ネット・ゲーム依存症対策条例とアタッチメント

最近何かと話題の香川県のネット・ゲーム依存症対策条例案ですが、愛着形成の重要性について書かれているということで、法律のことはあまりよく分かりませんが眺めてみました。

まずは素案をご覧ください。

一見するとそれほどおかしなことを言っていないように見えるかもしれませんが、少なくとも愛着(アタッチメント)について書いてある以上、看過できない問題を含んでいますので、以下にそれを指摘してみたいと思います。なお、条例の読み方を分かっているわけではありませんので、その点で誤解があるかもしれません。その場合は、ご指摘いただけるとありがたく思います。

0.愛着への言及

愛着(アタッチメント)について書かれている部分を抜き出してみます。

前文
加えて、子どものネット・ゲーム依存症対策においては、親子の信頼関係が形成される乳幼児期のみならず、子ども時代が愛情豊かに見守られることで、愛着が安定し、子どもの安心感や自己肯定感を高めることが重要であるとともに、
第4条(県の責務)第3項
県は、県民をネット・ゲーム依存症に陥らせないために市町、学校等と連携し、乳幼児期からの子どもと保護者との愛着の形成の重要性について、普及啓発を行う。
第6条(保護者の責務)第2項
保護者は、乳幼児期から、子どもと向き合う時間を大切にし、子どもの安心感を守り、安定した愛着を育むとともに、学校等と連携して、子どもがネット・ゲーム依存症にならないよう努めなければならない。
第8条(国との連携等)第3項
県は、県民をネット・ゲーム依存症から守るため、国に対し、乳幼児期からの子どもと保護者との愛着の形成や安定した関係の大切さについて啓発するとともに、必要な支援その他必要な施策を講ずるよう求める。

これくらいでしょうか。短い条例の中で、ネット・ゲーム依存への対策としてはずいぶんたくさんあるなという印象です。

1.愛着の定義

そもそも「愛着」という言葉が書かれていますが、これはアタッチメント理論が言うところのアタッチメントと同等のものなのでしょうか。それとも独自の意味合いを込めた概念なのでしょうか。

第2条に言葉の定義が書かれていますが、残念ながら愛着とは何かが定義されていません。定義次第で以下の話は変わってきますが、ひとまずここでは通常愛着と言った時に想定されるであろう、アタッチメント理論におけるそれを前提としてみたいと思います。

2.ネット・ゲーム依存とアタッチメント

現時点で、ネット依存やゲーム依存の問題とアタッチメントの問題との関連が盛んに研究されているかといえば、そのようなことはないと思います。もちろん一定の関心は寄せられていますが、少なくとも私の知る限り、まとまった知見を提示できる水準にはなってはいません。

しかしながら、物質依存や他の依存・嗜癖におけるアタッチメントの問題の重要性はつとに指摘されてきているところですので、そこから推し量って、ネット・ゲーム依存のリスク因子としてアタッチメントをあげることそのものは理にかなっていると言えるかもしれません。

それでも、これをもって条例を制定できるほどのエビデンスはありません(私の知る限り)。

3.ネット・ゲーム依存のモデル

そもそも、この条例ではネット・ゲーム依存の発達とそこからの回復について、どのようなモデルを持っているのでしょうか。アタッチメントは確かに精神衛生上の問題のリスク因子です。それは、依存・嗜癖の問題だけではなく、非行・犯罪や精神疾患のリスク因子であると言えます。このことは言葉を変えれば、アタッチメントの不安定さ(安心感のないアタッチメント)が精神衛生上の問題の「全般的な」リスク因子であることを示唆しています。

つまり、アタッチメントの問題だけではネット・ゲーム依存を説明できないということです。また、アタッチメントの問題への介入だけではネット・ゲーム依存からの回復を考えることもできません(基本理念では回復も謳っておらず、「日常生活および社会生活を円滑に営むことができる」としているだけなのですが)。何かネット・ゲーム依存(それぞれ)に特有のリスク因子があるはずです。もしも条例の中でリスク因子を取り扱うのであれば、そのことも取り上げられる必要があります。

私はネット・ゲーム依存にほとんど詳しくありませんが、そのように特定された、専門家に共有され、条例に含めるにふさわしいリスク因子というものはまだないのではないでしょうか。そうだとすると、なぜアタッチメントだけが取り上げられるのか、そもそもどのようなモデルで持って対策に取り組もうとしているのか、ということが問われます。

3.愛着概念の狭さ

条例ではアタッチメントを子どもと保護者に限定して使用しています。しかし、アタッチメントとは生物学的な仕組みにもとづいて、(通常)大人との間に形成される安心を得るための結びつきです。主要な養育者との間に最も影響力のあるアタッチメントが形成されますが、家族、親族、周囲の大人、場合によってはきょうだいや他の子どもとの間にも見られます。

逆境的経験と呼ばれるような境遇に置かれた子どもにとって、このような、主要な養育者以外の、あるいは家庭外のアタッチメント対象は、とても大きな意味を持ってきます。ある有名な著作のタイトルをまねて、angel in the nurseryと呼ばれたりすることがあるくらいです。主要な養育者との間で安心感あるアタッチメントが形成されない時、それでも子どもはどこかに安心を求めて手を伸ばします。そのような仕組みが子どもにはあり、これに手応えを与える人物が求められているのです。

こうした助け手の存在に目を向けず、子どもと保護者の間でのアタッチメントに限定することは、アタッチメントの視点として適切ではありません。

4.アタッチメント形成の支援の不在

むしろ、そのようにアタッチメントを子どもと保護者の関係に限定することは、保護者を追いつめることになります。保護者が子どもの安心感あるアタッチメント形成に責任を持つとすることは、子どもの視点からすると適切な描写です。しかしながら、ある大人と子どもが安心感あるアタッチメントを形成できるようになることを第三者が考えるとすれば、そのように大人の責任を強調する発想は適切ではなく、場合によっては有害です。

子どものニードに大人が応じる時、大人の中の少なくとも2つの生物学的なシステムが活性化します。アタッチメントシステムと養育システムです。前者は大人自身の子どものころからの経験の蓄積として作動します。それはしばしば、不安、恐れ、危機感、無力感、罪悪感、怒り、拒否感、万能感などの、適切とは言えない感情や感覚を伴います。適切とは言えないとはいえ、このような状態になることそれ自体は自然なことです。しかし、やはり大人にとってもこうした感情や感覚は負荷の大きなものなのです。大人も誰かの助けが必要になります。

大人のニードに手応えを与える他者が必要であり、アタッチメントを子どもと保護者に限定することは、この大人のニードを見て見ぬふりをすることに(あるいは気付かないことに)つながります。子どものアタッチメント形成を支援するという点において、養育者の努力を強調することはできません。もちろん努力は必要です。けれども支援者の仕事は、養育者が努力をし、関わり方を試行錯誤することができるように(これをアタッチメント理論では探索と言います)支えることです。努力の強調は、時に暴力であり、潜在的には支援者の無力さの現われです。

条例において何より気になることは、こうした支援の視点が欠けていることです。もう一度条例案を見てみましょう。

第4条は県の責務について規定しているものです。ここで県はアタッチメントについて何をするかと言えば、その重要性について「普及啓発」をするのです。つまり旗を振るだけです。支援には関わりません。第8条の国との連携等でもやはり啓発には努めながら、「必要な支援その他必要な施策を講ずるよう求める」と支援は国に投げています。しかもこの啓発の対象は、おそらく文面から察するに保護者です。子どもと保護者を取り巻く周囲の環境に対して、子どもと保護者が安心感あるアタッチメントを形成できることが大切だと説くのではなく、当の保護者に向かってこれを啓発することになるようです。でも、支援は国任せです。

大事大事と言いながら、自らは関わることをしないというのは、子どもとの関わりに苦しんでいる当事者にとって余計なお世話以外の何ものでもありません。なぜこのような建て付けになっているのでしょう。

安心感のあるアタッチメントを形成する支援であれば、すでに実施可能なプログラムも複数あります。県や市町村のレベルで十分取り組み可能なものであるので、せっかくであればそこで先進的な取り組みを展開してはいかがでしょうか。

5.回復の不在

ここまでのところ、強調点は予防におかれているようです。前文にこうあります。

ここに、本県の子どもたちをはじめ、県民をネット・ゲーム依存症から守るための対策を総合的に推進するため、この条例を制定する。

「守る」ためのものであって、回復を指向するものではないようです。それはそれで大事なことで、まずは予防に力を入れることは間違いではありません。けれども、「対策条例」であるのであれば、現にネット・ゲーム依存の問題を抱えることになった子どもとその保護者に対する回復(をどう定義するかも含めて)の支援についても考えて欲しいところです。これに関する条文は、私が理解できた限り、以下です。

第14条(医療提供体制の整備)
県は、ネット・ゲーム依存症である者等がその状態に応じた適切な医療を受けることができるよう、医療提供体制の整備を図るために必要な施策を講ずる。
第15条(相談支援等)
県は、ネット・ゲーム依存症である者等及びその家族に対する相談支援等を推進するために必要な施策を講ずる。

予防ではアタッチメントに踏み込んでいることに比べると、ずいぶん簡素なものです。アタッチメントが安定的なものとなるような施策を実行することが盛り込まれても良さそうなものですが、それもありません。もしかするとそれは、第15条に含まれるのかもしれませんが、ここまでは項を立ててアタッチメントに言及してきたことを見れば、違いは歴然としています。

アタッチメント形成が重要であるとしながら、その重要な仕事は保護者(と国)が行うべきことで、県はこれに関わらないのだという姿勢が窺えて、それが事実であるとすれば、それはアタッチメント研究者の立場とはあまりにもかけ離れています。

いったい誰が愛着を持ち出したのでしょうか。

いったい誰が愛着を持ち出したのでしょうか(大事なことなのでもう一度書きました)。

6.その他

アタッチメントから離れて、事業者の役割を謳っていますが(第11条)、日本全国、あるいは世界各国で共通に展開しているサービスを香川県の条例によって縛れるのか、その実効性はあるのかということがよく分からないとか、「県民が予防等に必要な注意を払うものとする」(第9条第1項)とありますが、これは何を意味しているのかとか、「屋外での運動、遊び等の重要性に対する親子の理解を深め」(第4条第4項)とありますが、もしかしてこれがネット・ゲーム依存のリスク因子だという認識ですかとか、子どもの対人的な傷つきや空虚感、精神疾患や発達障害傾向などありうるリスク因子への対策は現状顧みられていないのですねとか、今回最も問題となっている1日の利用時間60分の根拠は何ですかとか、ここまで具体的に条例で定める必要があるのでしょうかとか、ゲームの利用は規制してもネットの利用は規制なしであるバランス感覚は何ですかとか、「保護者は、子どもがネット・ゲーム依存症に陥る危険性があると感じた場合には、速やかに」(第18条第3項)関係者に相談し、依存症にならないよう務めなければならないとありますが、条例で規定するほどのことですか、たとえば非行の危険性は、うつ病の危険性は、ひきこもりの危険性はどうですか、それらを差し置いてまずネット・ゲーム依存ですかとか、いろいろと気になるところはあります。ありますが、あまり手を広げすぎても私の扱える範囲を超えています。

7.まとめ

なぜこのようなことになっているのだろうかということを考えてみれば、おそらくは無力感によるのでしょうね、というのが私の感想です。力づくで物事を解決しようとすることの背後に潜む力動は、無力さです。立案した人たちも、これに賛同する人たちも、このような乱雑で乱暴な形での規制を含む条例を打ち出すということは、それだけこの未知の病に無力さを覚えているのではないでしょうか。

そうであるとすれば、それ自体支援の必要なことです。支援が必要であるのは子どもたちばかりではなく、その問題の重みに疲弊している、あるいはそうなることを恐れている、大人たちでもあるのではないでしょうか。

だからといって根拠の乏しい条例が正当化されるものとは思いませんが、子どもと保護者に規制をかけるよりもまずは、政治家が自らが助けてほしいと言えるようになるといいですね、というのが遠くからの感想です。ネット・ゲーム依存にどのように対応すればいいか分からないという大人たちの恐れや不安に手を差し伸べるのが最初の対応ではないでしょうか、というのが遠くからの提案です。次に行うべきことは、それこそ条例の中にある通り、子どもと保護者が「使用に関するルールづくり」と「その見直し」ができるような後押しではないでしょうか、というのが遠くからの称賛です。

そして、家庭の中に問題を閉じこめるような論の建て付けが、家庭教育支援条例などと似ていますね、というのが遠くからの懸念です。

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