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中井久夫と荒川修作

用があって『中井久夫集』(みすず書房)をめくっていたら、第3巻に「荒川修作との一夜」というエッセイが掲載されていることに気づいた。同時代の”凄い人たち"はだいたい繋がっているものである。特に荒川さんは、いろんな人に電撃的に会いに行く人だったようだ。実際に荒川にお会いした人たちの口から「今まで会った人の中で一番変わった人だった」というのを何度耳にしたことか。

中井のこのエッセイもまた「私はあわてていた。」という一文から始まる邂逅の記録である。

ことの発端は『<身>の構造』で知られる哲学者の市川浩が、精神科医の木村敏に「荒川が二人に会いたいと言っている」と掛け合ったことにある。突然の木村からの入電。3月17日の夜に蹴上の都ホテルで、いいね、と言われ電話は切れる。

このエッセイの初掲載は1990年の6月。文中に「ちょうど今、東京で個展をやっている」とあるから、1990年の初めに東高現代美術館での『荒川修作展ー宮川淳へ』の頃だろうか。この時期は絵画の前に斜面が置かれた「体験装置」の作品が登場し、後に続く「見るものが作られる場」(東京国立近代美術館ほか)や「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」(奈義町現代美術館)に続く、荒川がいよいよ身体へ、そして建築へと明確に接近していく時期である。このタイミングで、荒川は日本を代表する精神科医の2人に直接会っている。

当日は、市川、木村、荒川に加え、マドリン・ギンズも同席して(荒川からは「同志だ」と紹介があった)、5人での会合となった。中井による荒川の第一印象は以下のように記されている。

荒川は、漆黒の頭髪が波打ち、きゅっとしまった容貌の真中に黒ダイヤの眼が光る。私には見えないものを含めて、実に多くものをみつめてきた眼だ。日本人にしては白い肌がニスの光沢を帯びて深いところから赤みが刺しているのを、ほとんど美しいと、私は思った。動作はむしろぎごちなかった。時折、顔面をくしゃくしゃさせた。稲妻のように素早く--。

「荒川修作との一夜」『中井久夫集 3』198頁

おそらくは中井の「アンテナ感覚」が、荒川の”何か”を感じ取っているのだろう。稲妻を伴って現れるひとは、概して只ならぬひとだと相場が決まっている。

話は意外な共通点からどんどん展開していく。荒川の父は開業医だったが、彼自身の出身でもある名古屋の滝子という場所は、木村と中井がかつて所属していた名古屋市立大学医学部の目と鼻の先にあった。また、荒川がとある精神科医を”辞めさせた”話など、驚くべき話が進んでいく。自身の活動についても、熱い語気で、荒川はこう語る。

「自分のは芸術ではない。そんな悠長なゆとりのあるものではない。あのね、英語でこういうけど(その言葉をどわすれしたのは私である)、日本語でどういう?」「火事場の力?窮地に出る思わぬ底力?」「かな、とにかく、ここでこうなら日本にいちゃだめだと思った。それでニューヨークに出たわけです。もう死ぬと思った。死なないために書いてきたのだ。死なないために、死なないために」。

「荒川修作との一夜」『中井久夫集 3』200頁

この夜、荒川は「シナナイタメニ」という言葉を度々繰り返したしという。なお、上記の引用部分には注がついていて、のちにある時ふっと、この原稿執筆時にどわすれしたその言葉が”exhausted decision”であったと補足されている。荒川は1969年にもこの副題のついたペイティングを発表しているが、ここで荒川が繰り返すことの死に対する切実な決意はのちに天命反転思想と展開するものそのものだろう。この夜の中井や木村に、荒川の意図は伝わりえたのだろうか。そして、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で『宿命反転ー死なないために」展を行うのはここから7年後、1997年である。

このあとも、場所をホテルからバーへと移しても話が尽きず、荒川が2人に「オレが持つからホテルに泊まってゆかないか」とさらに続けたという。前日の深夜3時まで会議だった木村は遠慮をし(当時の教授会は深夜3時まで教授会をしていたらしい…)、中井はそのまま深夜まで語り明かしたそうだ。

市川はこの時の様子をテープに録音していたようだが、その後この記録がどうなったかは不明とのこと。ニューヨークに帰った荒川は、木村と中井、2人の日本人精神科医の素晴らしさを周囲に吹聴していたようだ。


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