実名で発信をすること

今の若い方はあまりご存知ないかもしれませんが、私がまだ大学院生のころ、臨床心理学の中心は力動的なそれでした。来談者中心療法と精神分析の折衷を掲げる臨床家がたくさんいて、傾聴訓練などが流行ったりもしていました。認知行動療法が出てきたのは2000年代に入ってからでした(日本では)。

精神分析はご存知の通り(とは言っても、今ではあまり言われなくなりましたが)、「分析の隠れ身」と言われるような、治療者の実像をあえて隠すことをその治療設定の一部として持っています。実像が欠けたところに空想が展開するためです。精神分析とは内的世界という、私たちが生きるもう1つの現実を取り扱う方法です。その世界を浮かび上がらせるための設定が、中立性や分析の隠れ身であるのです。

このことは、精神分析家(および精神分析的な心理療法家)が社会から消えることを意味します。というのも、何かを発信すれば、それだけ分析の設定が損なわれることになるからです。そこにいるにもかかわらず、それが誰かが分からない、そのような存在としてクライエントや患者、あるいは社会の目に映ります(あるいは映りません)。

臨床心理学が長く力動的な流れを汲んで発展していた頃は、臨床家というものは、そのように自分のことを表に出さないものだという通念がありました。その時代を生きた臨床家のすべてがそれに同意をしていたわけではないものの、これはある程度共有された考え方でした。たとえば名前を名乗るかどうか、訓練歴や臨床歴を伝えるかどうか、セッション中に自分の意見を言うか言わないか、非常勤なのか常勤なのか、非常勤の場合には他の日にはどこで何をしているのか、結婚はしているのか、子どもはいるか、といった事柄について、黙して語らないことがスタンダードであるとされていました。

今でも継承されているものもあれば、精神分析の中だけで継承されているものもあります。今では放棄されたものもあります。その基準や是非はこの記事の範囲ではありませんが、そういう時代があったのですね。

その余波は、今でもたとえば、ネット上で実名で発信をするかどうか、というところに現われています。ネット上で実名を出すことは、一般的な感覚としても躊躇されるところがありますが、臨床家であることを理由にこれに抵抗を覚える人も少なくないでしょう。というのも、どのような研修に行ったとか、どのような人とのつながりがあるかとか、どういったことに関心があるか、どんな映画を見て、どんな話題に触れて、昨日の夜何を食べて、誰といたのか、ということは、クライエントや患者の期待、空想、態度に影響を及ぼすからです。そして、しばしばその影響はこちらが想像できないものであるからです。

どの人も、自分の実像をまったく隠してしまうことはできません。見た目、話し方や聞き方、頭の回転や記憶力、その他一般的な性格、部屋の整え方、迎え入れ方、他の同僚との関わりや関係性、仕事上の立場といった情報は、好むと好まざるとにかかわらず伝わっているものです。けれども、臨床場面では、それは共有された現実です。たとえ空想に彩られているとはいえ、あるいはその人なりの認知的な傾向を反映しているとはいえ、素材は今ここにある自分の姿です。

それに対して、ネット上に出てくるものはもう少し違った特質を持っています。1つは関係的な文脈の欠如です。ネットに出てくる情報は、ある特定のクライエントなり患者なりに向けたものではありません。想定された読み手に特定の1人(ないしは特定の少数の集団)を考えることは通常ないわけです。クライエントや患者(たち)に向けた発信は、臨床場面でやればよく、ネットである必要性はありません。むしろ、もっと個人的な、あるいは社会的な文脈の中で発信が行われています。このことは、今ここではない自分の姿を示していることになります。同様に、時間的な文脈の広がりも挙げることができます。ネットに乗った情報は、後から検索可能です。ある特定の人(たち)との特定のやり取りの中で生じたその時の言動や表現ではなく、どの発言も(誰かに向けたものであれそうでないものであれ)時間的に隔たった未来から参照される可能性があります。場合によっては、そうした臨床家の発信に対する他者の反応も目に入ります。それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、臨床家とクライエント・患者の関係の中に他者の存在が浮かび上がります。さらに、(これは臨床家自身の振る舞いの問題ですが)、クライエントや患者の目に映ることが意識から抜け落ちた発言が行われやすいというのも、ネット上の発信の特徴でしょう。

それが支援・治療上、影響のあるようなアプローチを取っている臨床家もいれば、そのことがそれほど影響を及ぼさないアプローチを取っている臨床家もいるだろうと思います(影響がないように見えても実は影響があるのではないでしょうか、というような議論はとりあえず置いておきます)。そして、精神分析的なそれは、間違いなく影響を与えるアプローチです。

それでもなお、私がこうして実名で発信をしているのは(というのがこの記事の本題なのですが)、1つには精神分析的立場をとる人たちがあまりにも社会から姿を消して見えるからということと、私のもう1つの専門がアタッチメントであることと、いずれにしても私の関心が個人と社会の接点にあるからということがあるのだと思います。

社会の中で重大な事件が起きた時、大きな事故があった時、あるいは社会的に大きな動揺を招くような出来事があった時、日本の精神分析界は個人としても集団としても、取り立てて何も発信をしてきませんでした。精神分析が役に立つのは面接室の中に制限されるわけではないにもかかわらず、です。私が精神分析界を代表してそうした発信をするといった気概はまったくないのですが(申し訳ありません)、もっとできることがあるのではないですかね、という思いを大学院生のころから持っていました。

これは特に、私のもう1つの専門がアタッチメントであることも関係しています。子どもの養育について、養育者の苦労について、それを支える社会の風土について、そしてその制度化されたシステムについて、語るべきことがあるのではないかと、もしも精神分析が乳幼児期を重視するのであれば、その時代を健やかに(という言葉はまったくもって精神分析に似つかわしくないとしても)通過するために何がなされるべきなのか、伝えなければいけないのではないかと思うわけです。あるいは、たとえば今の感染症の流行のように、大変な時期を過ごす人々がその大変な時期を通り抜け、自分を取り戻すための手助けだってできるだろうと思うわけです。

残念ながら沈黙は雄弁ではありません。沈黙は沈黙です。

実のところ、こうした発想がそもそもどの程度精神分析界隈で共有されているかもよく分からないのですが、どうなのでしょうね。

私は犯罪に関心を持っています。今では社会的擁護の領域にも参加していますが、それはもともと犯罪の(たいていの問題はそうなのですが)最初の予防は乳幼児期にあると思うからでした。たとえ非行・犯罪と呼ばれないにしても、sub-criminalと言えるようなことは子どものころから起きています。そして子どもに対しても起きています。子どもの精神に振り下ろされたその衝撃をトラウマと呼び、社会的に定位されたそれを虐待や不適切な養育と呼んで、子どものsub-criminalの現われは「問題行動」と呼ばれます。問題は関係の中で起きています。やがて個人に内在化された問題の種は、社会との接点で発芽します。それが犯罪です。犯罪とは個人の問題が社会の問題へと発現することを指していて、そこには社会との関係の文脈が介在しています。

実際のところ、犯罪に限らず、どの個人も社会的な存在である以上、個人的な問題は社会的文脈の中で(最低限、関係的な文脈の中で)現われ、その文脈の中に現われ、そしてその文脈の中で変化をしていきます。臨床家はこの文脈から離れた特別な空間における関与者であるのではなく、この特別な空間もまた文脈の1つを成しているのだと私は思っています。ある人の生きることを包む社会システムと、社会の中で生きるある人と、その両者に言葉を届けることには意味があるのではないかと、精神分析的な立場を取ることはこの放棄の理由にはならないのではないかと、その接点で行われる仕事があるのではないかと、そんなことを考えながらこうしてnoteを書いています。あまり人にお勧めできることでもないのですけどね。

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