の唇が私の顎から首筋に下りてきた時、私は恐怖で体が震えた。
「お願い...やめて...」
私は心の中で叫んだが、それは空虚な部屋に響かない。
彼女の冷たい手は、私の胸元にまで侵入してきて、私の胸を乱暴に揉み、私は思わず声が出てしまい、反応した彼女の興奮は高まるばかりだった。
「ねえ、結菜。私ね、貴方を私の物にするには一つしか方法がないと思うの」「え…?」
彼女は不気味な微笑みをしながらそう言って、私の下半身へ手を伸ばした。
「それはね、体を支配すること」
「氷室さん、だめだよ?お願い、冷静になって…」
「冷静?そんな誘うような目つきをして、冷静になれないよ」
彼女は、まるで猛獣だった。
私は、何も出来ない草食動物のようで、あの自習室で起こったトラウマがフラッシュバックした。
今の彼女は、女性ではなく、男性のような目つきをしていた。
彼女の手は次第に強引に私の中に入ろうとしてきて、私は必死に抵抗し、最後の力を振り絞って叫んだ。
「志村くん、助けて!」
その瞬間、窓の外から強い光が差し込み、ドアが勢いよく開いた。
「結菜!」
私は安堵の波に包まれ、意識が遠のいた。

使用人の運転で屋敷へ向かっている途中、道端には俺に襲いかかってきた熊が倒れていた。
「ちょっと、車止めてくれ。この熊、なんでナイフで刺されてるんだ?」
「ぼっちゃん、この辺りは熊がよく出ますので、急いだ方がよろしいかと」
使用人が急かし、俺は車に乗ったが、ナイフで切り刻まれた熊が気になって仕方がなかった。
「結菜…無事でいてくれ!」
屋敷に着くと、異様な雰囲気を感じて車から急いで降りて、ドアを勢いよく開けた。
そこには、何故かあの時河川敷で結菜に詰め寄った女が結菜を襲っていて
「おい!何してる!」
と叫ぶと女は笑みを浮かべて言った。
「あなた、逃げたと思ったけど、ちゃんと来たのね」
「お前、何がしたいんだ。結菜から離れろ!」
結菜は、女に抱かれたまま、気を失っていた。
「ねえ、あなたの顔、どこかでみたことがあるのよね。あなた一体何者なの?」
そう言って女はナイフを突き立て、俺の方に向かってくる。
俺は女に向かって一歩を踏み出した。
怒りと焦りが混ざり合った表情が、まるで女を貫くように睨んでいる。女はその瞳に一瞬だけ動揺の色を見せたが、すぐに平静を取り戻し、ナイフを構え直した。
「結菜に触れるな!」
俺の声は冷静でありながらも鋭く、屋敷の中に響き渡った。
女は笑みを浮かべたまま、俺に向かって走り出した。そのナイフが鋭く光を反射しながら迫りくる。しかし、俺の反応は一瞬の隙もなく、まるで風のように滑らかに動き、女の攻撃をかわした。
俺の反撃は迅速で、女の手首をつかみ、その勢いを殺した。ナイフがカランと床に落ちる音が響く。その瞬間、女は俺の目をみて呟いた。
「あなた、もしかして琥太郎…?」

私にとってこんなにも運命に導かれるような出来事は、興奮せざる終えなかった。今、この舞台には役者が全員揃ったようね。 志村琥太郎、彼の家系は過去には権勢と富を誇った地方の有力貴族家系。 その家系が明治時代以降に次第に衰退してしまい、存在を忘れ去られていたけれど、お父様が探していた家系で間違いないわ。 噂では、琥太郎の父がどこかに莫大な財産を隠しているとかね。 ふふ、こうやって巡り会えるなんて、光栄だわ。
「琥太郎くんね、覚えてる?私のこと」
そう言っても彼は怪訝そうで、やっぱり何もかも忘れてしまったみたい。
志村琥太郎の眉が僅かに動いた。その瞬間、私は心の奥底であの忌まわしい記憶が蘇るのを感じた。 子供の頃、武道の大会で誰にも負けたことがなかった私が唯一、無様に敗北した相手。 女みたいな顔をした美少年、だがその拳は鉄よりも重かった――そう、彼こそがあの一家の長男だった。 その名を持つ琥太郎は、今、目の前のこの男と重なり合った。
私はナイフをすっと捨てると、冷えた声で語りかけた。
「あなたが、志村琥太郎ね?」
琥太郎の顔に厳しい表情が浮かぶ。彼は結菜を守るように一歩前に出た。
「何を企んでいるんだ。結菜から手を引け。」
私は薄笑いを浮かべて言った。
「降参するわ。ごめんなさい。ねえ、貴方、彼女のお父さんを探しているのでしょ?私も協力させて」
琥太郎の眼が警戒を緩めることなく私を見つめる。しばらくの沈黙が続いた後、彼は静かに頷き、結菜を守るように立ちはだかった。
私の心中に湧き立つ興奮と期待。
運命の糸が複雑に交錯し、いよいよ物語が始まる瞬間が私を最高に興奮させた。

段々と俺の中の記憶が蘇ってきているような感覚を覚えた。
結菜がこの女のことを「氷室」と言っていったから思い出せなかったが、今、こうやって拳を交えた時に、彼女の俊敏かつ華麗な動き、華奢な体からは想像出来ぬ程、重い蹴り、女だと思って舐めて掛かった男はみんな瞬殺されていた。
「お前、中条奈緒か?」
俺が問うと、彼女は静かに微笑んで言った。
「ええ、そうよ。やっと思い出したのね」
彼女は俺の方へゆっくりと近寄ってきた。
「琥太郎くん、どこまで覚えているの?」
「今、お前のことを思い出しただけで、後は何も覚えちゃいない」
俺がそう言うと、彼女は真剣な眼差しで問いかけてきた。
「そう。琥太郎くんは結菜のお父様を探しているんだよね?どう手掛かりは」
「いや、何も。それより、お前は何を企んでいるんだ?」
「何も企んでいないわよ。ただ、結菜のことを愛しているだけ。妹としてね」
「お前、何か知っているのか?」
「ええ、全て知っています。だから、協力するの。お姉様のためにね」
俺は仕方なく、中条奈緒に協力することにした。
「お父様はここからまっすぐ行った山道の奥に建てられた小屋に住んでらっしゃるの。ただ、山道は険しく、熊や山賊が度々襲ってくるから、今の状態のお姉様を連れていくのは困難だわ。
山賊は、二人で協力すれば倒せるかもしれないけど、熊が厄介だわ。
貴方はたまたま倒せたかもしれないけど、次はそうはいかない」
「熊?なんでお前が知っているんだよ」
「ふふ。試しただけよ。貴方が本当にお姉様を守れるかをね」
「ふざけるな。お前はやっぱり信用できない」
「じゃあ、どうするというの?二人で、険しい道を越えられるかしら」
「それは…」
「ふふ、良い子ね。あのね、まずはお姉様の体調が治るまで看病しましょう。それで治ったら、貴方が連れてきたあの使用人の車を借りて、行けるところまで車で進むの。あとは、歩けばいい。
ただ、車を降りてからの道はとても険しいわ。
武器や食料は、多めの方がいいわね。
今のうちに、貴方は貴族という名を利用して街にいって食料や武器を調達してきてちょうだい。その間、私がお姉様を看病致します」
俺は、彼女を完全に信頼したわけではないが、今は彼女に従うのが賢明な判断だった。
「わかった。ただ、結菜に何かしたら、容赦しないからな。それと、この薬を結菜に飲ませてやってくれ」
「お姉様に私が危害を加える訳ないじゃない。貴方こそ、私の足を引っ張らないようにね。薬ね、わかったわ」
俺は彼女に薬を渡し、それから使用人と街へ戻り、食料や武器を調達することに成功した。
「ぼっちゃん、その、山奥には何をしに行くのでしょうか?」
「人探しだよ」
「あそこは今、熊が腹を空かせて人を襲っていてとても危険です。
ただ、ぼっちゃんがどうしても行くというなら、私、すぐに助けに行けるよういつでも準備していますので、どうか、この電話をお持ちくださいませ」
「ありがとう。なあ、貴方はどうして俺にここまでしてくれるんだ?」
「それは、私は幼き頃のぼっちゃんをずっと見てきましたから」
「そうか、何も思い出せなくて悪い。よし、車を貸してくれ」
俺は使用人の車を借りて屋敷へと戻った。
途中、街では怪しい仮面を被った人物達がこちらを観察するかのように見ていて嫌な予感がしたが、先を急いだ。

暗闇の中でぼんやりと目を覚ました私は、ひどく目がしみた。頭の中ではまだ夢と現実が交錯していた。隣には氷室さんがいて、彼女の姿を見た瞬間、驚きの表情を浮かべた私に、彼女は涙を流しながら言った。
「ごめんなさい、お姉様。本当に酷いことしてしまって。でも、私ね、お姉様にどうしても私の愛をわかって欲しくて….」
「そうだったのね。大丈夫、私もちょっと誤解してたみたい」
「お姉様、それより、この薬を飲んでくださいませ。彼が、取ってきてくれたの」
「志村くん、あれ?志村くんはどこ?」
「街へ食料を取りに行ってくれているわ」
私は氷室さんが悪い人じゃないと悟った。
そして、静かに問いかけた。
「ねえ、氷室さん。貴方が私の妹って本当なの?」
彼女は真剣な眼差しで私の目を見つめた。
「はい。お姉様。ずっと、お姉様に触れたくて、でも触れられなくて、私暴走しちゃいました」
「ごめんね、私、信じられなくて。奈緒ちゃん、私の可愛い妹」
私は氷室さん、いえ、私の可愛い妹の奈緒ちゃんをしっかりと抱きしめて、自分の疑心暗鬼を反省した。
「お姉様、私、ちゃんと協力しますから。一緒に、お父様の所に行きましょう」
「ええ、でも、お父様はどこにいらっしゃるの?」
「ここから真っ直ぐ行った場所の山奥の小屋です。でもね、お姉様。悲しいかもしれないけど、お父様は変わってしまったの。私を捨てて、お姉様を捨てて、その後また新しい女を作って青森に逃げて行ったの」
「え?私、捨てられたの?どうして、お父様がそんなことを」
「それはね、私達が女だったから。お父様はね、男の子が欲しかったの」
私はその言葉を聞いて涙を流した。
「お姉様、今更かもしれないけど、私達を捨てたお父様に会う必要あるのかな。お父様なんて、もういいじゃない。私と一緒に、中条家の血筋をなんとしてでも残しましょう」
「でも、お父様に直接聞いてみたいの。なんで私を捨てたのか」
私が決意を表すと、奈緒ちゃんは憂いな表情を浮かべて言った。
「わかった。お姉様がそこまで言うなら、会いに行きましょう」
しばらくして、ドアが開き、荷物をたくさん持った志村くんが帰ってきた。「結菜!大丈夫か!」
「お姉様なら大分良くなったみたいです。ちゃんと薬も飲ませておきましたよ」
と奈緒ちゃんが答えた。
「そうか、ありがとう。じゃあ、準備をしてその、お父さんがいる小屋とやらに向かおう」
志村くんがそう言って準備を始めた。
「彼、結構やるじゃない。お姉様、このコートを着てください。山奥へ進むにつれて寒さが増してきますので」
そう言って、奈緒ちゃんは私に分厚い毛皮のコートを着せてくれた。
「よし、こっちは準備できたぞ!車に乗ってくれ!」
私達は志村くんの運転する車に乗って、屋敷を後にした。
「そういえば志村くん、免許持っていたの?」
私が彼に尋ねると、彼は微笑して言った。
「ああ、持っていないぜ。まあ、大丈夫だろ!俺、じいちゃんの軽トラよく運転してたし」
「ちょっと、危ないじゃないの」
奈緒ちゃんがそう言って、車内は笑いに包まれた。
「まっすぐ進んで、途中で左へ曲がって。その先にある橋を渡ったら山道に入るわ」
と奈緒ちゃんが道を指示してくれる。
車はどんどん山奥へと進んでいった。しかし、しばらく進むに連れて、道を遮るかのように土木が倒れていた。
「これじゃ、進めないわ」
私が不安の声を漏らすと、奈緒ちゃんが言った。
「ここからは、歩きましょう。お姉様、安心してください。私が守りますから」
辺り一面が白銀の世界に包まれ、足跡がすぐに消されていく様子は、まるで彼らの存在をも否定するかのようだった。雪山の道はまるで白い壁の迷宮だ。木々は霜に覆われ、まるで白く輝く彫刻のように立ち並んでいる。風が冷たく頬を刺し、吐く息は白く立ち上った。
志村くんは私を軽い笑顔で安心させるために手を握った。奈緒ちゃんが先頭を歩き、注意深く小屋への道を指し示す。進むたびに冷たい風が顔に突き刺さり、雪が舞い上がり視界を奪う。まるで幻想の世界に迷い込んだかのように、木々は白く輝く彫刻となり、吐いた息は白く雪の中で消えていく。
雪道を進むたびに体力が削られていくが、奈緒ちゃんが
「この先に小屋があります。あと少しです」
と励ましてくれた。私達は恐怖と不安を感じながらも、一歩一歩進んでいった。
すると急に、奈緒ちゃんが私達に囁いた。
「待って、前から誰か来る」
薄暗い雪山の道に、黒い影が複数現れた。彼らは仮面をつけており、息を潜めてこちらに近づいてきた。
「お姉様、用心して」
と奈緒ちゃんが低い声で告げる。
数人の仮面の連中が一斉に私達に向かって襲いかかってきた。
「結菜、後ろに下がって!」
志村くんが私の前に立ち、敵と戦い始めた。奈緒ちゃんも素早く動き、敵の攻撃をかわしながら反撃した。しかし、次第に押され始める。
「このままでは全員やられてしまう…]
と焦りが募る。
絶望が漂う一瞬の後、奈緒ちゃんが前に立ち、声を張り上げた。
「琥太郎くん、お姉様!今すぐ逃げて!」
「だめよ!貴女だけ置いて逃げれないわ!」
私が涙を流しながら嘆いたが、奈緒ちゃんの決意は固かった。
志村くんも驚くが、奈緒ちゃんの決意を感じ取り、私の手を強引に引いてその場を離れた。振り返ると、奈緒ちゃんが数人の敵と対峙し続けていた。その姿は、私達を守るために全力で戦う天使のようだった。
雪山の道をさらに奥へと駆け抜け、私は心の中で祈り続けた。
「奈緒ちゃん、どうか無事でいて」
雪が深く足元を重くする。志村くんが何度も振り返りつつ、前に進むたびに木々が鬱蒼と茂る道を選んでいく。吹雪は強まり、視界が一層不明瞭になっていく。その中で、ふたりは必死に小さな光を求めて進んだ。
そして、ようやく小さな木製の小屋を見つけた。
「ここだ!」
志村くんが叫び、ドアを力いっぱい押し開ける。二人はすぐに中に飛び込み、ドアを閉めた。
小屋のドアを開けると、暗い内部が静かに私たちを迎えた。中に滑り込むと、急いでドアを閉め、息を整える時間もないまま椅子やテーブルを動かしてバリケードを作り出した。
「ここなら少しは時間を稼げるかもしれない。」
志村くんが言い、うなずいた。その瞬間、目の前にあるものに気付いた。
薄暗い照明の中、椅子に縛られている人影。
それは、私が一生忘れられない光景だった。
血で染まったお父様の無惨な姿が、私の網膜に映し出された。
「お父様!」
心が凍るような絶望感に襲われ、膝から崩れ落ちた。志村くんも同様に驚きの表情を浮かべていた。何故ここにお父様がいるのか、お父様は明らかに亡くなっていた。
しかし、考える暇もなく、背後から足音が聞こえてきた。
仮面の集団が休む暇もなく私達の元へ現れた。
「くそっ、逃げろ!」
志村くんが叫び、私を連れて裏口へ向かおうとしたその時、力ずくでドアが開かれ、仮面の男たちがなだれ込んできた。
「逃げられない…」
志村くんが必死に抵抗しようとしたが、多勢に無勢。
私は恐怖に立ちすくみ、動けなかった。
「結菜、しっかりしろ!」
と彼の叫び声が聞こえた瞬間、頭に強烈な痛みが走り、意識が朦朧としていく。
「志村…くん…奈緒ちゃん…」
視界がぼやけていく中、志村くんも同じように意識を失ったのを感じた。
暗闇がすべてを包み、私は無意識のうちに深い眠りへと引きずり込まれていった。

私が目を覚ますと、冷たい石畳の上に横たわっていることに気づいた。薄暗い牢屋の中で、頼りない月明かりが細く差し込んでいた。鉄の檻に閉じ込められ、周囲は静寂に包まれている。ただ、遠くから断片的に聞こえてくる囁き声が、私の不安をかき立てた。
しばらくの沈黙の後、幾つかの重い足音が響き渡り、私は身を起こした。扉の向こうに複数の影が浮かび上がる。その瞬間、扉が無造作に開かれ、幾人かの仮面を被った男たちが現れた。彼らの中心には、一人の仮面を被った女性が立っていた。その姿からは圧倒的な存在感が漂い、男たちのリーダーであることは一目瞭然だった。
男たちは私を無理に引きずり出そうとしたが、女性が静かに手を上げて彼らを制止した。そして、冷たい声で言った。
「大事に扱いなさい、お姫様よ。」
その声に、私はかすかに反応する。どこかで聞いたことのある声だった。
私はそのまま目隠しをされ、手荒に連れ出された。暗闇の中、恐怖と混乱に包まれる。車に押し込められ、しばらくの間、揺れる車内で時間が過ぎていった。その間、誰かがそっと私の手を握り、軽くキスをした。唇に触れた感覚は、どこかで経験したことのある甘い味だった。この感覚が私の心の奥底にある過去の記憶を引き出し、私はさらに混乱した。
車が止まり、数人の男たちによって私は降ろされた。手荒な扱いにも関わらず、誰かが常に彼女の手を優しく握っていた。その安心感とともに、聞き覚えのあるおじさんの声が耳に届いた。
「傷を一つもつけていないな。」
私の目隠しが外されたとき、視界を支配したのは神童家の主人の冷たい眼差しだった。その隣には、仮面を被った女性が立っていた。女性が仮面を外すと、そこに現れたのは奈緒ちゃんだった。
「やっと、お姉様、いえ、結菜様と結ばれることができるのですね」と、奈緒ちゃんは微笑みながら言った。
しかし、神童家の主人は冷淡に彼女に向き直り、無感情に言い放った。
「ご苦労だった。中条奈緒。だが、もう君は用済みだ。」
その言葉と共に、主人は容赦なく奈緒の腹に銃を突きつけ、引き金を引いた。銃声が轟き、奈緒の体が無力にその場に崩れ落ちた。私は絶望と恐怖に固まったまま、何もできなかった。
神童家の主人は冷淡な眼差しを向け、涼しげに告げた。
「志村は私たちの手の内だ。彼の命が惜しければ、私の息子、翼と結婚しろ。」
その言葉は私の心に鋭い寒気をもたらした。志村くんのことを思うと、自分の選択の自由はもはや存在しないとも感じた。自分の運命が誰かに決められるという無力感が、全身を覆った。
私は内心の迷いと苦悩をかき消すように深く息を吸い込んだ。私の瞳には涙がにじんでいたが、それでも私は必死に口を開けた。
「分かりました…わたし…結婚します。」
その瞬間、私は自分の心が何か重い鎖で縛られたような感覚に襲われた。
志村くんを救うため、私は自分の未来を犠牲にすることを決意したのだった。
「そうか、そうか!結菜くん、君は本当に素晴らしい子だ。結婚式は一週間後に挙げることにしよう」
「でも、その前に、最後に志村くんに会わせてください」
主人は冷酷な目つきをして、何か考えてから言葉を発した。
「いいだろう。おい、結菜くんを連れて行け」
志村くんの元に連れて行かれると、彼は拘束されていた。その姿を見るだけで、私の心は痛みで裂けそうだった。私は涙を拭い、心を強く持ち、笑顔を作ろうと努力した。
「志村くん、会えてよかった…」
心の内では、震えと苦しみが今にも溢れ出してしまいそうだった。でも、絶対に涙は見せないと決めていた。私は深呼吸をし、震える声で言葉を続けた。
「志村くん、今までありがとう。本当に、いろいろとお世話になったよね。たわいもない話をして笑ったり、一緒に悩んだり、まるで夢のような時間だったのに…」
私の視界が滲んでいく。涙が溢れそうになるのを必死にこらえながら、どうにか続けた。
「それでね、わたし…結婚することにしました。神童家の翼さんと…」
その名を口にすると、胸が締め付けられるようだった。それはまるで、自分自身に対する裏切りの言葉。
「安心してね。翼さん、とっても素敵な人なの。貴方よりも…とても優しくて…その…」
自分の言葉に自分が呆れてしまう。それでも、これが最後だからと、必死に言葉を続けた。
「だから、志村くんは心配しないで。私は幸せになるから。神童家の人たちとも、きっと上手くやっていけるわ…」
どれだけ自分に言い聞かせても、心の中では叫びがくすぶり続けていた。志村くんとの別れ、そして希望のない未来。それは私にとって、生きる意味を失うようなもの。
「お元気で、志村くん。あなたのことはきっと忘れない。さようなら…」
とうとう、押さえきれなかった涙が頬を伝い落ちた。志村くんを救うために、自分の全てを犠牲にする覚悟を決めた瞬間だった。でも、それが彼のためだと信じるしかなかった。
私は振り返らず、ただ涙を拭いながらその場を去った。そして、自分の選んだ運命に直面する覚悟を再度決めたのだった。
私が部屋に案内されると、そこには久しぶりの翼くんがいた。母に無理やり神童家に連れて行かれたときに出会って、帰り際に手のひらにキスをしてきたことを思い出して鳥肌が立った。
彼は私を見ると、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「結菜さん…久しぶりですね。」
その言葉に私は少しだけ安心した。
以前の彼と何も変わっていない様子だったからだ。
「はい、お久しぶりです。」
私はぎこちなく返事をした。
部屋に案内された時、私の目に飛び込んできたのは、豪華なインテリアと贅を凝らした家具。
だが、それらの煌びやかさが一層、私の心の中の空虚さを際立たせるだけだった。 「結菜さん、どうぞお座りください。」
翼くんは私に座るよう勧めた。私は示された椅子に腰を下ろした。
「あの時から、僕はずっと結菜さんの美しいお顔を忘れられませんでした」
翼くんは恥じらいながら私に呟き、私は苦笑して、
「そうですか…」
と返答するしかなかった。
「結菜さん、元気ないですね…」
翼くんは、あの主人とは違って心が優しい子なのね。
でも、私はやっぱり貴方と結婚をするなんて、耐えられない。
その後、日々の生活が始まり、翼くんの部屋で過ごすことになった。彼は毎日のように私を気遣い、積極的に話しかけてきたが、無理をしているのか、それとも本当に優しいのか、私には判断がつかなかった。
ある日、私が庭で花を眺めていると、翼くんがやってきた。
「花が好きなんですね、結菜さん。」
「はい、特にこのバラの花が…」
と私は小さく答えた。
「僕もバラが好きです。」
彼は微笑んだ。
「それに、花を見ていると、心が落ち着くんです。」
そんな彼の言葉を聞いて、私は一瞬だけだが、彼の存在に対して心を開きかけた。しかし、その直後に今日の約束された結婚という現実が再び心に重くのしかかってきた。
夜、翼くんが夕食を共にした際、突然キスを求めてきた。しかし、私は彼の顔が迫ってくるのを見て、反射的に後ろに身を引いてしまった。
「ごめん…」
翼くんは顔を赤らめて頭を垂れた。
「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ…」
その姿を見て、私は彼の不器用さとどこか純粋な部分に感じ入るものがあった。
日々の生活の中で、翼くんの小さな優しさが次第に目についてきた。朝、私が目覚めると必ず紅茶を入れてくれたり、散歩の時には風の強い日は私の帽子が飛ばないようにそっと手を添えてくれたり。彼の行動の一つ一つが、私の心を少しずつ温めていった。
しかし、志村くんのことが気になる私の心は、依然として鎖に縛られたままだった。彼はどうしているのだろう、元気にしているのだろうか、そんな思いが夜毎私の頭を巡った。
そして、ついに結婚式の日が来た。私は豪華な白いドレスを身に纏い、全く気持ちが乗らないまま鏡の前で立っていた。外の鐘の音が響き、式の始まりを告げた。 教会の扉が開くと、翼くんが待っていた。彼もまた緊張している様子だったが、どこか決意を帯びた表情をしていた。
神父が儀式の言葉を述べる中、私の心はただ志村くんのことでいっぱいだった。
「誓いますか?」
という問いかけに、私は一瞬戸惑ったが、周りの視線を感じて
「誓います」
と震える声で答えた。
翼くんの手を取ると、その瞬間に彼の手の温かさが伝わってきたが、それでも全てが空虚に感じられた。祝いの鐘が鳴り響き、人々の拍手が教会内に響き渡ったが、私の心はその騒音から隔絶されていた。志村くんの姿を思い浮かべ、その瞬間が一刻も早く終わることを願った。
「では、誓いのキスを」
その瞬間、翼くんの唇が私に迫ってきた。 私は、迫り来る嫌な運命に身を震わせて、息を飲んで覚悟を決めた次の瞬間、ドアが一気に開いた。


暗闇の中で俺はふと目を覚ました。意識がぼやけているが、返してくる記憶の断片が全くその繋がりを持たずに存在する。ここがどこかも分からない。ただ、手足を動かしてみると、狭い空間に閉じ込められていることが分かった。頭上に触れる冷たい鉄格子の感触がその感覚をより鮮明にさせ、心底恐怖が胸の中に広がった。この無力感、この絶望。出口の見えない闇が、俺を淵へと引きずり落とそうとしている。
そして、その静寂を突き破るように聞こえた声、それは結菜の声だった。彼女を愛していた俺にとって、その声は救いであり、そして絶望の使者でもあった。俺の心は音を立てて崩れ去った。希望が完全に消失し、魂が瓦解するその瞬間、俺はただ、暗闇の中で身を縮めるしかなかった。瞳を閉じても閉じた先に浮かぶのは、絶望的な今の状況だった。
どれだけの時間が経ったのか、俺には分からなかった。体は冷たく、心は虚無に包まれ、あらゆる希望が消え失せたかに思えた。それでも、何かが俺を起こし、呼び戻そうとする。その存在が現れるまで、俺はただ無意味な時間を過ごしていた。
突然、ドアが軋む音が響いた。頭をゆっくりと上げると、そこに立っていたのは氷室奈緒だった。彼女の目には何か秘めた決意が宿っていた。彼女は一歩寄ってきて、低い声で言った。
「貴方にしか、運命を変えることはできない、今からいう場所に行って、お姉様を救って!」
その言葉が俺の命を再び燃やした。檻が開けられ、薄暗い廊下へと足を踏み出す。氷室奈緒の指示に従い、急ぎあしで進んでいく途中、様々な刺客が俺を狙って現れた。彼らは一瞬の隙を狙って攻撃を仕掛けてくる。
一人目は黒い服を着た男。鋭いナイフを振るい、俺に襲いかかってきた。狭い廊下の中で、その刃を何とか避け、肘打ちで彼の顔面を狙う。男が倒れる音と共に、俺は再び走り出す。次に現れたのは、銃を持った二人組。発砲音が鳴り響き、弾丸が壁にめり込む音がする。跳び箱のように身をひねりながら弾を避け、壁際に隠れて一息つく。ここで立ち止まるわけにはいかない。チャンスを見計らって飛び出し、銃を握る手を捉える。銃口を反転させ、二人を相次いで制圧する。
全身が鋭く痛み、汗が背中を伝う。それでも足を止めることはできない。時間は限られている。次々と現れる刺客たちを何とかかわし、道を切り開いていく。大きな扉の前へとたどり着いたころ、俺の視界に飛び込んできたのは刑事の黒崎さんだった。
「貴方は、あの時の…」
「志村くんだね、君はどこに行こうとしている?」
黒崎さんは冷静な表情で言葉を投げかけてきた。
「結菜が連れ去られたんです! 刑事さん!一緒に、結菜を…」
俺は息を切らしながら訴えた。
その瞬間、黒崎さんの無情な瞳が俺を射抜いた。彼は静かに銃口を俺に向けた。
「君は、ここで死んでもらう」
その言葉が脳裏に響く瞬間、俺の体は自動的に反応していた。弾けるように身をひねり、その弾道から逃れ、瞬時に反撃の構えを取る。黒崎さんの銃から放たれる弾丸が周囲の物に当たり、散らばる音が混じる。俺は一瞬の隙を突き、黒崎さんに飛びかかる。彼は堂々と受け止め、近接格闘が始まった。
彼の動きは鋭く、的確だった。何度も蹴りを放ち、拳を繰り出す。その度に俺は身体をひねり、防御を固め、反撃の一撃を狙う。数分にも感じられる戦いの中で、呼吸が荒くなるのを感じた。それでも俺は諦めない。結菜を救うために、この最後の障害を乗り越えなければならないのだ。
最後の一撃で、俺は全力を振り絞り、黒崎さんの動きを封じることに成功した。彼の拳をかわし、その頬に強烈な一撃を打ち込んだ。黒崎さんは無情な眼差しで倒れ、そのまま動かなくなった。
息を切らし、心拍が速くなる中で、俺は足を再び動かし始めた。もうすぐだ、結菜を取り戻すために、俺は結婚式会場へと向かった。周囲の風景がぼやけていく中で、俺の決意は揺るがなかった。この運命を変えるのは、俺しかいないのだから。


結婚式場の華やかな装飾と、それに相反する私の心の中の混沌。煌びやかなシャンデリアが輝く中、その下には見知らぬ客たちのざわめきが広がっている。それぞれが普段着ないような豪華な衣装に身を包み、笑顔を浮かべているが、私の心は重く沈んでいた。
ドレスの重みが肩に食い込む感覚すら感じられないほど、私は呆然としたまま立ち尽くしていた。目線の先には、まるで異質な存在として浮いた主人が立っていた。彼の眼差しには微塵も慈悲がない。どうしてこんなことになったのか、私には理解できない。
その時、扉が勢いよく開かれる音が響いた。一瞬、全てが静寂に包まれた後、再び騒然とした空気が会場を覆い尽くした。入ってきたのは志村君、彼の荒い息遣いがはっきりと聞こえるほどの距離で私を見つめていた。私の心が少しだけ希望に染まる。
「結菜!」
彼の叫びが、どうしようもない運命に抗おうとする心の叫びのように響く。
けれど、その瞬間、主人の指示に従って黒服の男たちが襲いかかってきた。私はその光景をただ呆然と見ていることしかできなかった。だが、予想もしなかった救いの手が延ばされた。翼君だった。
「お父様!良い加減にしてください。もう、結菜さんの悲しむお顔を見たくないです。結菜さんは、好きな人と結ばれるべきだ!」
彼の声が会場全体に響きわたった。
翼君が父に襲いかかると、会場は更に混乱し、叫び声や驚きの声が飛び交った。志村君が私の手を強く握りしめ、
「行こう、結菜!」
と強い意志を持って引っ張ってくれた。
黒服の男たちが追いかけようとするが、翼君が彼らを捕まえ、
「いけ!結菜さん!幸せになって!」
と力強く叫んだ。私の胸が深く感謝で満たされ、涙が止まらなかった。それでも、志村君の手を離さず、ただひたすらに走った。
心臓が激しく鼓動を打つ中、風が顔を切るように感じられたが、私は彼の手の温かさだけを頼りに進んでいった。周りの騒然とした音も、どこか遠くで響くように感じられた。
「ありがとう、翼君…」
走りながら、彼の姿が遠ざかる中で私は心の中で感謝を繰り返した。そして、隣には変わらず志村がいた。彼がいる限り、私はどこまでも走り続けられると思えた。
結婚式の鐘の音が小さく遠ざかり、私たちは暗い森の中を全速力で走り続けた。志村くんの手を握りしめ、息を整えることなくただひたすらに前に進んだ。月明かりが木々の隙間から薄く漏れるだけの闇夜、足音すら心臓の鼓動にかき消されそうだった。背後に追っ手がいる気配に怯えながら、私たちの唯一の望みは自由だった。
しかし、その自由は突然、銃声とともに断たれた。振り向くと、そこには氷室奈緒が立っていた。彼女の顔は冷酷な笑みを浮かべ、その手には邪悪な意図を告げる銃が光っていた。
「無事だったのか…」
志村くんがかすれた声で問いかけた。
「奈緒ちゃん、良かった」
私も彼に続けて彼女の無事を祝っていると、彼女は不気味な笑みを浮かべた。
「私ね、どうしてもあんなブサイクな男とお姉様が結ばれるのだけは許せなかったの。だから、私に銃弾をぶつけてきたあの憎たらしい男を先程、始末してきましたの」
「始末?どういうことだ?」
志村くんが怪訝そうに彼女に尋ねると彼女は笑いながら言った。
「ええ、貴方達の騒動に紛れて始末しましたの。それと、あのぼっちゃんもね」
「ぼっちゃんって、もしかして、翼さんのことを言っているの?」
私は彼女に薄氷を踏む思いで質問をすると、彼女は私を見つめて答えた。
「ええ、そうよ。私はお姉様を汚した彼を処分しただけです」
私は、彼女の言葉を聞いて、あの瞬間がフラッシュバックした。
「結菜さん!幸せになって!」
汚したなんてとんでもない、あのお方は、私達を救ってくれた。
そのお方を、彼女は殺してしまったというの。
私は、その場で泣き崩れてしまった。
「おい!殺す必要なかっただろ!」
志村くんが彼女に問いただすと彼女は急に銃口を向けて叫んだ。
「近寄るな!ねえ、お姉様の為にやったのよ?なんで、私を責めるの」
「落ち着け!銃を下せ!」
「うるさい!」
彼女が撃った銃弾は志村くんの肩に向かって飛んでいき、志村くんの肩から血が噴き出した。
「志村くん!」
私が志村くんのところに駆け寄ろうとすると、彼女は銃を私に向けた。
「ダメよ!彼に近づかないで!いい?お姉様。私の所に来なさい」
彼女の言葉に、私の心は絶望と恐怖に染まった。逃れることができない運命に押しつぶされそうになりながら、私は志村くんを助けなければいけないと自分に言い聞かせた。
「奈緒、お願いだからやめて…」
私は彼女に向かって歩み寄りながら、必死に彼女の心を解きほぐそうとする。しかし、彼女の瞳には亀裂が走っており、あの優しい妹の面影はほとんど残っていなかった。
「やめない!いいから、私の方に来なさい!」
奈緒は涙を流しながら震える手で銃口を必死に握って構えていた。
「奈緒、もうやめて…」
私は恐怖と絶望で声が震えた。しかし、何かを得ようとする執念に取り憑かれた彼女は止まらない。
「お姉様、もうこれ以上は我慢できないの…これ以上、貴方と一緒にいるためにはどうすればいいのか、ずっと考えてきた…」
奈緒の声は次第に感情的になっていく。
「あの日、お父様が私を捨てた時から…ずっと恨んでいたの。」
彼女の一言一言に、私の心に重く覆いかぶさるような恐怖が積み重なる。
「お父様…」
私の言葉は完全に詰まり、思い出すままに言葉が出てしまった。
「小屋で話したことは事実なの。私は許せなかった」
奈緒は声を荒げる。
「あの男、私に最後に会った時、私に言ったの。お前は女だから、中条家は引き継がせないって。だから私は聞いたの。青森に逃げて新しい女と男の子でも作る気ですかって。そしたらあの男、私のことを殴ったの。だから、殺してやった」
彼女の一瞬の怒りは、私にとって理解しがたいものだった。
「あなたは…そんなことを…」
私は涙が止まらなかった。
「お姉様、あの女を貴方の母親として送り込んだのもお父様よ。お父様は神童家に逆らえなかったから」
奈緒の顔が苦悩に満ちている。
「彼女は神童家の家政婦だったの。彼らは中条家を乗っ取ろうとしていた。」
「それじゃ、全ては操り人形のように…?」
私は驚きと憎しみで声を唸る。
「そうよ。でも…私はもう神童家とも関係ない。志村家の財産も全て手に入れたわ」
と彼女は荒れ狂うように叫ぶ。
「だから、この男を捨てて…私と暮らそう、結菜。」
彼女の言葉が落ちた瞬間、志村くんは突然驚くべき行動に出た。
余命幾許の痛みに耐え、地に倒れる前に奈緒の手から銃を奪い取った。私が奈緒に駆け寄ろうとした瞬間、志村くんは銃を振り上げ、奈緒を撃った。
「志村君!」私は絶叫し、彼の方へ駆け寄った。
「貴方が…貴方が撃ったのね…」
奈緒は冷たい地に倒れ、彼女の瞳には未練が残ったままだ。
崩れ落ちる彼女に寄り添いながら、私はただ深い悲しみに打ちひしがれていた。
「ごめん…結菜…君を守るために…」
志村くんは最後の力で言葉を絞り出した。
積もった真っ白の雪の中で、血を流して倒れる奈緒は、最後の力を振り絞って私に言った。
「お姉様、私、ただお姉様のことを愛していただけなの。運命を変えられるかもと思った。お姉様、私達、普通の家庭に生まれていたら、きっと、二人で幸せに暮らせたのでしょうか。お姉様、最後に、私にキスをしてください」
微かな声で私に訴える彼女は、美しく、綺麗で、私は彼女に寄り添って彼女の冷たくなった唇に触れた。
「奈緒、ごめんね。貴方の気持ちに早く気づけなくて。最後は、お姉さんらしくさせて」
そう言って私は、彼女にキスをした。
彼女は、微笑みながら、涙を流して、そのまま動かなくなった。
心の中に重い悲しみを抱えながら、私は志村くんの手を握りしめた。
「結菜、行こう」と彼はささやいた。私たちはその場を後にし、遠くの鐘の音が再び鳴り響いた。その音が、私たちを自由へ導く道しるべとなることを願いながら駅へ向かった。
駅へ近づくと、そこに見慣れた姿が立っていた。
「黒崎さん…助けて…!」
私は切実な思いで叫んだ。
その瞬間、志村くんが即座に反応した。
「だめだ!あいつは裏切り者だ!」
黒崎さんの眼差しは冷たく鋭いもので、私たちを照準に収めた銃が輝いていた。彼が神童家に忠実である黒服だったことを、この瞬間理解した。私の心臓は鼓動を速め、恐怖と同時に戦う気持ちが沸き上がった。
黒崎さんが発砲しようとした瞬間、奈緒が突如その間に立ちはだかった。
「奈緒、下がって!危ない!」
と叫んだが、彼女は動じなかった。
奈緒が黒崎さんに挑む姿は、見る者すべてに強い覚悟を見せつけた。彼女は私たちを守るために、命を賭けていたのだ。
銃声が響き、奈緒が膝を崩した。その瞬間が永遠に感じられた。私は叫び、駆け寄ったが、奈緒の手は私の手を止めさせた。
「奈緒…!どうして…」
奈緒は微笑みながら、
「お姉様、これで最後にお役に立てました。お二人とも、どうか幸せに…」
と静かに言い残した。
彼女の視界は次第に遠のき、雪が降り注ぐ中に彼女はいった。最後に私のために尽くしてくれた彼女を思い、涙が頬を伝った。
志村くんが黒崎さんに立ち向かった。黒崎さんと志村くんは激しい戦いを繰り広げた。交差する拳と銃声、寒風の中での激闘。最終的に志村くんが黒崎さんを打ち倒した。
奈緒は息絶える寸前、私たちを見る目に安堵が見えた。降り積もる雪は奈緒を包み込むかのようだった。
「お姉様...あいしています...」
と奈緒は最後に囁き、静かにその生命を閉じた。
「奈緒…」
悲しみに暮れる私を志村くんが抱きしめて、私の手を強く握った。
「行こう…!」
私は立ち上がり、奈緒の犠牲を胸に深く刻みつつ、駅に向かった。彼女の思いを胸に、私たちの旅は新たな希望をともにし始めた。

電車のガタンゴトンというリズミカルな音に包まれながら、私たちは並んで座っていた。車窓から流れてくる景色は次第に都会の喧騒から自然豊かな風景へと移り変わっていった。志村くんは、肩を組み遠くを見つめる。その横顔には疲れと安堵が混ざり合っていた。
「全て終わったのね、志村くん」とそっと声をかけると、彼は微笑んで答えた。
「本当にそうだね、結菜。ここまで来られたのも君のおかげだよ」
二人の間には、多くの思い出が紡がれた。この長い旅路の果ての静寂が、何よりも大切だった。私たちは、過去の悲しみを乗り越え、新しい未来への期待に胸を膨らませていた。
車内は静まり返り、乗客たちも思い思いの時間を過ごしている。隣の席のおばあさんが、私たちに笑顔を向ける。その目は何も語らずとも、温かな理解を示しているようだった。志村くんは、そのおばあさんに礼を言い、少しだけ会話を交わした。
「若いころに駆け落ちした仲だって言ってたね」
と、私たちの会話が終わった後に志村くんは、小さくつぶやいた。感慨深げな言葉の裏には、私たち自身の姿が重なっているのを感じた。
「運命って、こうやって重なるんだな…」
私は、目を細めて彼の手を握る。志村くんも私の手をしっかりと握り返してくれた。その温かさが、心に染み渡る。
「あの森を抜け出してから、ずっとここまで来るんだって思ってたんだ。君と一緒に生きる未来を」
その言葉に、私は再び涙をこらえながら、小さく頷く。
「私も…やっと自由になれる気がする、志村くんと一緒なら」
電車の揺れが心地よく、二人の未来をさらに鮮明に映し出す。次第に日が沈み、車外の景色は夕焼けに染まる。オレンジ色の光が車内に差し込み、私たちの顔を優しく照らしていた。その瞬間が、まるで永遠に続いてほしいと願うくらい美しい光景だった。
「なあ、結菜。考えたことなかった?普通に、穏やかに暮らせるって」
志村くんが急に話を振ってきた。
「えぇ、そうね…普通な生活。何も特別じゃないけど、毎日が大切に思える、そんな日々が欲しい」
彼は満足そうに頷き、車窓の景色に目を向けた。
「そう、それが本当に大事なことなんだ。だから、君と一緒に過ごす日々を大切にしたい。だからこそ、あの場所に戻りたいんだ」
電車のアナウンスが流れ、私たちはもうすぐ目的地に着くことを知る。志村くんは私の肩を撫で、
「もうすぐだね」
と優しく言った。その言葉に、私の心は温かくなる。
電車が駅に到着し、私たちは静かに降り立った。再び手を取り合い、河川敷へと向かう。出発をしてから久々に訪れた故郷は変わっておらず、懐かしい匂いが私たちを包み込む。

河川敷に到着した私たちは、静かに川を眺めた。川のせせらぎは、まるで私たちの心を癒す子守唄のように心地よく響いていた。穏やかな時間が流れ、空には夕日がゆっくりと沈んでいく。その光は川面に反射し、黄金色の波紋を広げ、まるで絵画のような美しい光景が広がった。
「初めて会った時も、この河川敷だったよね」
私は思い出に耽りながら、ぽつりと言った。隣に立つ志村くんがポケットから煙草を取り出し、火をつけて吸ったその匂いが、懐かしさを運んできた。
「あの時、結菜は俺の吸う煙草の匂いがお父さんの匂いだと言ったね…。もう、この煙草の匂いは、いらない」
そう言うと彼は煙草を放り投げた。ふわりと宙を舞った煙草は、過去の象徴として地面に落ち、消えていった。
「これからは、過去は忘れて未来だけを見るんだ」
志村くんは決意を込めた強い声で言った。彼の言葉に心が震えた。その瞬間、彼は突然膝をつき、私の手を取った。まるで時が止まったかのように、全ての雑音が消え、彼の声だけが私の世界に響いた。
「結菜、ここで約束しよう。君が幸せでいられるように、僕は全力で君を支える。君と歩む未来が、何よりも大切なんだ」
彼の瞳は真剣そのもので、その眼差しには嘘偽りのない誠意が宿っていた。心が温かくなる言葉に、私は涙ぐみながら頷いた。
「私も、志村くんと一緒に、幸せな未来を築きたい」
その言葉だけが自然と口から溢れ出した。彼の真摯な思いに答えたい、その一心だった。
志村くんはダブルボタンのコートの内ポケットから小さな箱を取り出した。その箱を開くと、中にはまるで光の粒子を封じ込めたかのような美しい指輪があった。夕日の光を浴びて、宝石は七色に輝き、まるで私たちの未来を祝福しているかのようだった。
「結菜、俺と結婚してくれるか?」
その瞬間、私の胸は喜びと感動でいっぱいになった。彼の目には真剣さと優しさが溢れ、私はその瞳に吸い込まれそうだった。言葉では表しきれないほどの幸福感が全身を駆け巡り、
「はい!」
と力強く答えたその声は、自分でも驚くほどの確信に満ちていた。
彼の手が私の指に指輪をはめると、その瞬間、私たちの抱擁がすべての過去と未来、そして現在を繋げるように感じた。彼と私は固く抱きしめ合い、未来への熱い誓約を新たにした。その抱擁にはお互いの温もりが溶け合い、不安も悲しみも全てが霞んでいった。
その日は、私たちが新しい日常への第一歩を踏み出す日となった。沈む夕日の中、美しい河川敷での景色が私たちの新たな物語を祝福しているかのようだった。
“この日を、一生忘れない。” そんな思いが胸に強く刻まれた。

五年の月日が経ち、私たちは穏やかな生活を送っていた。私たちの間には一人の子供が生まれ、「翔太」と名付けた。 彼は仕事に励みながら家庭を支えてくれている。私たちが夢見た「普通」の生活が、今ここにあるのだ。
青い空が広がる晴れた日、家の庭には色とりどりの花々が揺れ、その間を蝶が舞い、蜂が忙しそうに飛び回っている。春の柔らかな風が吹き、木々の葉がざわめく音が心地よく響く。鳥たちのさえずりが遠くから聞こえる中、小さな翔太は庭で元気に跳びはねていた。
「ママ、見て!僕、こんなに高く跳べるんだよ!」
翔太はまるで飛び立つかのように跳び、笑顔を私に見せた。その笑顔は太陽のように輝き、私の心に温かさをもたらした。
「本当にすごいわね、翔太。お父さんに見せてあげなきゃね。」
私は翔太の成長を喜びながら、微笑んだ。
庭の片隅には、小さな家庭菜園があり、家族で育てた野菜たちが並んでいる。トマトの赤、キュウリの緑、ナスの紫が鮮やかに彩られ、それぞれの実が陽光を浴びて輝いていた。隣にはベンチがあり、そこに座りながら家族で笑顔を交わす時間がとても愛おしい。
彼が仕事から帰る夕暮れ時、空がオレンジ色に染まり、光が柔らかく木々の間を照らす。彼の帰りを待ちながら、私は翔太と一緒に家の門で佇んでいた。一日の終わりを示すこの時間は、私たち家族にとって特別な瞬間だ。
「おかえりなさい!」
翔太が走り寄ると、彼の腕に飛び込んでいく。彼はその笑顔にほほえみを返しながら、翔太を抱きしめた。
「今日はどんな一日だった?」
彼の問い掛けに、翔太は学校での出来事を興奮気味に話し、私たち夫婦はその話に耳を傾け、笑い合った。この日常の一瞬一瞬が、私たちの心を豊かにし、幸せを感じさせた。
「翔太、ママと一緒に本を読もうか」
彼が帰宅後にそんな提案をし、翔太は嬉しそうに頷いた。リビングのソファに座りながら、彼が持つ絵本に目を輝かせる翔太の姿を見て、私はまた一つ、家族の絆を感じることができたのだ。
私たちが夢見た「普通」の生活が、今ここに広がっている。些細なことに幸せを感じ、家族三人で過ごす時間が何よりも大切なものだった。この日常がこれからも続くように、私は心の中で強く願い続けた。
夕食の時間、彼が仕事から帰宅すると、翔太はすぐに駆け寄り、彼に抱きついた。「パパ、今日はママと一緒にお花を摘んだんだよ!見て、きれいでしょ?」
彼は笑顔で翔太の手から花を受け取り、
「本当にきれいだね。翔太、ありがとう。」と優しく答える。
家族揃っての食事の時間、笑い声が絶えず、温かい雰囲気が広がる。
私は料理を運びながら、ふと幸せを感じ、胸がいっぱいになる。
「琥太郎、本当にありがとう。この家庭が私の全てだよ。」
私はしみじみと語った。
「結菜、俺の方こそありがとう。君と翔太がいるから、俺は毎日が幸せだよ。」
彼も同じ気持ちを込めて答えた。

そんなある日、家に一通の手紙が届いた。 普段はあまり手紙を受け取ることのない私は、差出人の名前が書かれていない封筒を不思議に思いながらも手に取った。封を開けると、中から一枚の紙が現れた。紙には見覚えのない手書きの文字で、こう書かれていた。
「結菜へ。 私は貴方に伝えたいことがあります。どうか、最期に一度だけでいいので、私に会いに来てください。場所は熊谷刑務所、面会室No.3。」
突然の手紙に動揺しながらも、私はその差出人が誰であるかを考えた。刑務所にいる誰か……。色々な思いが頭をよぎり、指先が震えた。しかし、手紙の中に込められた切実な思いを感じ取り、無視することができなかった。
「もしかして……」
と、ひとつの名前が思い浮かんだ。中条紗代、私にとって母のような存在でありながら、影で私の人生を操ってきた女性だった。
「あの女が……?」
疑念が渦巻く中、私は気づけば家を出ていた。行かなくてはならないという強い感情が、私を動かしていた。
大きな刑務所に到着し、重い鉄の門をくぐった私は、心臓が早鐘を打つようになっていた。そして面会室に案内されると、そこには痩せこけて弱々しい姿の女性が座っていた。
「久しぶりね、結菜」
女は、お母様と偽って私を育ててきた中条紗代だった。
「手紙、見ました。久しぶりですね。私、貴方のこと、なんて呼べばいいのかしら」
「お母様と呼んでくれたら、とても嬉しいわ」
「それは、できません」
私が拒否すると女は憂いな表情をしていた。
「私ね、貴方のことを本当の娘だと思っていました。自分の指示された計画を忘れてしまう程、貴方のことを愛していた。私の、火傷の傷を覚えていますか?私はね、幼い頃に家が全焼して家族を失ったの。それから、神童家に家政婦として拾ってもらって、貴方のお父様の家に派遣されて、私は、ずっと奴隷のように扱われていたけど、唯一、貴方のお父さんだけは、優しかった。
私は、貴方のお父さんに恋をしていました。
貴方のお父さんが突然、家から居なくなってしまって、私は唯一、貴方のお父さんからもらった高貴なお皿と貴方だけが心の拠り所だった。
本当は、貴方には幸せになってほしかった。
お金さえあれば、裕福な家庭にいれば、幸せだと思ったのよ。
でも、私と貴方は、ずっとボタンの掛け違い。
本当の親子ではないから、分かち合えなかった。
ごめんなさい、結菜。
私は、貴方のお母さんになれなかった」
女の言葉を聞いて、私は女との記憶が蘇ってきて、嫌な記憶ばかりでとても許せはしなかったけど、気がついたら涙が出てきた。
「今更、何よ。もう、邪魔しないでよ。ようやく、手に入れたの。私が欲しかった幸福を。もう、私は前に進んでいるの!なんで、今更…。私は、貴方の顔なんてもう見たくないの」
私は声を荒げて、感情的になっていた。
どうして、憎かったはずの女なのに、涙が出てくるのだろう。
「許してほしいなんて、思っていないわ。ただ、貴方にはこれからもずっと、幸せでいてほしい。最後に、わがままを言わせてちょうだい。お母様と、言ってください」
中条紗代は、刑務所内で最期を迎えた。彼女は、微笑みを浮かべて亡くなっていたそうだ。
最後、私は彼女に向かって
「お母様」
と告げると彼女は涙を浮かべながら笑顔で言った。
「運命は、誰にも変えられない。今ある幸せを大事にしなさい」
その後、私は過去にとらわれず、今の幸せを大切にしながら日々を過ごしていた。 私には愛する家族がいて、普通の幸せがここにある。

ある休日の午後、私は彼と翔太と一緒に河川敷を散歩することにした。 陽射しが柔らかく川面に反射し、風が心地よく頬を撫でる。 翔太は楽しげに走り回り、彼はそんな翔太を温かい目で見守っている。
「ここ、綺麗だね」
と彼が言った。
「うん、本当に」
と私も微笑みながら答えた。翔太が向こうから手を振りながら駆け寄ってきた。
「ママ、パパ、見て!川に魚がいるよ!」
「そう?それは見に行かなきゃね」
と私は翔太の手を取り、彼もその手を握り締めた。
三人で手を繋ぎ、静かな川を眺めながら微笑み合った。
「ねえ、幸せってこういうことなのかもしれないね。」
と私はぽつりと言った。
彼が優しく頷く。
「そうだね。特別なことは何もいらない。こうして家族で過ごせる時間が、一番の幸せなんだ。」
翔太も嬉しそうに頷き、
「僕も、ママとパパと一緒にいるのが一番好きだよ!」
過去には色々なことがあった。 自らは決して選ばなかった道を歩まざるを得なかったことも。 でも、過去を変えることはできない。 その代わりに、今という時間を大事に生きることができる。 そして、それこそが私たちの幸せなんだと深く実感した。
何事もない普通の日常がどれほど貴重か、そして幸せな時間を守っていくことが何よりも大切であることを再確認する。
静かな河川敷で、私たち三人は手を繋ぎ、温かな夕陽の下、穏やかな未来を見据えていた。川のせせらぎが心地よい音楽のように私たちを包み込み、夕陽の柔らかな光が水面に反射して、まるで絵画のように美しい光景が広がっていた。秋の風が少し冷たく感じるけれど、その風が吹くたびに色とりどりの葉が舞い落ち、地面をカラフルな絨毯のように覆っていた。
「ママ!お腹空いた!」
と翔太が元気な声で言った。彼の瞳は純粋な期待と喜びに輝いている。
「そうね、お家に帰りましょう」
と微笑んで答えた私に、彼が体を少し前のめりにして提案した。
「俺も腹減ったな!よし、翔太。パパがチャーハン作るから、いっぱい食べるんだぞ?」
「やった!パパのチャーハン大好き」
と翔太は大はしゃぎし、彼と一緒に手をぶんぶん振り回しながら走って行った。
振り返ると、二人の笑顔が夕陽に照らされ、黄金色に輝いていた。その姿を見つめると、胸の中が温かくなり、幸せがこみ上げてきて涙が溢れだした。
翔太が伸び伸びと育ち、自由に自分の道を見つけることが、私の一番の願いだ。もちろん、勉強も大切だけれど、それ以上に翔太には自分の好きなこと、興味を持ったことを追求してほしい。もし翔太が誰かを好きになったとして、それが例え男の子でも、私は全力で応援する。翔太の選択を全て肯定できる母親でありたい。
人それぞれ幸せの価値観は違うし、それぞれの運命は誰にも決められない。自分自身で選んだ道を歩くこと、それが真の幸せにつながると信じている。私たち三人で歩むこの道が、どんな困難でも乗り越えていけると確信している。だからこそ、未来に向かって力強く進んでいきたい。
夕陽が完全に沈むまで、私はその美しい景色と共に、大切な家族への感謝と愛を胸に抱き、目の前の二人を見守り続けた。
「琥太郎!ちょっと、寄り道していいかな?」
夏の木漏れ日が優しく降り注ぎ、蝉の鳴き声が静寂を包むように響き渡る墓地。私達家族は手を繋ぎ、奈緒ちゃんの墓前に佇んでいた。
石碑には「中条奈緒」と美しく刻まれ、その名前を前に私はそっと手を合わせる。
「奈緒ちゃん、私ね、今とっても幸せなの。息子も出来て、翔太って名前なんだよ。」
深く息を吸い込み、一瞬目を閉じると、あの日の思い出が鮮やかに甦る。
「あの時、奈緒ちゃんが私達の命を守ってくれたから、今私達は幸せでいれる。奈緒ちゃんは私にとって、自慢の妹です。奈緒ちゃんと出会えて本当によかった。」
私の声は穏やかで、それでいて心の底から溢れる感謝と愛情が混じり合っていた。このお墓の前で心を込めて語り続けると、そっと私の唇に温かい風が吹き抜けた。まるで奈緒ちゃんがそばにいてくれているかのような心地よさだった。
「どうか、お空から見守っていてください。翔太には、奈緒ちゃんのように強い女性、いえ、強い男性になって欲しいです。奈緒ちゃんは、自慢の弟です。」
その言葉に、自分の胸の中に眠っていた幸福感が広がり、涙が滲んだ。
「お姉様、愛しています。」
ふと奈緒ちゃんの優しい声が風に乗って聞こえた気がして、涙がこぼれ落ちた。温かい風が私の頬を撫で、奈緒ちゃんの存在を感じさせてくれた。
「ママ、このお墓で眠っている人は、誰なの?」
翔太の純粋な声が現実に引き戻してくれる。
「ママの大事な弟よ。」
そう答えると、翔太は真剣な表情でお墓に手を合わせ、なにかを祈るように目を閉じた。私はその姿を見て、また奈緒ちゃんが空から微笑んでいる気がした。
「さあ、帰ろうか。パパがチャーハン作ってくれるから」
私はそっと翔太の手を握り、彼との静かな歩みを始めた。奈緒ちゃんの魂が私たちを見守り続けてくれていることを信じて、温かな夕陽の中をゆっくりと歩いた。
「ただいま!」
と元気に翔太は玄関のドアを開け、家中にその声が響いた。
「さあ、夕飯の準備をしようか」
と彼が言いながら台所へ向かう。私も微笑みながら、それについていった。
リビングに一歩足を踏み入れると、そこには家族の写真が飾られた棚があった。翔太の成長を一枚一枚刻んできたその写真たちは、私たちの愛と絆の証だ。私はその中の一枚、奈緒の写真を見て、心の中で感謝の気持ちを伝えた。
「ママ、今日はパパのチャーハン楽しみだね!」
「そうね、翔太。お父さんのチャーハンは特別だもの」
と答えながら、私は静かに微笑んだ。
彼が鍋を振る音が台所から聞こえ、食欲をそそる香りが家中に漂い始めた。翔太はその香りにつられて、キッチンに飛び込むように駆け寄った。
「パパ、手伝うよ!」
と、意気揚々と宣言する翔太。その姿に彼も笑顔になる。 「ありがとう、翔太。一緒に作ろうな」
その夜、三人で囲む夕食は特別なものだった。温かい家庭の味が口に広がり、笑い声が絶えない時間が流れる。翔太は自分で作ったチャーハンを誇らしげに食べ、私たちもその幸せな姿に満足感を覚えた。
「今日も一日、楽しかったね」
と、食後のリビングで言葉を交わす。彼は翔太を膝に乗せ、その小さな手に愛おしさを感じていた。
「うん、すごく楽しかった!」
と翔太は眠そうに目をこすりながら答える。
そのまま彼の腕の中で深い眠りにつき、家は静かな夜に包まれた。
私は窓の外を見ると、満天の星空が広がっていた。奈緒が私たちを見守ってくれているように感じ、優しい気持ちが胸に広がった。
「明日も、いい一日になりますように」
と、心の中で祈りながら、私は彼と翔太の寝顔にそっとキスをした。
家族の温かさに包まれながら、私はこの「普通」の幸せが何よりも貴重であることを深く実感した。
明日も、明後日も、この幸せが続きますようにと心から願いながら、私は静かに目を閉じた。


追記

皆様初めまして。
私にとっての処女作をご覧になって下さり、感謝致します。
この作品は、私自身に問うものであります。
私は、裕福ではない家庭で育ちました。
裕福な家庭や、地位や名誉を持つ人間を見ると、どこか羨ましいと思うことが多く、私もいつか全てを手に入れたいと強く思っていた時期がありました。
しかし、本当の幸福とは、全てを手に入れた時にしか味わえないのでしょうか?
生まれた時から将来を決められた人間が、果たして、幸福な人生を歩めるのでしょうか?
私は、幼少期の頃から自分が不幸者だと思っておりましたが、今の私はとても幸福です。
決して、金も地位も名誉もありませんが、どこの誰よりも幸福だと思います。
私は、友達が1人もいません。
それでも、幸福なのです。
私だから書ける作品は、きっと存在する。
それは、これから私が生きているうちに、書いていきたいと思います。
初めての作品、至らない点はかなり多いと思います。
ただ、自分が思うままに書きましたので、どうか読んで頂ければ、私はそれだけで嬉しい思いです。

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