安心の基地と安全な避難所

直接ここに掲載していいかどうか判断に迷うため、引用ではない形で書きますが、少し前に、ツイッターで子どもの安心の基地にはなれないけど、避難場所にならなれると思う、という趣旨の養育者のツイートを見かけまして、なるほど、と思ったので、それはどういうことなのかなと思い、書いています。

先に学術的な話を。

アタッチメント理論には重要な概念としてsecure baseというものがあります。ひところは安全基地と訳されていましたが、AinsworthやBowlbyがこれを心理的なものとしているために、今では(全てのアタッチメント研究者ではありませんが)「安心の基地」と訳すようになっています。ここでもその言葉を使っていきたいと思います。

これと並ぶ言葉に、safe havenというものもあります。こちらは「安全な避難所」と訳されています。

2つの言葉はアタッチメント理論ではこう区別されています。

安全な避難所:危険のサインに遭遇した時に逃げ帰るところ
安心の基地 :そこから探索に出かけるところ

モデル1について書いた時にも紹介した話ですが、子どもは危険のサインに遭遇すると、アタッチメントシステムが活性化し、アタッチメント対象(しばしば養育者)への近接を図ります。これがアタッチメント行動ですね。それによって保護と安心を得ようとします。この時のアタッチメント対象が安全な避難所と呼ばれるものです。養育者がこれにうまく応じられて、子どもが安心感を得ると、アタッチメントシステムは鎮まります。代わりに探索行動システムが活性化を始めます。そうして外界に向き合い、新しいことを経験し、学び、困難に挑戦します。これが探索行動です。この探索の足場になるアタッチメント対象の機能が安心の基地です。

ポイントは2つあります。

1つは、両者が連続的なものであること。子どもは安全な避難所としてのアタッチメント対象に逃げ込んで、安心の基地としてのアタッチメント対象を足場に探索に出かけます。同じアタッチメント対象の機能が順を追って安全な避難所から安心の基地へと変わるのですね。

もう1つは、それを決定するのは子どもであること。つまり、子どもが逃げ帰ればアタッチメント対象は安全な避難所としての機能を果たしていることになり、子どもが探索に出ていけば、同じアタッチメント対象が安心の基地としての機能を果たしていることになるのです。アタッチメント対象がどう呼ばれるかは、子ども次第ということです。

養育者に(そして支援者であっても)できるのは、危険のサインに遭遇して逃げ帰る子どもを保護し、危険を取り除けるのであれば取り除き、恐れを和らげ、危険に向き合えるようであればそれを支え、そのようにして逃げ帰る子どもを迎え入れる試みだけだと思うのです。

実のところ、両者をあまり区別せずに、安心の基地で両方を意味する研究者も少なくありません。日本でこの区別が明確にされるようになったのも、安心感の輪に基づくプログラムが紹介されるようになってからだと思います。冒頭のツイートはこれを意識してかしないでか、2つの概念を並べながら、両者に大きな違いがあることを養育者の観点から指摘している点で面白いなと思ったのです。

少なくとも理論的には、養育者が両者を区別して提供することはできない、もしくは、養育者が自分は安心の基地になれないと思う必要はないことになります。それを決めるのは子どもの行動だからです。もう少しいえば、自分が安全な避難所になれるか、安心の基地になれるか、は結果論だということなのです。

けれども、(支援者はともかく)養育者は研究者ではありませんので、実感としてそう感じるのであれば、その意味も大事なのでしょう。つまり養育者自身が安全な避難所にはなれても安心の基地になれない、と思うところには、おそらく研究者が立ち止まって考えるべき何かがあるのでしょう。

可能性としてあるかもしれないと思うのは、「安心」という言葉の重たさです。安全は物理的ですが、安心は心理的なものです。安全は外側から供給できますが、安心は子どもの中の経験です。子どもの中の経験まで決定できないという感覚があるのかもしれません。

このことには、2つの側面を考えることができます。1つは、他者の心の中は、たとえ自分の子どもであっても分からないし、それを意図的には作り出せない、という自他の境界をふまえた配慮の姿勢です。境界を犯されることの恐ろしさを知っていればいるほど、他者の境界を侵犯することにはとても敏感になるかもしれません。もう1つは、他者の心の中に安心感を作り出すような、手の届かない領域に影響を与える力は、持ちようがないという無力さの現われです。自分の関わりによって子どもの中に安心感が生まれることを想像できるほど、自分に自信を持てないのかもしれません。

それに加えて、もしも養育者自身がシグナルを自らのアタッチメント対象に受け取ってもらえる経験を重ねていなければ、恐れが安心感に変わるということそのものを想像することができない、ということもあるかもしれません。その場合、安心とはなんと縁遠い言葉なのだろうと、その言葉が現実的なものとは思えずに、手の届かない途方もないものを子どもに与えなければならない重責を感じてしまうことがあるかもしれません。

あるいは他にも可能性があるかもしれません(安心感とかエセ・ヒューマニストっぽくて気持ち悪い、とか)。

本当のところ、発言をされた方がどのような意図を持ってそう考えたのかは分かりません。研究や臨床であれば、「それはどういうことですか」ということを尋ねることになるでしょうが、ネットでそのやり取りをすることが適切かも分かりません。でも、その2つに大きな違いが知覚されることには、考えてみるべき何かがあると思ったので、考えてみました。

もともとアタッチメント理論を参照しての発言であったのかも分からないわけですが、少なくとも私たちが安心感について語る時、それが養育者に与える影響について、考える必要があるのでしょう(ということは以前にも書きましたが)。支援者に向けて語る時には、安心感をキーワードにしながら、恐れをケアすることに焦点を当てていますが、それでも、もしかしたら支援者にとっても負荷のかかるものであるかもしれない、ということも考えさせられますね。

万人のための言葉を紡げるほどに万能な人はいないとしても、虚空に向けて語りかけているわけではない以上、せめてどこにどのような影響が及ぶかは考えながら言葉を発せられるようになりたいと思いながらの記事でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?