アタッチメントのモデル2(その2)

前回の続きですが、できるだけ長くならないように書きたいと思います(と思って書き始めたはずなのですが……)。

支援への示唆

支援について説明するにあたって、モデルを再度提示しておきたいと思います。

モデル2_3

(1)非行・犯罪の基底に恐れを読み取ること

このモデルが臨床的介入について示唆することの1つは、なにより、「非行や犯罪の基底に恐れを読み取ること」です。ここでの非行・犯罪とは、非行性・犯罪性のようなある個人のパーソナリティ特性や行動傾向でもあるし、1回の特定の事件のことでもあります。どちらの場合にも基底に恐れを読み取ることができますが、1回の事件の場合にはかなり偶発的な要素もあるため、恐れだけに焦点は当てられないでしょう。それでも恐れに注目しておくことは重要であると思っています(この問題はどこかでindex offenceという考え方としてご紹介したいと思います)。

別の記事でも書きましたが、非行や犯罪、あるいはいわゆる問題行動などは、しばしば本人の「欲求」の問題や「欲求を我慢する能力」の問題として考えられがちです。しかし、非行や犯罪に至る欲求とはむしろ「二次的な」動機であり、それを我慢できないことは「二次的な」機能不全であり、より本質的な問題は「恐れ(恐怖や不安、葛藤を含めても良いのでしょう)」である、というのがこのモデルの視点です。その具体例は前回書きましたのであまり繰り返しませんが、家出や深夜徘徊が分かりやすいように思います。ふらふらと遊び歩きたいわけではないのです。そうではなくて、家の中が安全で安心できるものではないために、家にいられないということがまずあって、このことを覆い隠すかのように外で遊びたいとか友だちといる方が面白いとかいう動機が現われるのだと思うのです。

この二次的な動機をあやまって本質だと捉え、外に遊びに行かないこと、我慢すること、枠を守ることなどに焦点を当てると、いわば見せかけの動機に取り組むことになってしまいます。それは労力を使う割に、得るものの少ない作業になるでしょう。それよりも、家の外でツレといて、あるいはグループで、あるいは見知らぬところで、タバコを吸い、お酒を飲み、ゲームをして、居場所を得て、騒ぎたて、愉快そうにしているとしても、「家にいるのが落ち着かないんだなぁ」と声を掛けることが必要になってきます。

非行や犯罪にはしばしば、躁的な側面があります。愉快であったり、爽快であったり、快適であったりする側面がありますが、それは深い不安と怖さの裏返しです。そのことを理解しておく必要があります。横柄で、傍若無人で、独りよがりで、浅はかで、挑発的で、冷ややかで、無反省な見た目の向こうに、生きることを怖がっている小さな子どもが感じられると支援の手がかりになると思います。

(2)非行や犯罪を防衛として理解すること

躁的側面について触れたように、非行や犯罪には、基底にある恐れに対する防衛としての側面が多分に含まれます。左の輪から右の輪への移行に隙間を開けることにしたのは、このことと関わっていますが、ある場合には恐れからそのまま非行・犯罪が生まれる一方で、別の場合には恐れそのものでは非行性・犯罪性、あるいは事件の生起を説明しにくいこともあります。同じ家出でも、家にいるのがつらくて外に出ることが意識的な子どももいれば(この場合には恐れから説明がつきやすいでしょう)、家のことは意識にのぼらずに仲間と騒ぐのが楽しいということしか自覚していない子どももいます(この場合には恐れでは説明がしにくいでしょう)。友だちと遊びたい、それで何をしているかといえば一晩中、飲酒・喫煙をし、騒いでいる、というようなことを聞けば、そこに恐れがあることは想像できないかもしれません。

この時に、非行・犯罪の基底に恐れがあるという考えが間違っていると見なすよりも、むしろ恐れがそれと分からないほどに覆い隠されていると見なす方が、事実に近いのではないかと私は思っています。つまり「恐れ」が「面白おかしく過ごしたい」という欲求に変わるような「変換」が存在していて、それは恐れに対する「防衛」として理解できるのではないか、ということです。

面白おかしく過ごすことの背後には、嫌なことを考えたくないという回避性が潜んでいます。面白おかしく過ごすということはそもそもそういうことですね。これはしばしば、「単に嫌なことを回避する不適切な傾向」として周囲に理解されます。しかし、実のところ、この「嫌なこと」が、生きることを困難にするような「安全や安心の存在しない環境に生きているという事実」であるがゆえに、それに「耐えることができず」、そのためにこれについて「考えることをやめ」、反動的に「面白おかしいだけ」の、したがって「楽しさがエスカレートして過激になっていく」傾向につながっていくのだと私は考えています。

こうして面白おかしく生きていきたい欲求や動機が生まれます。ここには、恐れから過剰な快への防衛的な変換が起きています。非行や犯罪とはこの変換に沿った具体的な行動であり、この二次的な動機を現実化するための行為であり、手段であり、非行性や犯罪性とはこうした変換がパーソナリティや行動パターンとして定着したところに生まれる傾向であるのです。それは、より本質的には、どのようにして「生きられない苦悩」を乗り越えるか、という努力であり、問題の解決の試みなのです。不幸なことに、それは本質的な解決にはならず、誰にとっても良いことがないのですが。

したがって、もしも、非行や犯罪の基底に恐れを読み取ることが困難である場合、それだけ本質的な問題(恐れ:不安や恐怖、苦悩、葛藤)が覆い隠されているのだと考えることが求められます。そしてこれを理解するには、防衛について知ることが役立つでしょう。

バイクがほしいということが動機であるとすれば、「強くて男性的」なものを求めていることを想定できます。しかし、それだけではなく、「恐れ」を「強くて男性的」なやり方で覆い隠そうとしているのだなと推測できるということが重要です。逆に言えば、この「恐れ」は男性性に関わっていると考えることもできます。DVは「恐れ」を「暴力的な支配」で解決しようとするもので、そのことはこの人が対等な関係の中での他の解決ができないという「無力さ」を持ち、そのような関係では「蔑ろにされたり軽視される」「恐れ」を持っていることを示唆します。そのように恐れと動機や行為の間にある距離は防衛の強さを反映し、変換の結果は恐れを反映しているのだと考えることができます。

(3)動機、行為、目標を区別すること

このモデルでは、動機と行為としての非行・犯罪と目標とを区別しています。これらは「面白おかしく過ごしたい(動機)」から「友だちの家で遊び(行為)」、「面白おかしく過ごした(目標)」という例を考えると、それほど区別をする必要がないようにも思えます。ほぼ同じ内容だからです。しかし、たとえば「バイクに乗りたい(動機・目標)」から「無免許だけどバイクに乗った(行為)」という例では、バイクに乗りたいという動機そのものには問題がありません。たとえそれが二次的な動機であるとしてもです。問題があるのは無免許だけどバイクに乗るという行為そのものであり、この場合、支援の焦点は、どのようにすればバイクに乗れるのかを考えることになるかもしれません。それに対して、面白おかしく過ごしたいという動機は、これを支持することはできません。「そうできるといいよね、いやほんとに」と共感はできても、それは不可能な生き方だからです。この場合、面白おかしく過ごすという動機そのものに取り組む必要があります。

動機と行為と目標を区別しておくことは、このようにどこに限界を設定し、どこに介入の焦点を設定するかという点で役立つと思っています。

とはいえ、どちらも最終的には「葛藤に耐えること」にたどり着くでしょう。免許を取ってバイクに乗ることも、面白おかしいだけではない生活をすることも、どちらも一定程度、苦痛に耐えることを必要とするものです。これを苦痛でないようにリフレームすることも可能かもしれませんが、私はあまりそのようなやり方は望みが薄いと思っています。というのは、苦痛そのものは人生の事実だからです。苦痛を求める必要も、過度に苦痛を強調する必要もありませんが、生きることはしばしば苦痛との出合いをともないます。私たちはそれなりにこれを通過していくのです。もしもこれを通過できないのだとすると、それだけの安定性が備わっていないということであり、それは葛藤に耐えるだけの発達が遂げられていなかったことを意味しています。

強い恐れを経験する環境で育つことがその脆弱さの要因であると見なすことができます。安全と安心が蓄積され、内的な資源になることで、人は探索を繰り返すことができるようになります。それは新しいものに遭遇し、そこで経験を重ね、学ぶことができることを意味します。安全や安心が欠けた状態では、探索が持つ葛藤に耐えることができません。葛藤に耐えることができず違法行為を実行するという右の輪の問題は、実のところ左の輪の問題をベースにしていると考えることができるのです。そのため、人生に訪れる苦悩に本人がどのように持ちこたえていくか、そのために支援者がどのようにこれを支えることができるか、もう少し言えば支援者の支えによって本人が苦悩に持ちこたえることができるような、そのような支えをどのように支援者は提供できるのか、ということがより本質的な解決への糸口になるでしょう。

非行・犯罪への取り組みは単に安心感が得られればOKということではなく、それをベースにした人生の事実に向き合える強さを持てるようになることを意味しますが、その作業について、動機、行為、目標を区別することで、どこにおいてこの作業に取り組むのかを考えることができるのではないでしょうか。

(4)右の輪から左の輪へ押し戻すこと

ある意味ではこのモデルの最も重要な視点の1つですが、非行・犯罪に取り組むためには右の輪の進行を防ぐ必要があります。つまり、非行・犯罪とは、それがパーソナリティ傾向であれ1回1回の事件であれ、「行動による解決」であるために、本質的な問題としての恐れに取り組もうとしても、行動によって問題が(一見)解消してしまうことが起こりえるわけです。そのためこれを(右の輪から左の輪に)押し戻す手続きが求められます。

たとえば刑務所の中では一般に思われている以上に心理療法的接近が可能となりますが、これは施設の設定によって行動による解決が不可能となり、モデルで言えば右の輪の機能が停止するために、より左の輪に接近しやすくなるのだと理解できます。刑務所の中での作業だけで立ち直りが可能になるとは言えませんが、それでも心への接近が可能になればそれだけ、出所してからの作業への期待が持てます(出所に際してどのように外部のサービスにつなぐか、という課題もあるのですが)。

学校で生徒指導の先生が子どもの行動を制止したり、そのようなプレッシャーをかけたり、警察が社会の中に存在していたり、実際にその活動によって行動の制限をかけたり、施設の中で規則があったり、それに則って指導をしたりすることは、それだけで非行・犯罪からの立ち直りを可能にするものではありません(そのように考える人もいますが)。しかし、こうした「制限」は右の輪の機能を停止するという点で重要な意味を持っています。逆に言えば、行動の制限なしに非行・犯罪からの回復は起こりません。

分かりやすい言葉を使えば、まず行動化を止めて、そのうえで恐れに取り組むことが求められます。このことは、2つの意味を持っています。1つは、今述べてきたように行動による解決を止めること、もう1つは、行動による解決を止めるために、恐れから動機への流れが行き先を失い、危機の感覚が舞い戻ってくること、それによって恐れが刺激されやすく、それだけ本質的な恐れに接近しやすくなること、です。行動を制止されると、それだけもともとの痛みが戻ってきやすくなる、とも言えます。その分、反発や抵抗も大きくなりますし、そのマネジメントが問われますが、本来的な(新しい)解決への可能性も開かれるわけです。

簡単に言えば、行動に制限をかける「力」と、恐れを和らげる「応答」と、それらを葛藤に耐える力の発達に向けて「組織化すること」とが非行・犯罪からの回復には求められるのだと思います。これを1人の支援者が、あるいは1つの支援チームが、または1つの支援ネットワークがどのように示すか、ということが検討される必要があります。

ついでにいえば、このモデルについて解説をする時にはいつもする話ですが、なぜ体罰や厳罰化が効果がないか、言い換えれば「力」だけではなぜ不十分かということをこのモデルは次のように説明します。

体罰や厳罰化は、右の輪の機能を力づくで停止させる働きを持っています。そのために効果があると考える人は一定程度いるでしょう。けれども、それは恐れを和らげる応答を持ちません。それどころか右の輪が停止するという点と敵対的な存在が目の前に現われるという点の2つの点で恐れを強め、それによってかえって行動による解決(右の輪の進展)の圧力がさらに増進します。加えて、「正しい」目的のためなら力の行使は問題がないという考え方を提示することで、力の行使が可能となるような抜け道を教えることにもなります。そのように何重にも非行・犯罪への傾向を強めてしまうために、これを効果的なやり方ということはできないのです。

ここで言う「恐れ」に「死の感覚」を加え、「変換」に精神分析的な防衛概念、特に分割や躁的防衛、サディズムなどの考えを適用することで、このモデルは重大な非行・犯罪の無意識の力動に接近するモデルにも変わりえます。ただ、それはかなり特殊な領域ではあるので、また別の機会にご紹介したいと思います。

ここまでのモデル1、2をコンパクトにまとめたものが、最近考えているものになりますので、次回はそれをご紹介したいと思います。

いつの間にか年末になってしまいました。みなさん良いお年をお迎えください。

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