アタッチメントのモデル2(その1)

前回はアタッチメントの内的プロセスを考える上で基本になる(と私が考えている)モデルを示しました。アタッチメントについて考える時にはいつも安心感がキーワードになるのですが、安心を得るためのニードがどのようにして活性化され、活性化されることでどのような行動が引き起こされ、それに対する養育者(たち)の応答がその後の推移にどのように影響し、それが内在化されていくことでどのように適応上の問題につながっていくか、ということについての時系列的なモデルでした。

厳密に言うと、モデル1は、ある時に子どもに起きることを示す流れと、そうした相互作用が繰り返されることで内在化が生じる流れとを一緒にしているため、正しくないところはあります。けれども、実践上、日々の相互作用が子どもに内在化されて後の問題にたどりつくということ、逆に今の問題は過去の相互作用の延長線上にあるということ、をモデルとして持っておくことは、役立たせやすいものだと思いますので、その意味でこれは臨床的なモデル化ではないか、と思っています。

2つ目のモデルも同じように、ある時に一人の人物の中で起きる流れと、生育史的に一人の人物が問題を発展させる経過とを、1つのモデルで示しているという点では、前回のモデルと同じかもしれません。私の中では、こちらのモデルの方が先にでき始めたのですが、はっきりとした形になったのはモデル1とあまり変わらない頃です。ただし、このモデルは非行や犯罪を説明するために作られたものであるので、その点でモデル1とは趣旨が違っています。

モデル2

安心感の輪というモデルがあります。アタッチメントの相互作用を分かりやすく描いて、養育者の支援に活かそうとするものですが、著作権などの問題があってここに転載は出来ないため、関心のある方は、こちらをご覧ください(英語です)。それは、子どもが探索に出かけ、近接を求めて戻ってくる、子どもと養育者の相互作用の絵でした。

モデル2_1

これを改変したのが上の図です(もともとは安心感の輪とは独立に発想したのですが、時間的にはそちらが先行していること、最終的には安心感の輪を参照したことから、このように紹介しています)。変更点は2つです。

1つは、「安心感の輪」が子どもと養育者の相互作用であるのに対して、こちらは個人内の過程である点です。

安心感の輪では探索のベースには安心の基地がありますが、この図ではそれを個人内の情緒として安心にしています。探索の先で何らかの危機に遭遇すると恐れが高まります(前回も書きましたがBowlbyは恐怖fearを動機づけシステムの1つとして捉えており、それに相当する情緒を恐れafraidとしていましたので、ここではその用語を使っています。前回は危機ではなく危険としていましたが、より年長の子どもの経験を記述するには危険より危機が分かりやすいだろうと思ってそうしています。本質的な違いはありません)。この危機と恐れは「安心感の輪」にはなかった要素です(といっても考慮されていないわけではありませんが)。恐れが高まると安心を求めて近接が起こります。この行動がアタッチメント行動と呼ばれるものです。養育者が適切に応答すると子どもは安心感を得て、また探索に出かけることができます。

もう1つの変更点は、アタッチメントに不具合があることを図の中に含めていることです。

「安心感の輪」では輪の右端から左端への近接を示す下半分のルートはつながっています。しかし、この図では恐れから安心に至るこのルートに断絶があります。これが不安定なアタッチメント、とりわけ非組織状態のアタッチメントを意味しています。アタッチメント関係が不安定であると、とりわけ不適切な養育等の養育環境に置かれていると、しばしば本来的な近接が果たされません。つまり、どうすれば安心が得られるのかということが分からない発達を遂げやすくなります。したがって、子どもの中に、危険な状況に遭遇した際に恐れ(不安や恐怖や緊張など)が高まっても、それを和らげ、安心を得ることができません。輪の右側から左側への移行が不可能になります。

子どもは代わりの方法でこの恐れを和らげ、安心感のニードを達成する他ありません。その延長線上に非行や犯罪を位置づけることが出来ます。それを描いたのが下の図です。

モデル2_2.png.001

左の輪は先ほどのものと同じです。近接に断絶があり、恐れが高まっても和らぐことがないことを示唆しています。そのため、子どもは別のルートで安心を得る必要が出てきます。そのために開拓されるのが右の輪です。モデル1で、子どもの行動問題の基底に、恐れと安心感のニードを読み取ることについて伝えましたが、ここでも同じことです。恐れを和らげ、安心を得るために、非行や犯罪が生じます。それによってかりそめとはいえ安心が得られます。そうして日常生活(探索)に戻っていくことが出来ます。

このモデルにはいくつかの発想が込められています。

1つは、非行や犯罪の意味についての理解です。非行や犯罪は、それによって、本来的に得られるはずであった安心感の代わりとなるものを得ようとする(未解決な恐れを解決する)試みであると考えることが出来ます。

たとえば、家出は家の中で安心できないために、どこかに居場所を求めて彷徨うことを表現しています。性非行は孤独、傷つき、不安などの慰めを求めて性的行為を使用するものです。暴力は恐怖に駆り立てられた自己防衛の所産です。これに快が伴う時にはサディズムへの進展を考えることが出来ますが、それはホラー映画を楽しむのと同様の、恐怖の反転と言えます。薬物は、落ち着きを求めて頼るアタッチメント対象の置き換えです。逆に言えば、自助グループとは頼る相手を薬物から人(の集団)へと、つまり右の輪から左の輪への移行(これを「回復」と呼ぶことができるでしょう)を、助けるものだと言えます。左の輪からフラフラと外れたところで特殊詐欺グループ(オレオレ詐欺など)に拾われるということもあるでしょう。窃盗はたくさんの解釈が可能ですので、別に取り上げたいと思います。

いずれにしても、非行や犯罪は、かりそめとはいえ安心をもたらすために、本人にとって手放せないものになります。それはアタッチメント行動を置き換えるものであったり、アタッチメント対象を置き換えるものであったりしますが、その差異はさておき、高まる恐れから逃れるように、非行・犯罪行為を必要とします。ある意味では、それに依存しているとも言えるかもしれません。

もう1つは、他のリスク因子が存在することの重要性です。右の輪ができるのは、他のリスク因子があってのことで、アタッチメントの問題だけで非行・犯罪が生じるとは考えにくいと思います。

確かに他者を懲罰的に統制するような統制的なアタッチメントパターンの1タイプや、アタッチメントの不安定さが引き起こす外向性の行動問題は、それ自体で非行的な側面を含んでいます。特に家庭内の相互作用が暴力的になったり、金品の持ち出しがあったりする時には、不適応な相互作用と社会的な非行や犯罪との境界線が分かりにくいということは生じます。それでも道徳観や倫理観というものはどのような子どもにも保たれていると考えることができ、この一線を超える作用はアタッチメントの不安定さであまり説明できるものではないと思っています(非行少年や犯罪者の道徳性や倫理性の問題については、いつか取り上げたいと思いますが、しばしば言われるような規範意識の低さというものを、私はむしろ超自我の過酷さから生じる問題であると思っています)。

実際、アタッチメントの不安定さと外向性の行動問題の関連は認められても、それが非行を予測するかというとその関連はとても弱いものです。非行少年や犯罪者には不安定なアタッチメントを内在化している人が多くとも、不安定なアタッチメントを内在化していることだけで非行や犯罪を予測は出来ません。

そこには他のリスク因子が関わっています。たとえば、次のようなものです。

幼少期:親に犯罪歴があるとか薬物使用がある、身体的・性的虐待を受けた、多動傾向や他の気質的な要因があるなど
思春期:きょうだいや友人、先輩後輩などに非行仲間がいる、親の保護監督が弱い、学業成績が低い、学校からドロップアウトするなど
その他:近所での犯罪発生率が高いとかスラム街などのように(結果的に)犯罪許容的な文化がある、住居が不安定で住環境が整っていないなど

これらの中には、非行・犯罪の右の輪が生まれることに影響を与えるだけではなく、精神衛生上の問題全体に影響があるもの(たとえば虐待など)も含まれていますが、現在の子どもの状態から後の問題を予測し、あるいは現在の非行や犯罪から過去の経験を想像する上では役立つ要素であると思うので、ここに書いています。臨床的には他にも挙げられる要因はありそうですし、非行・犯罪のタイプによってはさらに別の要因(たとえば性犯罪では早期の性的刺激への暴露など)もありますが、研究として分かっている範囲で全般的なリスク因子としてはおおよそこのようにまとめられるのではないかと思います。

こうしたリスク因子があって初めて、右の輪が発展すると考えることができるし、逆に言えば非行や犯罪のあるところには、こうしたリスク因子を見いだすこともできるはずです。

しばらくこのモデルを使って非行や犯罪について話をしていたのですが、現場の家裁調査官や鑑別所の法務技官と話をしていると、当たり前のことですが、非行や犯罪の動機といったことについて、恐れという言葉では整理しにくいことが分かってきました。「遊ぶ金が欲しくて」「バイクに興味があって無免許運転をした」「非行仲間で盛り上がってひったくりを繰り返した」「いいところを見せたくて暴力を振るった」「恋人と一緒にいたくて断れなかった」「むしゃくしゃして水商売っぽい女性を襲った」といったような言葉で表わされる事件の動機は、どれもそれなりに恐れの観点から整理できそうではあるものの、それが現場の人には直感的ではないようであるため、もとのモデルを改訂して、今は下のような図を用いています。

モデル2_3

もとのモデルとあまり違いはないのですが、左の輪と右の輪の間に隙間をあけて、高まる恐れがリスク因子の影響を受けて、非行・犯罪の動機、あるいはある1回の事件の動機へと変わっていくことを表現しました。また、事件の動機は目標としても表現できるため、右の輪の右端に目標を置きました(目標と動機は実際のところあまり区別できないように思うので分ける意味があるのかと思いますが、時々分けておくと便利なことがあるので分けています)。これが潜在的にはかりそめの安心を意味しているのですが、それはあまり表に出さない方がモデルとして分かりやすそうなので、目標とだけしています。

たとえば、どこにも安心できる場がない時に慰めとしてお金を使いたいためにお金を盗むようになったとか、通常のやり方では関係を保てず暴力で不安を解消するとともに関係をつなぎ止めるやり方が身に付いているためにさらに不安にさらされると弱いところを見せないように暴力を使用するようになっているとかいうような、恐れから犯罪性の動機・目標が生まれるという理解です。さらに、この変化にリスク因子が関わっていること、もう少しかみ砕いて言えば、リスク因子に挙げられるような経験が、どのようにすれば安心を得られるかの代替的な手段・目標を本人に示しているために、それが採用されて動機へと結びついていくという理解も加わります。

つまり、非行や犯罪とは、アタッチメントの不安定さを生み出すような経験から安心を得られなくなっている状態で、何とか安心や安定を得ようとするところにリスク因子が作用して、非行・犯罪の動機を形成するようになっていった、誰にとっても不幸な、けれども生存のために手放すことのできない、問題解決の試みなのです。このモデルはそのことを示しています。

長くなったので、支援への示唆は次回にしたいと思います(どうして長くなってしまうのでしょう)。

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