アタッチメントとメンタライゼーション

私が今ではメンタライゼーションと呼ばれる考え方に出会ったのは、2002年ごろだったと思います。日本では比較的早い段階でこれに触れた世代だったのではないかと思います。とは言っても、その時すでにFonagyは著名な研究者であり、その時点で今につながる発展は始まっていたのですが、その頃はまだ、数ある精神分析とアタッチメントの再接近の一例としてこれを理解していました。

数年間、片手間にメンタライゼーションを追いかけつつ、私の印象に残ったのは、これは精神分析なのだろうか、という問いと、多様な要素を統合しすぎた理論的な継ぎ接ぎの感覚と、実証的な心理療法的アプローチのある種の現実化と可能性でした。

同時にこれはアタッチメント理論の中に含まれるものだろうか、とも考えていました。メンタライゼーションから見るとアタッチメントは密接な関連を持つものですが、アタッチメントから見るとメンタライゼーションはそれなしでも話が成り立つものです。実際、私はメンタライゼーションと一定の距離を置きながらアタッチメント研究にかかわってきました。

いくつかの疑問はある程度解決し、いくつかは未解決なままですが、後者の1つとしてアタッチメントとメンタライゼーションの臨床実践の差異がありました。それが明確に何であるかは分かりません。両者の接続の、どこにノイズを感じるのだろうかというが、しばらく疑問だったのです。メンタライゼーション・アプローチが注目されるようになったここ数年間は、より一層このことを考えてきました。

最近、それが少し整理された気がします。

以前から私は、メンタライゼーションには「中心」がない、ということを言って来ました。アタッチメントの中心は恐怖です。Bowlbyは恐怖を情動として扱うよりも、アタッチメントと同じ生物学的行動メカニズムの種類と捉えていたようで、感情には恐れという言葉を当てているため、中心は恐れといってもいいかもしれません。伝わりやすさで言えば、恐怖や不安がいいでしょう。それが中心にあります。

「中心」という言葉で私が意味しているのは、問題を引き起こしているものとして私たちが理解し、介入する際に、何を想定するのか、という文脈でのその対象です。精神衛生上の問題の動因は恐れにあり、この恐れから派生する防衛的な方略、情緒的不安定さ、行動制御の困難に取り組むとともに、これらを引き起こす恐れを和らげるべく介入する、というのがアタッチメントの枠組みだと私は理解しています。

他方、メンタライゼーションにはこれがないのですね。臨床実践上、問題を引き起こしているものとしてむしろ何も想定しないことが推奨され、何を感じているか、何を考えているか、ということを本人が分かるようになっていく、その過程自体に焦点を当てるというのがメンタライゼーションのアプローチであるように思えます。介入の焦点はメンタライジングの過程であり、またその能力であるように思えます。

このようなメンタライジングの特質を、私はしばらく自我心理学における「観察自我」であり、そのアプローチとは観察自我の強化であると理解をしてきました。自分の心の中で何が起きているかを理解できる能力、というふうに単純にいうことができると思っています。

それに対して私なりのアタッチメントのアプローチは、自分の中に恐れがあってその慰めを求めていることを想定し、その実際のところを理解し、それにもとづいて振る舞えるようになることだと整理しています。それが「中心」があることとないこととして私が考える違いです。

最近、このことをもう少し違った表現で考えています。

そもそもBolbyはアタッチメントを、人が本能的行動を示す基底にある動機づけシステムのうちの1つとして考えていました。危険に際して個人を強くて賢い、特定の結びつきをもった他者に近づけさせる生得的なシステムであると考えていました。アタッチメントとは動機づけシステムを表わしているのです。

それに対して、メンタライゼーションは、アタッチメントの仕組みに沿って養育者との関係の中で表わされる内的状態を表象すること、もしくはその能力を指しています。初めは養育者によって、やがてその能力を内在化することで、人は内的状態を理解できるようになります。これを表象システムと呼んでみましょう。

このように並べると、両者の関係がだいぶ整理されやすくなったように思います。

アタッチメントは人を突き動かす動機づけシステムであり、メンタライゼーションはそれが心的なものとなるところの表象システムである、ということになります。メンタライゼーションそのものに人を動かす力はなく、むしろ動機の作用の制御因子として位置づけることができるのですね。

変化をもたらす上で、その経路が必ずしも表象でなければいけないわけではありません。とりわけ幼い子どもにとっては行動で理解や意味を伝えるような、行動的言語の使用も重要でしょう。たとえば騒がしい子どもに何を言っても騒がしくなるようであれば、じっと黙って見ている、待っているという方法の方が子どもの心に訴えるかもしれません。私の感覚ではこれは、表象水準ではなく、動機づけ水準の、その組織化へのアプローチです。

あるいはまた、動機づけシステムの作動する過程は必ずしも表象システムにおいて表現されるわけではありません。たとえば、怒りに満ちた状態にある人が(それは恐怖や痛みによって動機づけられていると考えることが出来ます)、人をなじり、反発し、挑発する時に、ふとため息をついて緊張をほどくかもしれません。本人はそれに自覚的でないとしても、このことは情動制御における下方制御がある程度機能していることを示しています。これが意識されることもあれば(つまり表象システムによって意識に反映されることもあれば)、そうでないこともあるでしょう。

人の動きは動機づけシステムを基底に持ちます。表象システムはおそらく、その作用を意識的操作の対象とし、持続的に、柔軟性を持たせて扱うために必要なのです。その意味で両者は相補的であり、けれども人が変化するということの主要な、直接的な要素は、動機づけシステムの変化である、と私は考えています。それが、「中心」という言葉で表わそうとしていたものだったのですね。

メンタライゼーションはアタッチメントにもとづいて理論を構築するのに、実践上なぜ中心を持たないのか、ということ、メンタライジングは精神衛生上の問題の重要な要素とされるけれどもそれは動機ではないということ、それがノイズを構成していたようです。分かってしまえばあっさりしたものですが、そのおかげで両者を少し扱いやすくなりました。このような理解が、今現在メンタライゼーションを熱心に学んでいる方にどう映るかは分かりませんが、私は私なりの理解にたどり着いて、ちょっと落ち着いた気がするのでした。

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