しつけとアタッチメント

この話題は、ちゃんと書こうと思うと、ちゃんとしないといけないので、本当に覚書のための備忘録のようなものです。アタッチメント形成はおおよそ人生の最初の2年の間を一区切りとして考えることができますが、2歳以降、アタッチメント研究は養育者の関わりの質を課題場面で捉えることが増えてきます。それは子どもにとっては少し難しい取り組みに対して、養育者がどのように子どもを支えるか、という視点で評価する枠組みなのですが、日常生活では子どもの活動が広がりを見せる時期でもあります。テーブルに座って食事をする、人を叩かない、積み木をしたりクレヨンを使ったりする、着替えをする、自分で靴を履く、早ければトイレットトレーニングがある、などなど、子どもは日々新しいことに取り組み、それを吸収していきます。幼児期の始まりです。

しかし、この過程がすんなりと進むわけではなく、目の前のことに集中しないで気がそれる、じっとしていられなくてうろうろする、できないと思うと放棄する、やってやってとせがむ、大人が頑張らせるとわざとふざける、しかも朝の忙しい時に限ってそんなことをする、養育者はカッカする、子どもはもっとふざけて逃げ回る、遊ぼうとする、怒られる、泣く、もっとできない、といったようなバタバタとした日常を過ごす時期かもしれません。

2歳以降は、身体機能が発達するとともに、新しい技術を身につけ、試み、探索を深める時期であり、同時に養育者によるしつけの始まる時期でもあります。

このちょっと難しい、でもやってみたい活動が目の前にあって、あるいはちょっと難しい、だからやりたくない、でもできるようになる必要がある活動が目の前にある時に、「できない」というネガティブな情動を伴う苦悩に幼児と養育者は取り組む必要があります。

アタッチメントとは、本来的には生存のための機能であり、それは危険から身を守り安全と安心を確保する仕組みと、それに基づく子どもの養育者への結びつきです。したがって、こうした課題場面での苦悩は、狭い意味でのアタッチメントとは関わりを持ちません。けれども、難しいことに取り組む際の情動調整(制御)を子どもと養育者の二者間で調整する過程であると考えると、アタッチメント関係との近似性が出てきます。そのために、アタッチメント研究は課題場面での相互作用を観察することへと移っていくのでしょう。

ただし、アタッチメント研究で取り扱う「課題」とは、パズルのような、子どもが取り組んでみたいことであり、探索に位置づけられるのに対して、しつけは社会的なルールを学ばせることであり、子どもの行動に対する枷をはめる関わりでもある点が違います。前者はまだ楽しめるであろうはずの自発的な行為であるのに対して、後者は本質的に不快さを招く大人からの関わりです。つまり、ここには、本来的に強制的な大人側からの関わりを子ども自身の自発的な探索とどのように調和させるか、この調和が簡単にはなされない時にその苦悩を二者はどのように調整するか、という問題が生じる必然的な構造があるわけです。

これは少しだけ、「解決のない恐怖」と似ているのだと思うのですね。解決のない恐怖とは、本来であれば逃げ込む先の養育者に恐怖を覚える経験のことで、代表的には虐待であるし、養育者による子どもの威嚇です。アタッチメント研究では養育者の怯え/怯えさせる行動によって子どもが経験する状態として考えられています。恐怖をかき立てられてアタッチメントシステムが活性化し、アタッチメントシステムが活性化するために養育者に近づきたくなるが、その養育者が恐怖の源である、という解決不能な状況のために、子どもに恐怖が刻まれる状態を指していますが、しつけもまた、養育者によって枷がはめられ、それが苦しみを生み、そこから逃げ出すとともに養育者に助けを求めたくなるが、その養育者が苦しみの源である、という状況だと考えることができるわけです。もちろん、解決のない恐怖ほどの深刻さはありませんが。けれども、そのような解決不能性が備わっているために、養育者としては自分で取り組んで欲しいことなのに養育者を頼る、その場で取り組んで欲しいことなのにあらぬ方向へ逃げ出す、ふざけて場を混乱させる、固まって動かない、といったような、解決のない恐怖かで子どもに生じるのと同様の、よりマイルドな反応が起きるのだろう、と考えてみることができそうです。

何が言いたいかと言うと、しつけを子どもにとってのマイルドな恐怖場面と見なすことができるのではないか、ということです。解決のない恐怖のように、養育者が恐れの源です。それにも関わらず、解決のない恐怖状況とは異なり、養育者は支持する人でもあり、しかし、アタッチメント相互作用であれば養育者が危険の源を取り除くということがあり得ても、しつけの場合には恐怖の対象に取り組むことが促されることになるでしょう。これはかなり複雑な状況です。というのは、養育者は子どもに苦悩を引き起こしながら、養育者の元へと逃げ込めないために高まる子どもの恐れを和らげ、そのように養育者自身は苦悩の源でありながら助けの源として関わり、しかも恐れの高まりの中で子どもに探索を促す、という矛盾した作業を行うことになるからです。考えてみれば、これはかなり高度な作業を行っていることになります。さらに、子どもがしつけに抵抗する時に高まる自分自身の無力感、いらだち、焦りといったものにも対応しなければなりません。子どももまた、恐れの高まる中でその低減を図って養育者にくっつくことではなく、(それはあるとしても)恐れと苦悩の中でその源泉に取り組む、というかなり情動的に困難な仕事をしているのだと言えそうです。

そのため養育者には、恐怖と安全を調和させ、自らのネガティブな情動と子どものネガティブな情動状態を同時に取り扱う、高度な能力が求められます。幼児に対する敏感性概念には、そのような要素が含まれることになるでしょう。

この状況を二者的に取り扱うとかなり大変です。つまり、養育者がしつけをしていて、子どもがしつけをされている、という関係になると、どうしても強制的な相互作用が生まれやすく、子どもにとっては脅威的な、迫害的な経験になりかねません。お互いにエスカレートすることになります。むしろ三項的にこれを扱うことが両者の緊張を和らげて、課題に取り組みやすくなるのではないかと思っています。つまり、養育者と、子どもと、取り組むべき行為の三項に分けるのです。本来的には取り組むべき行為(着替えだとか食事マナーだとかトイレの練習だとか)は養育者から持ち込まれるものですが、あたかもそれが外部の要請であるかのような顔をして(実際これは社会性に関わり、社会によって要求されているものですし)、これに取り組む子どもの情動調整と、行動のアシストをするという姿勢、ないしは発想を持つことが、しつけを行いやすくするのではないか、と考えています。

しつけをめぐって養育者が子どもと正面から対峙するよりも、子どもの横で取り組みを支える方が穏やかではないか、ということですね。いつもいつもそのように、穏やかなしつけができるわけではないとしても、ともすると二者的になりがちな相互作用を、三項化して、開いていくと、事態が深刻化しないのではないか、ということを考えますし、この三項化が難しい時には、子どもとの切迫した状況から抜け出せないということであるため、外部の支援を頼ることが必要なタイミングかなとも思います。

2歳から4歳くらいのしつけの時期って、結構大変な時期なのだなと考えてみて思いました。

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