慰めの病理

性犯罪が性欲の問題ではなく、支配欲の問題だということがだんだんと言われるようになり、この問題についての認識が変わってきているように思います。広く臨床心理学一般にまでこの認識が広まっているとは思いませんが、たとえば児童福祉の領域や精神医学の領域では、徐々に新しい理解に置き代わっていっているのではないでしょうか。

人の心のことなので、何が正解で何が不正解ということを淀みなく言えるものでもないのですが、ある理解では何かがずれていて、起きていることのいくつかの部分をうまく説明できないのではないか、と思う理解が変更されていくことは、ありうべき動きのように思います。

ただ、私はあまりこれを支配欲の問題とも思っていないので、本当にそうなのでしょうかね、と最近の動向を眺めながら思っています。

出発点

たとえば、(一般に性犯罪に数えるわけではありませんが)児童養護施設の中で子ども同士の性加害/被害が起きることが問題として注目されていますが、それは他の子どもを支配するために行われるのでしょうか。大人から子どもへの性的な虐待も、その本態は支配なのでしょうか。言葉を変えれば、支配が出来れば手段は性的でなくてもいいのでしょうか。相手が不特定な痴漢、あるいは非接触性犯と呼ばれる盗撮、下着盗なども、何か支配をもくろんでいるのでしょうか(空想の中で部分対象を用いて全体対象を代替し、好きに使用することで相手を支配しているという理解が可能かと言えば、可能だろうとは思いますが)。仕事でうまくいかなくて家庭内で強制的な性交を求めることの動機は、支配することにあると理解するのが適切なのでしょうか。それを拒否されて道行く人を襲うことが支配のために行われるのでしょうか。

あまりそうは思えません。

あるいはそれが支配に思えても、その背後に別の欲求が潜んでいそうな、あるいはそのように想定することが困難な、支配欲求というものに私自身は出会ったことがありません(同じようなものにサイコパス概念などもあります)。そのため、支配欲求を基本におく考え方にそもそもなじみが薄いのです。

たとえば、支配欲求がその背後に別の欲求を想定することの出来ない欲求であるとして(これを基本的な欲求と呼んでみたいと思います)、そうであれば、性犯罪からの回復は「もっと良い支配」を考えることになるのでしょうか。いくつかの点でそれは考えにくいように思います。というのも、「もっと良い支配」を私たちは社会的に許容しないと思うからです。もしもそれが人間の基本的な欲求なのであれば、「もっと良い支配」を前提に社会は成立しているのではないでしょうか。私たちが一般に支配を望まないのは、「もっと良い支配」を「実行」できるからではなく、支配という形で関係を営まずとも満たされた関係を持つことが出来るからではないでしょうか。

もしも支配欲が基本的な欲求で、なおかつもっと良い支配が許容されないのであれば、残された解決の方法は我慢することです。それはとても望みの薄い方法で、現代風に言えばリラプスが生じます。私たちはリラプスを迎えることなく生きていられるから、性犯罪者にならないのでしょうか。あまりそうも思えません。

実のところ、支配欲求を持つことそのものが何かの歪みなのではないでしょうか(支配欲求というものが人にまったくないとは言いませんが)。つまり、支配を求めることそのものは病理の原因ではなく、むしろ結果なのではないでしょうか。

それが出発点です。

性犯罪の動機

もちろん、すべての性犯罪に支配欲求が関わっているわけではありません。一口に性犯と言っても、そこに含まれるものも一様ではありません。そのため、一応の切り分けをする必要があります。たとえば、支配欲求は関係がない場合、支配は生じているけれども欲求ではない場合、支配の欲求と性的欲求とが併存し、後者が優勢である場合、前者が優勢である場合、などです。

そのため、これから先は、支配欲求が目立つ、あるいは支配をしようとしているということが考えられる場合に話を絞りたいと思いますが、考えるべき要素は今触れたように、2つあるように思います。1つが支配、もう1つが性の問題です。

支配

支配から考えたいと思います。支配をするには「支配をされる人」が必要です。支配される人のいないところに支配は存在しません。支配される人がいて始めて、その人は支配が可能なのです。その意味でこれは、関係論的な願望であり、実のところ他者依存的な状態です。なぜそのような他者が必要なのか? ということを問う必要があるように思います。支配欲求について考える時には、これが重要な問いになると私は考えています。

たとえば、もしも支配が性的欲求を満たすために用いられているのだとすれば、それは手段です。性的欲求が動機であり、それを満たすことが目的と言え、支配することはその手段です。この場合、支配は欲求とは言えないでしょう。力づくで押さえつける、脅す、無言の圧力をかける、言いくるめる、様々な形を取りますが、その目標が性的満足を得ることである場合、やはりこれは性的な問題なのだと考える必要があります。つまり、加害者臨床における犯罪からの回復においては、どうやってより良い性的な満足を得るか、を考えることになります。

そうではなくて、もしも支配欲が主要な動機であるのだとすれば、支配される人を求めている、ということを中心に考える必要があります。ここからはいくつかの問いが生まれます。どのような人を「支配される人」として必要としているのか? あるいは支配される人はどのように選ばれるのか? この問いは被害者学victimologyとして検討されるものです。そもそも支配される人を必要とするとはどういうことなのか? 支配される人なしに成立しえないその人とは何なのか? 支配する側の問題については、それも考える必要があります。

そのヒントはしばしば支配者の言動に浮かび上がります。たとえば、男性と女性の組み合わせにおいて、「お前が俺を不機嫌にさせた」と男性が女性に怒りを向け、公衆の面前で土下座をさせたり、それこそ性的に奉仕することを求める場合、この男性は不機嫌にさせられたことを建設的に話し合えないことを示しています(繰り返しになりますが、ここで性的に満足することが目的になる場合は、支配欲より性欲であり、奉仕させることが目的になる場合に支配欲を考えることが出来ます)。建設的に話し合うとは、不機嫌になったことを伝え、どこに問題があったかを明らかにし、次に問題が起きないためにはどのようにすれば良いかを考え、非があればそれについての謝罪が行なわれる、そのような対人的な過程です。もちろん、怒っているからと言って非があるのが女性であるとは限りません。男性に非があったかもしれません。女性に非があったとしても怒るほどのことではないかもしれません。怒ることに正当性があるからと言って支配が正当化されるものではありません。そのような細かい区別が治療上のアセスメントにおいては求められますが、それはともかく、ここには不機嫌になることを他者の隷属なしに取り扱うことのできない姿が浮かび上がります。相手が悪かったと認め、これを「過剰に」償わなければ、不機嫌さを立て直すことができないのです。

支配とはそのように、自分の扱い切れない情動を他者の服従を通して和らげる関係性であると私は考えています。

そして、そのために支配とは基本的な欲求ではないように思うのです。むしろ、この「不快感を和らげる」ということが本態となる動機であり、そのためには誰かにこれを和らげてもらわなければならず、健康な場合にはここでいったんそれは人に期待することなのかの確認が入るところ、その過程は飛ばされて、その上さらにこれを「和らげさせる」という強制的関係を目指し、したがって相手を支配する関係を構築する、というプロセスが瞬時に起こっているのだと考えています。この確認の過程が飛ばされて、なおかつ強制性を帯びるところに支配の病理を考えることが出来ます。それでも、これは支配「欲」ではなく、むしろ「不快を和らげる欲求」の病理的実行であるのではないでしょうか。つまり、支配欲は二次的なものではないでしょうか。

どれだけ強く、居丈高で、尊大で、威圧的で、自分勝手に見えても、支配される他者を必要としているということは、そのように怯え、屈服し、脅威のない、むしろ惨めで、ちっぽけで、みすぼらしい他者によって、自分の苦しみを脅かされることなく取り扱われることを求めているのだと考えられます。他者をそのような地位に持っていくことを目指して支配は行われているように思えます。

むしろ支配によって防衛しているのは、このような惨めで、ちっぽけで、みすぼらしく、怯え、屈服し、脅威を覚える自分なのだと思います。これを他者に押し込むことが支配を構成しています。このことが被害者学と、ひょっとすると被害者の回復における重要な論点であると思っています。

性についてはどうでしょうか。支配に比べれば、性の問題はマスターベーションなど、他者を必要とせずに済む側面もあります。それは関係的なものではありません。しかし、通常マスターベーションには空想が伴います。そして空想の中では通常、何らかの性的関係が存在しています(それが部分対象的なものであれ)。そのために、性もまた関係論的な欲求であり、他者を必要とするものです。

健康な場合であれば、性的欲求はセックスにおいて満たされます。しかし、この場合、性的な満足は、つまりセックスは、相互的で互恵的なものでもあります。つまりお互いの満足を求め、得られるもので、どちらかの満足だけで終わるものではありません。そして、他者の満足を知るには想像力が必要です。とりわけこのプロセスには、精神分析が健康な投影同一化と呼ぶ共感のメカニズムが働きます。どこをどのように刺激すればどのような快が(もしくは不快が)生まれるのかを、自分を重ねながら想像することで、他者の満足を引き起こし、それだけではなく、さらに他者の満足が自分の満足となることも可能ならしめます。セックスにおける融合した経験はここに由来しています。

この投影同一化が適切さを欠く時に(端的に共感と言って良いと思いますが)、セックスは一方的なものとなります。これについては、相互的な満足の読み取りが誤っているために一方的になっているのか、誤りの程度が重大で苦しみを満足と取り違えているのか、そもそも相互的な満足を目指していないのか、むしろ相手の苦しみに性的満足を感じるのか、といった違いによって理解が異なりますが、いずれにしても性行為を動機づける性的欲求は一般に、基本的な欲求であると考えられているでしょう。

しかし、性犯罪を含む性的な問題が生じるところでは、必ずしもこれが当てはまらないと私は考えています。たとえば、ストレスを感じて犯行に至るということが、非常にしばしば起こります。場合によっては恋人(配偶者)との諍いの後に犯行に至るということがあります。また、犯行に及ぶ代わりにマスターベーションが使われるということがあります。あるいは、性被害に遭った後で、同じような立場の、同じような年齢の、同じ性別の、誰かに対して性加害をするということもよくあります(児童養護施設で性加害が起きた時には、まず性被害を疑う必要があります)。

こうしたことは、性的行為がたんに満足のために行われているのではないことを示しています。むしろ、苦しみを取り除くために使われている可能性を示唆しています。実際、マスターベーションは日本語で自慰と言います。他者を性的に(性的でなくとも)いいように扱うことを慰み者にすると言います。ここに暗示されているのは、性的満足とは慰めでもあるということです。そして、性的欲求のある部分はこの要素を色濃く持っていて、とりわけ性犯罪においては、性的関心からよりも、苦しみからの性による開放を目指していると考えられることがしばしばです。

そのために、性もまた手段であるのだと言えます(というよりもおおよそ「依存」とされる問題の背後には、この慰めの動機が強く作用しているのだと私は思っています)。

慰めの病理

したがって、性犯罪とは、慰めを支配と性を通して手に入れる病理なのだと私は考えています。得られる結果から考えて自己の安定を手に入れる、と言ってもいいかもしれません。確かに支配は重要な要素です。性暴力という言葉で表わされる通り、ここには暴力的な要素が備わっていて、単に性的欲求だけであれば、独りよがりの満足として批判されることはあれ、被害は生じにくいところ、暴力的、支配的関係の中で性の満足が目指されるために、「被害者」が生みだされてしまいます。その意味で支配は重要な要素です。当然、支配の問題をどう扱うかは治療上、とても重要です(治療関係に支配–被支配が転移します)。

それでもこれを支配「欲」と捉えることは適切ではないのではないか、というのが私の理解です。これはむしろ、支配という防衛なのだと思います(特に治療状況においてこのことは明確になりやすいです)。この防衛が他者を巻き込むものであるだけに、被害は甚大になっていきます。

ついでながら、この防衛の成立に男性優位の社会構造は影響を与えるでしょう。けれども、それは犯罪を形成する動機ではありません。さらについでに付け加えれば、レイプ神話を原因とするのも間違っていると私は思います。レイプ神話があるからレイプが起きるのではなく、むしろそれはレイプを正当化するための方便として理解できます。これもまた、合理化という防衛として考えられるものだと私は思っています。

性犯罪の問題を抱えた人には、向こうずねのような急所があって、そこを打たれることで生じる苦しみを、その不快感を解消するために、支配と性の行動が引き起こされます。言ってみればそれは、同じ源泉を持った支配と性という双子が手を取り合って引き起こす犯罪なのではないかと思っています。

慰めと自己の安定化がより建設的で、社会的な手段で達成されるようなパーソナリティへの変容がないことには、支配と性のコントロールを目指しても、リラプスに至るだろうというのが私の理解です。そして、より穏やかな形で慰めを得る段階にまで至らなければ、他者の苦しみは理解できないし、罪悪感と償いを本当に経験することも出来ないだろうと思っています(その意味で、性犯罪者のみならず、犯罪者に反省を求めることは、分からなくはないけれども被害者救済という点でも再犯防止という点でも効果の薄い試みだと言わざるを得ないと思っています)。

弁慶の泣き所の意味するところとは異なりますが、この急所には悲しみがあります。しばしばそれは封緘され、石化し、あるいは凍りついています。ここにたどり着くことが治療の目標であり、この心的過程が動き出すことでようやく被害者の痛みを理解する能力が動き始めるのだと思っています。

ここにどのような苦しみと悲しみがあるのか、なぜそれが支配と性とで防衛されるのか、ということについてはまた長い理屈があって、それはそれで重要な要素です。ただ、だいぶ長くなりましたので、それについて思うところはまた別の機会に書いてみたいと思います。

支配と被害者性

最後に1つ、付け加えておきたいと思います。

この支配欲求による性犯罪理解がどこから生まれてきたものなのか、私はよく知りません。最近になって目に付くようになったという印象を持っています。そして、この理解は被害者支援の人たちになじみが良いように感じています。(もしそういうことがあるとすれば)それは一理あることのように思います。

たとえ犯罪者側の動機が支配欲求によるものではなく、いまだ気付かれていない苦しみにあるとしても、被害者の経験は支配されることであったでしょう。脅かされ、屈服させられ、辱められ、望んでもいないことをさせられる経験であったと思います。支配とはそのようなものです。しばしばその経験そのものが、加害者に押し込められた、もともとは加害者の経験であったものです。

そのため、ここに支配の要素が含まれていることを強調することには、「『それ』は被害者が望んだことではない」ということを訴える意味があります。もっと言えば、「この苦しみは『私』のものではない」「押し付けられたものだ」という主張を込めることができるかもしれません。もしもそういうことがあるとすれば(私は被害者の支援にそれほど関わっていないため、分かりませんが)、支配の問題は防衛としてではなく、関係そのものとして重要になってきます。

支配とはある意味、主体を奪われ欲望の対象とされることです。望むことなく支配と性と慰めの対象とされた時に、それが支配であったと定位することは主体回復のプロセスを構成します(いじめ被害からの回復でもそうですが、この認識自体がしばしば非常な苦痛を伴うものでもあります)。この時に、加害者の支配的行為が、背後に「欲求」を持った「加害者」の「行為」に見えるのは当然のことなのでしょう。そしてそれは被害者の回復においては必要なことかもしれません。

これはまた、加害者の回復と被害者の回復とでは行われる作業が異なることを意味しています(だからこそ書くのが難しいのですが)。

そのような経緯があって支配欲が強調されていることがあるとしたら、それに対して私はどのような態度を取るべきか、考えたりもします。ただ、最終的には事実に即しておく方が、後々の齟齬が少なくなると思っていますので、支配欲ではなく慰めの病理なのだと思うのであれば、そのように論じていきたいと思っています。というよりも、私には事実とおぼしきものを書き記していくしか出来ることがなさそうに思うだけなのですが。

犯罪は誰にとっても幸せなことではなく、多くの憎しみに彩られています。憎しみの中に慰めの動機を捉えようとする作業はあてどなく思えるだけではなく、社会的には許容しがたいところもあるでしょう。犯罪者との作業は、ただ二者の作業であるだけではなく、その被害が社会に開かれている程度に応じて、社会に開かれています。誰のための作業か、ということをいつも問われています。治療そのものにも憎しみが向けられやすく、それを引き受けるのも治療者の仕事であるのでしょう。

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