アタッチメントのモデル1

アタッチメントに基づく理解を自分のものにしようとしながら、そうして得られたものを形にして現場の人たちに役に立つものにしたいと思いつつ研修を行なっていると、研修に関する研究というものが成り立つのではないかと思うくらいには、研修の場にも色々なことが起きています。正しい知識を提供すれば事足りるわけではなく、ある関わり方が臨床的なものとなるにはどうすれば良いかを考えるのと同じ程度には、ある話や演習が研修となるにはどうすれば良いかを考える必要があることをいつも実感します。つまり、どこまでいってもこれで良いのだろうという自信を持てないということであるのですが。

それでも、これまでアタッチメントの研修を繰り返してきて、おおよそこのような説明の仕方をすれば、少なくとも何かを学びたいと思っている人には、その人に役立つ何かを残すことができるのではないか、という形が出来てきた気がしますので、それを共有してみたいと思います。学術的に不正確な内容であるつもりはありませんが、厳密に議論しようとすればもっと緻密になるところを、現場で持ち運べる程度のモデルを提供するという趣旨のもとで、コンパクトに図示したものとなります。

全部で3つあるのですが、一度に記すと長くなるため、何回かに分けて説明をしたいと思います。なお、いずれも支援者に向けたモデルです。つまり、どのようにすれば支援者として機能できるか、という研修のためのモデルです。したがって、養育者を支援する上で役立つモデルとはなっていません。このことには注意をしていただければと思います。

モデル1

1つ目のモデルです。研修を請け負うようになって数年が経った頃に生まれてきた、最初の定式化されたモデルです。より正確に言えば、2017年の夏に大きめの研修で話をした際に整理したモデルになります。

モデル1.001

アタッチメントとは危険な状況で生き残るための仕組みであり、その仕組みにもとづいて成立する特定の(少数の)養育者との関係を意味しています。この仕組みを支える生物学的な基盤のことを、アタッチメント行動システム、もしくはアタッチメント・システムと呼んでいますが、その作用を描いたのが、図の左側の3要素(危険、ニード、行動)です。

危険には、アタッチメント理論の初期に、生存にかかわる以下の3種が想定されました。
個体の弱っている状態:疲れている、眠たい、お腹が空いている、病気にかかっている、ケガをしている
周囲が安全でない状態:知らない場所にいる、知らない人がいる、暗闇である、恐い生き物がいる
養育者の利用不可能性:分離、喪失、心理的に側にいない
当然ながら、DV、親の自殺企図、虐待などはさらに危険な状況となり、強い恐怖をもたらします。
危険な状況におかれると、恐怖が高まります。その結果、養育者にくっついて安心したいというニードが自動的に生じます。これがデフォルトです。デフォルトであるということは、もしもこのニードが生じないとすれば、どこかに不具合が生じていると言えることになります。アタッチメントの観点に立つということは、何はともあれ、怖ければ子どもは養育者にくっつくし、大人であっても養育者や身近な他者に身体的に、心理的にくっつくものだ、という考えを基本とするということを意味しています。
アタッチメント行動は大きく2つに分かれます。
くっつく行動:しがみつくこと、後を追いかけること
くっつける行動:泣くこと、呼ぶこと、叫ぶこと
どちらも安全と安心を得るためにくっつくという目標のために組織化される行動です。しかし、この行動の仕方は、年齢が上がるにつれてバリエーションが豊富となり、行動だけを見て、アタッチメント行動かどうかを決定することが難しくなります。年長者になればなるほど、行動の種類よりも、行動がくっついて安心するために組織化されたものであるかどうか、潜在的にそのような方向性を持っているかどうか、という点からこれを判断することになります。

しかし、アタッチメントとは関係的なものであり、幼い個体からのアタッチメント行動に年長の個体(養育者)がどのように応答するかが本質的に問題となります。それが図の右側の部分です。

この応答の質として注目されるのが敏感性です。

敏感性は3つの要素からなると考えられています。
知覚:子どもが危険に遭遇し、恐怖を経験していることを知らせるシグナルを認識できること
理解:そのシグナルがどのような恐怖、どのようなニードを表わしているかを理解できること
応答:その理解に基づいて、適切に、素早く応答できること
たとえば、子どもの泣き声はシグナルです。泣き声に気付かないことはあまりないでしょうが、なぜ泣いているのか、何が必要なのか、お腹が空いているのかも、暑いのかも、おむつが不快なのかも、養育者の姿が見えなくて怖いのかも、といったことを理解し、この怖さを和らげ、身体的なケアが必要であれば提供できるか、が敏感性の高低に関わっています。

養育者の応答が敏感なものであれば、子どもは安全と安心を経験できます。それが上の経路です。これが繰り返されれば安定型(安心感のあるアタッチメント)となっていくでしょう。

それに対して、養育者の応答が敏感さを欠いたものであれば子どもは怒りや敵意、恐怖、無力さなどを経験することになります(なぜ養育者の応答が敏感さを欠いたものとなるかは慎重に議論される必要のあるところです。ここを詳しく述べていないところが、このモデルが養育者の支援のためのモデルではないという、とても大きな理由です。たとえば、周囲のサポートがないこと、経済的に困窮していること、養育者自身が不安定なアタッチメントを内在化してきた、なども養育者の敏感性を損ないます)。

敏感でない応答に、子どもは否定的な情動を経験するばかりではアン苦、養育者の行動を否定的に予測するようにもなるし、自分が相手にとって重要な存在であると思えなくもなるでしょう。しかし、だからといってそこで幼い個体が年長の個体の元を離れて、別のよく世話してくれる個体にくっついていくことができるわけではありません。この環境のもとで子どもは生きていきます。

そのため、子どもは養育者に適応します。そして、そのために、養育者から最低限の(もしくは得られる限り最大限の)ケアを得るための方略を発達させます。そうして防衛的な方略が生まれます。

これは、1つには本来的なくっついて安心するということが成り立っていないために、2つ目には養育者への特定的な適応であって他の人との間では適応的な行動ではないために、3つ目には否定的な情動や他者や自己の表象がそのままになっているために、後の適応に困難を来すことになります。そうしてアタッチメントの不安定さ(安心感のないアタッチメント)は、精神衛生上のリスクとなります。

支援への示唆

さて、このモデルは支援にどのような示唆をもたらすでしょうか。2つのことが挙げられます。1つは、子どもに問題が生じているのであれば、そこには潜在的に恐怖やアタッチメントのニードが存在している、と見なすことができる、という理解です。上に挙げた図を逆にたどる理解です。

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それは必ずしも事実と合致していないかもしれません。けれども、とりあえず理解の難しい子どもの問題を、何か子どもが恐怖を経験し、本当であればくっついて安心したいのに、そうはできないような方略を身につけているために、問題となるような行動として表に現われてきているのではないか、と考えてみることができます。そのような危険な状況として考えられる出来事が何かあっただろうか、と前後の状況を見返してみることができます。

「何を怖がっているのだろう?」という言葉で子どもの問題を見る視点、と言ってもいいかもしれません。

この危険な状況に、不安、葛藤、苦悩、恥、挫折などに関わるできごとを含めてみると、より年長の子どもたちの理解には役立つと思います。「わがままだから」「周りが見えてないから」「我が強いから」「甘えてるから」「自分勝手だから」子どもは行動上の問題を示すわけではありません。むしろ子どもたちは、生存のためのシステムの不具合として、しなくてもよい表現で問題を表現し、そのために余計に問題を抱えてしまうサイクルにいるのです。アタッチメントの観点はそのような考え方を提供しています。

もう1つは、こうした問題に対応するために、支援者の敏感性が問われる、という視点です。養育者が敏感性を欠くことについて深く考えなかったのは、養育者のことよりも、子どもに対応する支援者自身のことを考えることに労力を割くためでした。

敏感性は知覚すること、理解すること、応答することの3要素からなるという話をしました。始まりは知覚することです。細かく言えば、シグナルは色々な形で表わされます。しかし、子どもに問題が生じていれば、そのことは目につくでしょう。それを不具合が生じているシグナルと見なすことはそれほど難しいことではありません。子どもの問題とは、子どもが社会的に困った子どもであることを示しているのではなく、子ども自身がどうすれば落ち着けるかが分からずに困っている、ということを示すシグナルだと考えることができます。

それでは何にどう困っているのか、ということを理解するうえでは、先に挙げた、恐怖とニードを中心に据えたモデルが役立つと思います。色々な理解の仕方はあるけれども、ひとまず表に現われた行動上の問題から遡って、恐怖とニードにたどり着き、それを引き起こした危険な状況が捉えられれば、対応の手立てや見通しを得ることもできるでしょう。私にとって誰かを「理解すること」、話を「聞くこと」とは、この怖さやニードを理解し聞くことを意味しています。

しばしば、アタッチメントに基づく理解と対応というと、「子どもを受け入れること」を頭に浮かべる人が多いようです。けれども、それは間違いです。アタッチメントにもとづく理解と対応とは、子どもを受け入れることではなく、子どものニードに応答することです。それが甘えることを受け入れることである場合もあるでしょう。でも、「子どもの全体を受け入れる」というような漠然とした対応では、何をしているのかよく分かりませんし、支援としてあまり役に立たないでしょう。ある行動を部分的に受け入れるのだとすればそれは何か、またなぜか、ということが説明できる必要があります。それが専門性です。

たとえば、子どもがべたべたと甘えているとして、そのことにぎゅーっと抱きしめてあげると役立つことがあるかもしれません。けれども、それは受け入れではなく、応答です。そして、同時に、それだけべたべた甘えなければいけないということは、それだけ安心できていないのだと、つまり(年齢にもよりますが)、心の中に安心できる感覚が維持されないためにいつもべたべた甘えているのだと、今は何が不安なのだろうか、何がこの子どもを落ち着かなくさせているのだろうか、ということを考えることも求められます。今の状況と過去の状況を照らし合わせながら、「落ち着かないんだね」「いなくならないか不安なのかな」と言葉をかけて、(やはり年齢にもよりますが)怖さを取り扱い、これを和らげるように話をし、活動を共にし、長期的には安心感が内在化できるような相互作用を繰り返していくことが必要であるでしょう。受け入れることではなく応答することというのは、そのような意味です。

長くなりましたが、1つ目のモデルは、アタッチメント理論の基本的な要素を整理したところから生まれた時系列的なモデルでした。これは3つ目によりコンパクトなモデルとして再構成されていきますが、心身に生起する流れを把握するためには、こうした時系列のモデルは頭にあった方が良いだろうと思っています。

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