欲望の言葉の終わり

子どもや大人の問題に関わる支援者と話をしていると、支援者がしばしば被支援者の目につく行為を、能動的で意図的なものとして表現することに遭遇します。例えば、「わがままばかり言っている」とか、「朝起きようとしない」とか、「自分の欲求を抑えられない」とかいったものです。「抑えられない」とか「できない」という表現も、抑えられなくて、できなくて、しんどいだろうという同情として語られるよりも、「抑えようとしない」「やれるのにやらない」という能動的で積極的な拒否としての響きを持って使われているように思えます。

他者を非難する時、私たちは他者の行為を欲望の言葉で表わしがちです。あるいは他者の目につく行為に欲望を読む時に、私たちは他者を非難しがちです。

このことは言葉の上だけの問題ではありません。むしろ、こうした言葉の用い方の中に、私たちが被支援者をどのように見立てているかということが暗に示されています。目に余る行動がある時に、私たちはそれを意図的で、その背景に欲求があるように認識してしまうのです。

けれども本当にそうなのでしょうか。沢尻エリカさんが逮捕されたニュースが報道された時、使用されたMDMAがセックスドラッグであることが注目されました。逮捕の前日(ひどい話ですが、おそらく警察によってリークされた情報にもとづいて)彼女がクラブで踊る姿が撮影され、後に報道されました。それは単に薬物を使用したことに対する反応以上の非難をもたらします。自堕落で、欲望のままに快楽を求める姿が見えるのでしょう。

けれども、(あくまで一般論としてですが)薬に手を出し、クラブに通い、そのような生活が続いているのであれば、それは孤独や空虚さの裏返しだということを、臨床家であれば考えるのではないでしょうか。そこにあるのは欲望ではなく渇望であり、求められているのは興奮ではなく安寧であり、手にすることのできない平穏の空白を騒々しくも埋め合わせていると、ひとまずは見立てるのではないでしょうか。

子どもが好き勝手に振る舞っている時にも、物を盗み問題となる時にも、自傷によって周囲を振り回す時にも、そこにあるのは欲望ではなく、孤独であり、抑うつであり、苦悩であり、悲しみです。仮にそれが感じ取れないほどに欲求する態度が明白であるのだとすれば、それは抱えきれない苦しみを切り抜けるための埋め合わせの快の追求がパーソナリティに組み込まれてしまっていることを意味しています。それは苦しみがないのではなく、苦しみからあまりに遠くまで来てしまったことを意味しています。

子どもや大人が引き起こす問題の中核にあるのは、手の届かない安らぎに手を伸ばすニードであって、際限なく快をむさぼる欲望ではないのです。

依存症にかかわる治療者たちが、今回の逮捕を受けて、過剰な報道を控え、彼女の出演作の放送取りやめをしないように願い、復帰の道をふさがないように訴えるのは、ただ単に彼女のキャリアの継続を願うからではなく、せめてこれまで顧みられることのなかった生きることの苦悩に対し、他者の目が閉ざされることのないように願うからです。誰かが取りこぼされてきたニードに手を差し出す必要があります。

もちろんそのことは、問題を起こした当人に(子どもであれ大人であれ)責任がないことを意味しません。行為を表わす主体としての一人の人物には、それがどの程度のものとして扱われるかは別として、責任が伴います。子どもであれば発達の途上にある存在として行為の責任は重くは受け止められないでしょう。けれども自らの行いを振り返り、反省し、学ぶことは求められます。大人であれば社会的な制裁を受けることもあるでしょう。それはそれで1つの社会的存在として科される制約です。

それでもなお、このことは中核にあるニードを無視して良いことの理由にはなりません。なぜならそれが損なわれてきたために、社会との境界線上で問題として現出したのであり、このことを無視し、拒否すれば、それは次の問題の火種をセットすることになるからです。もしもあなたがこれに目をつぶれば、あなたはすでに共犯者です。そのような他者の作用を受けながら「私」は行為しています。

本当のところ、どこまでが「私」の責任なのでしょう。

Freudは120年ほど前、心の病の背後に無意識の動機を見いだしました。表立ってこれに同意はしなくとも、現代の心理学は無意識の存在を肯定しています。意識下で作動する力のために、人は意識的なコントロールを超えて問題を生じさせるのです。

Freudが犯した過ちは、これに願望充足という言葉を付けたことだったかもしれません。それは言葉の上だけの問題ではなく、そのように問題を見立てる枠組みを提示したことになるでしょう。人は無意識的な願望のゆえに、その実現を目指して、問題を生じさせるのだと言うのです。

それゆえにFreudはトラウマをうまく理論化できませんでした。その中核は恐怖(精神分析の言葉では不安)だからです。繰り返される悪夢を願望充足は説明できません。Freudはここで、願望の心理学を捨てることなく、死の本能論を導入しました。そうして願望の言葉を固持し続けたのです。

これをKleinは受け継ぎました。しかしながら、彼女自身が気付いていたかどうかは分かりませんが、Kleinによって無意識の心理学に重要な変更が加えられます。死の本能に脅かされる自我の不安が取り上げられたのです。この不安こそが原始的な防衛を発動させ、原初的な対象関係世界を構築する動機であるのです。そうして願望の心理学は不安の心理学になりました。

BowlbyはKleinと精神分析全体への反発とともにアタッチメント理論を構築します。けれども、ある点において彼の理論はKleinと重なり合っています。つまり、人の行動の動機づけの中核に恐怖を置いているのです。Bolwbyはもっと直接的に、恐怖が安心を得ようとする行動を動機づけるのだと言いました。

いずれにしても、すでに20世紀半ばにおいて、快−不快原則は安心−恐れ原則へと変貌を遂げました。

私たちはそろそろ他者の(実際のところ私たちの)引き起こす問題を欲望の言葉で語ることをやめるべきです。欲望とは埋め合わされた欠乏です。求められているのは、もっと穏やかなニードの和らぎです。それが得られない時の苦悩と痛みとが、人を欲望の次元へと駆り立てることになるのであって、欲望が中核なのではありません。

欲望の言葉の時代は終わり、苦悩と痛みの言葉で事は語られはじめているのです。

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