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初公開!養子が前向きに生きるための3つのポイント

今回のテーマに触れる前にひと言。
本記事は特別養子当事者である私の実体験を含んでいます。
少しでも読者のヒントになり、前向きな気持ちを抱いていただけたなら、
私も幸せです。

なお、後半は有料ですが、私の養子当事者としての活動をご支援いただけるますと、大変嬉しく存じます。


私の名は志村歩です。私は1998年11月3日福島県いわき市で生まれました。産みの母は16歳か17歳の時に私を出産したそうです。私の出自に関する情報には常に「~らしい」という表現が使われます。何故なら、産んだ本人に直接話を聞くことはできず、当時の詳細を知る人物もいないからです。

話を元に戻すと、筆者ができた前か後かは分かりませんが、相手の男性は逃げたようです。まさに逃げ足が速いというやつです。
ちなみに筆者は鈍足である。
ですが、この情報も明確ではありません。当時、女子高生だった産みの母は子供を育てる力がなく、養子に出すことを決断したそうです。筆者が25歳ですから、産みの母が私を託したのは約25年前でしょうか。2024年の現代でも、「産んだ子を養子に出す」という行為を否定する意見は少なくありません。ですから、25年前は現代よりも厳しい非難を浴びたのでしょう。
その当時、産みの母はどのような思いを抱いたのでしょうか。

紆余曲折の末、産みの親は私を某民間あっせん団体に託すことに決めました。なぜ産みの親がその団体を選んだのかについて、私は知りません。

私が生後8ヶ月の時に、神奈川県に住む志村夫妻とご縁があり、親子となりました。

育ての母に私を迎える際の気持ちについて尋ねてみました。
ご縁があるとの連絡を受けてから、とてもワクワクし、本当に嬉しかったそうです。

もちろん私には、迎えられた当時の記憶はありません。

両親がは真面目な人たちだと思います。
とはいえ堅苦しくなく、時には冗談も言います。
ただし、父親の冗談は面白くありません。
一方、母親は少し変わった人であり、ゆえに私を育てることができたのだと思います。両親にはとても感謝しています。

両親は、私を迎え入れた直後から真実を告げてくれました。あっせん団体の意向もあったようですが、彼らはしっかりと実行に移しました。私が親の立場なら、真実を伝えることにためらいを覚え、恐怖心が勝ってしまうのではないかと思います。

出自について考えながら、1つ思ったことがあります。
産みの親と育ての親が一致している人にとっては、出自をたどる手間は少ないのでしょう。しかし、私のように出自をたどろうとした場合、他人の協力を得ながら行う非常に手間のかかる作業となるのです。つまり、出自をはっきりと知りたいと願った場合、時間と体力、お金という点で、出自が一致している人よりも多くの負担を強いられるのです。
子供にとっては、何の責任もないのにこのような状況は非常に理不尽と言えるでしょう。

私が子供の時にそれを理解していたかどうかははっきりしませんが、私は産みの親に会いたいと思ったことは一度もありません。
おそらく、これからも会いたいと思うことはないでしょう。

おっと、前向きに生きる理由について触れずに次の話を始めるところでした。1つ目のポイントは、

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