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自分の話を書くから共感されない。

Facebookの功罪は、プロフィール写真の変更や、結婚や職場などのステータス変更が、多くのいいね!を集めてしまうことだと思う。それらはコンテンツとして素晴らしいのではなく、ただFacebookのアルゴリズム上、優先的に表示されるだけだ。そのせいで「単なる自分の日常に人は興味がある」と勘違いする人を量産してしまっている。プロフィールをよく変更するおっさんはかなりヤバい。

もちろん本当に仲良い数人の友達は、くだらない日常でも面白がってくれるかもしれない。それがインスタグラムの鍵アカウントやLINEグループなら分かる。しかしFacebookなどの(一回会っただけで繋がってしまう)肥大化したソーシャルネットワークの中で、自分の日常を流し続けても、まともに見られてない、さらにはウザいと思われているリスクを認識したほうがいいと思う。

大前提として、自分に興味ある他人なんてほとんどいない。悲しいけど、それが真実だ。ホリエモンのような、存在自体がコンテンツ化しているケースは例外だ。じゃあ、自分のことを書いちゃダメなのか。せっかく誰もが自由に発信できるメディアを手にしたのに!と怒らないでほしい。ちょっと視点を変えるだけで、自分の経験が共感に変わるかもしれない。

ちなみに僕は自分をコンテンツ化できてはいない。このnoteも数日前から書き始めたはがりで、ブロガーのようにファンもいない。しかし自分の経験をベースに言いたいことを書いて、小さい規模ながら知らない人たちに記事や投稿は読まれている。という根拠で書いてみたい。(お前のことなんて知らんわアホって思う人は、どうぞご自由に閉じてください)

じゃあ、どう視点を変えるのか。僕は自分の経験をそのまま書いているわけではない。世の中の境界線を意識している。境界には「ズレ」や「重なり」が発生するから、そこを言語化し、意見に変えている。例えば、先日のこれこれを見てもらえばわかるが、「こういう生き方・働き方もあるよ」というメッセージに変換している。共感する人はするし、別の考えの人は反論する。どういう人がどういう感情を抱くか想像できるのは、視点をソーシャルに置いているから。もしこれが、僕のステータス共有であれば、「はいはい」と以上終了だ。

僕の友人に家入一真という起業家がいる。彼が展開するサービスは個性が強い。ITなのに臭いがする。しかし、彼にサービスづくりの極意を聞けば、「手紙を書くように、特定の誰かの表情を思い浮かべながらつくる」と言う。つまり、自分の人生が受け手と重なっているから、そこに共感が生まれるのだ。逆に、自分の話ばかりしていては、いいね!は減っていくばかりだろう。