東京で生きるか。地方で生きるか。それとも、参勤交代するか。
先週金曜日、打ち合わせで葉山に行った(そのプロジェクトの話はまた別で書こう)。ものすごく感化されてしまい、その週末さっそく家族を連れて、葉山・逗子で2日間過ごした。そこで感じたことを、思考の整理のために書いてみたい。
東京は仕事するためには最高だが、子どもが遊ぶには退屈すぎる。
僕は2年前から、目黒区の学芸大学エリアに住んでいる。子どもの年齢が近い家族が多く、周りには幾つも公園があって、住み心地のいい地域だ。かといって、オフィスまでは自転車でも通える。深夜タクシーで帰っても高くない。上京して以来、山手線の中にしか住んだことがなかった僕にとっては、仕事と子育てのバランスをとった選択だった。
しかし最近どうやら、子どもが退屈し始めているのではないか、と思い始めてきた。2歳を過ぎたあたりから、この辺の公園では満足できず、いくつも公園をハシゴさせられる。僕が休日連れまわすのは構わないが、妊婦である嫁が毎日するのは大変だ。かといって、育ち盛りの子どもが全力になれないのも可哀想。この辺だと商業的なもの以外に、子どもを遊ばせてくれるコミュニティもなかなか無い。
改めて感じるのは、東京(都心部)には、仕事と消費の環境は充実しているが、遊びの環境は乏しいということ。前者はインターネットなどの技術発展の恩恵を受け、リモートワークやECといった形で日々進化するが、後者を進化させるのは難しい。海や山、森は動かせないし、生きた生物はコンクリートジャングルには住めない。コミュニティも文化や場があるところに生まれるわけで、東京よりも地方のほうが向いている。
そんなことは分かっていて東京に住んでいるわけだが、2人目、3人目を考えると、このままでいいのかと思い悩み始めた。そのときに出会ったのが、東京で仕事し、地方で暮らす人たちだった。僕にとっては、それが葉山・逗子だったというわけだ。彼らは僕よりもよっぽど大きな組織を動かし、毎日忙しく仕事をしている。しかし土日は、全力で海と山を駆け回っている(僕よりも歳上なのに元気だ...)。その姿を見たときに、ふと、僕は自分が勝手に選択肢を狭めていただけであることに気がついた。
現代であれば、毎日「参勤交代」をすることができる。
解剖学者の養老孟司さんの本を読んでいると、たまに「現代の参勤交代」なるものを唱えている。要するに国の制度として、都市と田舎の往復居住しようというものだ。
たとえば、1年のうち1-2カ月は田舎で暮らすことを義務にする。企業は社員を休ませて、田舎で農作業をしてもらう。労働時間が5/6になるが、本気になって効率化すれば業務はこなせるし、むしろ田舎に人が増え、お金が落ち、過疎に悩む地方の活性化に役立つ。農産物も増産され、27%という低い穀物自給率の向上し、身体を動かし汗をかくことで鬱を解消したり、引きこもりを無くすことに貢献するという。大胆だが、面白い国策提案だ。
この案がすぐに導入されるのは難しそうな気がするが、個人が勝手に始めてみることは可能だ。むしろ、もっと極端に考えてみれば、参勤交代は毎日でも行えるものである。逗子であれば、湘南新宿ラインでたったの1時間で恵比寿(オフィス)だ。終電も12時前まである。移動も、究極グリーン車借りれば快適だし、仕事もできる。東京の高い家賃や子どもの習い事代を考えたら、全然安い。海や山が庭だったら、子どももきっと退屈しないだろう。2日間滞在しただけだが、子どもにいろんな経験をさせてくれる、愛すべきお節介おじさんおばさんが沢山いることもわかった。
少し前までは、2拠点居住は金持ちやリタイア後の人だけの選択肢だった。しかし今は、現役で働く人にとってこそ現実的な生き方になってきている気がする。それは地方に家を持つということだけじゃなくて、シェアハウスやAirbnbみたいなものも含めて、インフラのあり方が柔らかくなっているからだ。
あぁ、こんなに世界は小さくなっているのに、どうして古いものさしで生活範囲を捉えていたのだろう。ワークライフバランスとは、時間の問題だけじゃなくて、むしろ場所の問題なのかもしれない。いろんな人生拠点をもつことで、複数のコミュニティを持つことができ、自分の中にある多様な価値観を受け入れながら、生きていけるのではないか。
近いうち、僕も、参勤交代しているかもしれない。